第十三話 生物基礎と化学基礎
上空を飛ぶ気球などすぐに見つかってしまうのではないかと思ったが、意外にもそうではなかった。
よく見ると周囲には大小いくつもの気球が飛んでいて、高層ビルの窓にも気球が繋がれている。
私たちの乗った気球はすぐに他の気球に紛れてしまい、地上の煙幕が消えるころには、おそらく敵から見つけられることはないだろう。
「ケンイチ、大丈夫かな」
「くそう、俺たちの持ち物も没収されたままだ」
「ボクのふでばこも取られちゃった。えんぴつがないとお絵かきできないよ」
「鉛筆なら僕の研究室にもありますよ。申し遅れました。僕はアルカード。僕の機械人形を助けてくれて、ありがとうございます」
アルカードと名乗った男は、気球を操縦する手を止めて私たちのほうを振り返る。
二十代そこそこくらいだろうか。ケンイチよりも少し背が高く、長い銀髪を赤い紐で一つに束ねている。アルカードという名になんとなく聞き覚えがあるような気がしたが、思い出せない。
「これ、アルカードさんのロボだったんだ」
「いちから、僕が作ったんですよ」
「えー、すごい!」
話しているうちに、気球がビルの屋上に到着する。
都市の中心部にはまだ高い建物がいくつも見えるが、このビルは少し低い。十階建てのマンションくらいの高さに見えるが、下層には建物や通路や張り出したデッキが入り組んでいて、正確な高さは分からなかった。
「屋上庭園ですね。素敵」
「この町には畑を作れる土地がほとんどないですからね。収穫する野菜のほとんどは屋上菜園だったり、室内での水耕栽培ですよ」
アルカードは気球の空気を抜きながら説明してくれる。
屋上には所狭しと花や野菜が植えられていた。プランターやごく小さな温室もある。機械人形を肩に担いだまま階段に続くドアを開け、私たちについてくるように促す。
三階降りたところでドアを開けると、中は見たことのない機械や書物で埋め尽くされていた。アルカードはマットレスのないベッドのような台に機械人形を寝かせる。
「わー、すごい。ここがアルカードさんの研究室?」
「小規模ですけどね。お茶でも入れましょうか」
「ボク、おなかすいた!」
「こら、リョウ」
「お茶菓子もありますよ」
アルカードは笑いながら、私たちのために椅子をいくつか持ってきてくれた。
窓際の植木鉢が置かれた金属製の椅子や、本棚の傍らに置かれた箱椅子など、ばらばらなデザインの椅子にそれぞれが座る。
「ここは機械都市フォーレンの中心部なんですか?」
お茶を淹れているアルカードを手伝ったほうがいいのか迷いながら、なんとなく尋ねてみる。
「いえ、ここはまだ境界あたりですね。でも、旅人はあまりここまで来ないかも知れません」
「中心部には、許可がないと入れないんでしょ?」
「中枢への訪問が許可されることはほとんどないと思います」
「まじかー、ラインハルトさん、簡単そうにいってたのになあ」
「実際に来てみないとわからないものね」
アルカードが丸テーブルの上の図面を片付け、お茶と四角い焼き菓子を配膳してくれる。
「わーい、食べていい?」
「どうぞ。お口に合えばいいですが」
ミント系のハーブティーと、生姜に似たスパイスの入った甘い焼き菓子だった。朝からワニの串焼きを食べただけだったので、炭水化物の食べ物が身に染みる。
「クッキーうっま。ところで、なんで俺たち捕まりそうになったの?」
「ガーディアンを破壊したからでしょうね」
「やっぱ、あの石の化け物がガーディアンだったのか。あれが敵なのか、その子が敵なのか、分かんなかったんだよ」
「でも、ということはアルカードさんは敵ってこと?」
「だれに対しての、ですか?」
「うーん、機械都市?」
「それは難しい問題ですね」
「でも、アルカードさんはクッキーくれたし優しいよ」
リョウは両手にもった焼き菓子を交互に食べている。
「食べ物をくれるからって、だれにでもついていっちゃだめなんだよ、リョウ」
「ボク、そのくらい知ってるよ」
ユウカにたしなめられて、リョウは少し不機嫌になる。
「そのとおりですね。ここでは油断しないほうがいいです。だれが敵でだれが味方だか、わかったもんじゃない」
「かっこよ」
ヒロトはアルカードとこの研究室がすっかり気に入ったようだった。こちらが聞きたかったことを、うまく煙に巻かれたような気もするが、とりあえずは人心地つくこともできてありがたい。
「あなたたちはお父さんを助けに行くんでしょう」
「そのつもりですけど、今すぐ動いたほうがいいですか」
「選択肢は二つあります。監視を突破して脱獄を謀るか、戦略的に動くか」
「戦略的」
「見たところ、あなたたち家族はずいぶん遠くから来たようですね。この都市にない文明や文化を知っているのではないですか」
「そうだ、スマホ……。あー、しまった。あいつらに取られたまんまだ」
「アタシのカバン、教科書と筆箱しか入ってないよ」
ユウカがテーブルの上にカバンの中身を取り出す。
「ほう、それは」
アルカードはユウカの教科書に興味をしめしたようだった。
「これ? 生物基礎と化学基礎。どっちも超つまんないよ」
「ボクも、こくごとさんすうならあるよ。あとじゆうちょう」
「ユウカもリョウも、ずっと教科書持ち歩いてたの? えらいなー」
「ヒロトの教科書はどうしたのよ」
「教室の机の中に全部置いてきた」
アルカードは胸ポケットから銀縁の眼鏡を取り出し、化学の教科書を読み始める。
「アルカードさん、日本語わかる? ボクのこくごの教科書も貸してあげようか」
「ありがとう。これは助かります」
「えへへ」
リョウは嬉しそうに、座ったまま両足をバタバタさせる。
「なるほど、これならいけるかもしれませんね」
小学一年生の国語の教科書を眺めながら、アルカードはひとりごとのように呟いた。




