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バグ嬢が窓辺で呆然としている。
ニェトはライ卿について、様々なことを教えてくれた。体のどの部分も、強い毒がしみこんでいること。毒はものを腐らせる力もあり、だから腐りにくい素材の服しか着ないこと。手首を縛ったりしたら、縄が腐れて解けること。ライ卿の血をふりかけられただけでも死ぬおそれがあること。熱によってその毒が、ある程度分解されること。だから、ライ卿は、ナイフを煮るようにとおっしゃったんだわ……もっと苦しむというのは、毒が徐々に効くからかしら……。
傷の手当てを拒んだのも、わかる。幾ら婚約者なら害が限定的といっても、危険を冒したくなかったのだ。
「ライはいいやつだろう、スナー?」
ニェトが哀しそうに云う。「それなのにわたしは、彼を助けられない」
「……ニェトさま?」
「ああ」
「ライ卿は、薬を研究していると……」
ニェトは頷く。
「水の汚れをとる薬の研究だ。彼の血は、汚れた水と同じだから、血をつかって実験していると聴いた。いろいろな毒や薬を発明した彼だけれど、自分の毒を中和することはまだできていないらしい」
スナーは手洗いに立った。
戻って、侍女達の用意する薬と水を飲んだ。バグ嬢は窓辺にずっと立っている。
スナーはなんとなく、そちらへ歩いていった。薬のおかげか、痛みがゆるんでいる。
「何故、わたくし達が拐かされたか、尋ねても宜しいですか」
「ああ。あいつらは、ヤオカム家が皇家と親しいのが気にくわない貴族どもが、雇ったんだ。流れの傭兵らしい。パナ・ケイアが調べてくれているが、彼は優秀だから、すぐに首謀者も見付かるだろう。クリーチ家から妻を迎えたライが爵位を継いだら、ヤオカム家がもっと優遇されると考えているようだね。わたしは自分の好みで貴族達の処遇を決めたりしないのだが」
それはまったくそのとおりだろうと思えたので、スナーは頷く。ニェトはひいきだとか、不正だとか、そういうものには縁がないのだ。
ニェトはなんでもないみたいに云う。
「お粗末な計画だよ。首謀者はもう捉えてある。君達が助かったのは、主のご加護だということにすればいい。あながち、間違いでもない。ライ卿は主の為に呪いを背負っている」
ニェトも窓辺に歩いてきた。「ヤオカム邸に這入って、従僕の服を奪って、御者達を昏倒させ、馬車を奪って……その時に、愚かなものだから、雇った貴族の名前を出したんだ」
「まあ」
「君が抵抗したのもよかった。侍女達がとんぼ返りして、わたしに、スナーさまが拐かされたと訴えたからね」
バグがスナーの手首を掴んだ。
バグはもう片方の手で、ニェトの手首を掴んでいる。「バグ?」
「ライさま、の為に、命を失う。できる?」
バグの質問の意図はわかった。だからスナーは頷いた。ライ卿の為ならば、死んでしまっても文句は云わない。
驚いたことに、ニェトも頷いている。彼は、人間の罪を背負ってくれているライ卿を、憐れんでいるのだろう。スナーはそう思う。
そして、バグ嬢が頷いた。「そう。わたしも」
「ば――」
バグ嬢は信じられないくらいの力を出してふたりをひっぱり、三人はまとめて窓から落ちた。
ニェトの考えどおり、パナ・ケイアはすぐに誘拐の首謀者を見付けだした。やはりニェトの云っていたとおりに、ヤオカム家を目の敵にしている貴族達が計画したことだった。彼らにはそれ相応の処分がくだり、ライ・ヤオカムとスナー・クリーチの誘拐事件は幕を閉じた。
「お前達みたいなばかは見たことがない」
ライ卿が嘆いている。スナーは松葉杖をついて歩いていた。ニェトは、車椅子をバグにおしてもらって、笑っている。
不思議なことに、五階の窓から落ちたにしては、三人とも怪我はたいしたことがなかった。バグ嬢に至っては、軽い擦り傷だけだった。
驚いたのは、たまたまその場所を通りかかったライ卿である。左足首を折って痛がるスナーに、両脚を折ってうんうん唸っているニェト、顔に擦り傷を負って金切り声を上げながら跳びはねているバグ嬢を見付けたのだから。
もっとすすんだ治療をうけることもできたが、ふたりはそれを拒み、しばらく不自由な生活を楽しむことにした。そうでもしないと、貴婦人達が心変わりするのではないかと思ったからだ。
ライ卿の呪いは、解けた。
といっても、完全に解けた訳ではない。毒が弱くなっただけだ。
でも、ドブのような匂いは軽くなったし――あれは薬ではなく、彼の血の匂いだった――、髪を切るのにはさみが溶けることもなく、切った髪に素手で触れて昏倒する人間も居ない。そういうことがあったから、ライ卿は髪を伸ばしていたのだ。
けれど今も、彼は髪を伸ばしたままだ。まだ、髪を切ることに抵抗があるらしい。
四人はゆっくりと、宮廷の庭を移動している。
「主は、なんて?」
ライ卿が不機嫌げに聴く。ニェトは友人を親しげに仰ぐ。
「上出来だって」
「嘘だな」
「冗談と云ってよ」
「本当はなんと云っていたんだ」
「貴婦人達は、君にいい友達と婚約者が居るのを、喜んでいるって」
ライ卿は黙りこみ、スナーはその顔を覗きこもうとする。彼ははずかしいのか、目を合わせてくれない。
ニェトは車椅子をおすバグ嬢の手を、軽く撫でた。
「これは、君だけのことだとも云われたよ。呪いは完全に解けていない。君の子孫には、前の君くらい強い毒を体に持った者がうまれてくる」
「……貴婦人達に、けちなことをするなと伝えておいてくれ」
「ライ」
ニェトは微笑む。
「わたし達が尽力しよう。これから、貴婦人達を哀しませないように、君の代で呪いが終わるように」
「不可能だ……と云いたいけれど、お前が云うとできそうな気もする」
ライ卿は肩をすくめる。「研究は続けるよ。毒を中和する研究と、これ以上水を汚さない研究を」
「学校に研究室を設けようと思っている。そのことで、スナーを呼び出したんだ。君に教授の席を」
「いらない」
ライ卿はスナーを振り返る。
「兄がやっと、結婚してくれたから、婚約者をつれて邦へ戻るよ。あっちには沼が沢山ある。呪われてる僕なら、貴婦人達に、直に文句を云えるしね」
ライ卿は微笑んだ。「スナー、僕の花嫁さん。呪われた男と結婚する気は、まだある?」
スナーは元気よくはいと答えた。