8
スナーが目を覚ましたことに、誰も気付いていないようだった。
声が聴こえてくる。あの後、と、スナーは記憶をたぐる。
あの後、馬車におしこめられて、馬車のなかにはライ卿が居た。ライ卿はぐったりして、気を失っていた。スナーは悲鳴をあげ、頭になにか衝撃があって、そこから記憶がない。
おかしいと思ったのは、ライ卿の香りがしたからだ。ライ卿はスナーが馬車で移動する時、絶対に自分と同じ馬車にしないし、同じ馬車をつかわせもしない。だから、馬車にのるとライ卿の香りがしなくて、少々淋しい。
だがあの時、馬車のなかからライ卿の香りがした。
スナーは頭痛に顔をしかめ、呻きをこらえる。両手は後ろ手に縛られていた。手首が痛い。
不名誉な出来事は起こっていないようだった。それだけはよかったと、スナーは思う。物事は、いい面を見なくては。
ライ卿の香りはまだしている。彼が近くに居る。
どこに居るのかはすぐにわかった。ヤオカムの従僕の格好をした男、それに御者をしていた男達が立っている。その向こうに、どた靴と野暮ったい厚手のずぼんが見えた。どうやら、ライ卿は座っているらしい。
座らされている、か。
声が段々、はっきりしてくる。耳鳴りがする。
「だから、爵位の相続を放棄するんだ。そうすれば、悪いようにはしない」
ライ卿が鼻を鳴らすのが聴こえる。
「僕は厄介ごとに興味はない。爵位を継ぐつもりはない」
「だったらどうして、あんな後ろ盾を得た? クリーチ家の娘と」
「それは主の気まぐれで、僕の責任じゃない。文句なら彼女に判断力を失わせた主に云え」
相変わらず、捉えどころがない調子だ。「彼女を解放しろ」
「ばかなことを云うな」
「ばかはお前達だ」
「あの娘を殺せばお前は爵位を継げなくなる」
ライ卿が低く笑った。
「僕に爵位を継がせたくないのなら、僕をとっとと殺してしまえばいいだろ。彼女は自由にしてやれ」
「ライ卿」
声が出た。
スナーはがんがん痛む頭で、叫ぶ。「なにをおっしゃってますの」
その後はあっという間だった。
男のひとりがスナーに向かって歩いてきた、と思ったら、突然倒れた。「彼女に手を出すなと云っているのが、聴こえないのか? あ?」
低く、脅しつけるような声だ。ライ卿の声はひび割れ、二重三重に聴こえる。
後のふたりが息をのみ、後退る。
スナーは痛む頭でライ卿を見る。
「お前達は本当にばかだなあ。僕を殺せよ。僕を。彼女に手を出すんじゃない」
音をたてて、縄が落ちた。ライ卿を縛っていたものだろう。男達が悲鳴をあげる。
ライ卿が立ち上がった。左手首から血が滴る。
「僕を殺せば、お前達はもっと苦しんだんだがな」
ぎゃあっと叫び声がして、男達がその場に倒れた。
目を開けると、清潔なベッドの上だった。
規則的な音に目を遣る。バグ嬢が跳びはねていた。一定の速度で、同じように、一ヶ所で。
「スナー」
クッションに寄りかかっているスナーには、ベッドの足許に立つニェトと、ライ卿、扉に背をつけて錠のかわりをしているらしいパナ・ケイア卿を見た。
皇太子が云う。「ここはバグの部屋だ。君はライ卿と一緒に拐かされて、怪我をした。覚えているか?」
「……はい」
ライ卿はせなかをまるめ、ほっとしたみたいに息を吐いた。ニェトが更に云う。
「では……拐かされた後に、なにがあったか、覚えているか?」
「いいえ」
スナーは久し振りに、ニェトに真実を云わなかった。
ライ卿が姿勢を正す。
ニェトはにっこりする。
「そうか。ライ卿もなにも覚えていないそうなんだ。君らを拐かした三人組は、今治療を施しているが、どうなるか……パナ・ケイア、スナーもなにも覚えていないと報告してきてくれ」
パナ・ケイア卿はにんまりして頷き、出ていった。
バグ嬢はずっと、跳ねている。
ライ卿は扉近くに座りこんだ。無作法にも、床へ座ったのだ。
ニェトは姿勢よく立っている。
スナーは自由に動く左手でこめかみをおさえ、手首に縄の跡がついているのを見てうんざりした。
「なにがどうなっているのか、聴かせて戴けます?」
「僕は呪われてる」
ライ卿はなんでもないように云う。
「ほんと云うと、君にはきちんと話しておくべきだったのにしなかった。それは僕が悪い。でも君だって悪いところはある。まともな令嬢だったら、沼の貴公子との結婚を受け容れはしない。ついでに云うと、まともな皇太子はうら若い乙女を動揺させるようなやりかたで婚約を破棄したりしない」
「それはわたしも悪かったと思っているよ、ライ」
ニェトは思った以上に気易い調子でライ卿に云い、苦く笑った。「だが、わたしの目には、君とスナーは似合いに見える。君が自分からではなくわたしから婚約のことを伝えさせたから、困ったが」
それで困っていたのか、とスナーは妙に納得した。ニェトらしい困りかただ。彼は杓子定規で、当人同士が確実に納得した婚約というものを好む。
ライ卿は肩をすくめた。
「夫婦のことはまわりにはわからないって言葉を知らないか? 婚約している同士のことならもっとわからない。婚約前に似合いかどうかを見るなんて、そんな芸当ができる皇太子だったのか、君は」
「わたしにできないことがあると云いたいのかな」
「あるだろう。君は一般的な知性の人間と会話することがどうにもできない。僕は一般的な知性をしている。君みたいに罰当たりな天才じゃない」
不敬間違いなしのことを喚いて、ライ卿は溜め息を吐いた。
スナーはこめかみから手をはなす。
「呪いとは、なんですの」
「彼が湖沼地帯の出身と云うことは?」
頷く。
ニェトも頷いた。
「それなら話ははやい。……〈災厄〉の時に、世界中の水がけがれた。人間はそれを飲むと死んでしまう。聖典にそう書いてあることは、知っているね」
「勿論です」
聖典は、貴族の子どもなら十年かけて読むのが普通だ。そうでなくても、〈災厄〉に関することなら知っている。
それにスナーは、いずれ王妃になると、厳しい教育をうけてきたのだ。聖典は普通よりも読み込んでいる。
「それが、ライ卿にどう、関わるのですか」
「僕は沼の貴婦人に呪われているんだよ。〈災厄〉で直接的に水をけがしたのは人間だ」
ライ卿は肩をすくめる。「泉の貴婦人も、湖の貴婦人も、水に関わる貴婦人がたは皆、我が家を呪ってるんだ。僕の体には毒がたまっている。かわりに、世のなかには綺麗な水が沢山ある」
〈災厄〉。
今から数千年前に起こったとされる、世界の崩潰だ。
それまでは人間は繁栄をきわめ、世界中にあふれていた。
しかし、人間達は愚かにも争いを繰り返し、その所為で星が落ちてきて、世界中の水が腐り、大地は毒で充ち、人間達は燃え死んでいった。
わずかに残った人間達は、主の導きで水や大地をもとに戻した。
それが、聖典に描かれていることだ。だが実際には、少し違う、とニェトやライ卿は云う。
「主は人間に失望しておいでだった。僕らを助けてくれたのは、貴婦人達だ」
「そんな……」
「今は主も、お怒りを鎮め、僕達を導いてくださっている。でも、最初の最初は、貴婦人達が尽力してくれたんだよ」
貴婦人、というのは、精霊達だ。主につかわされたモノ。人間と違うなんらかの力を持ったモノ。
「確たる証拠がございますの?」
「主にたずねた」
ニェトがなんでもないように云う。スナーは口を半分開いてかたまる。
ニェトはなんでもないみたいに云った。
「きちんと手順は踏んだよ。聖典に書いてある方法をためした。主はとても気さくなかたで、わたし達の聖典には間違っているところが多いことを教えてくれた」
「聖典を書きかえるなんていいだすから、やめろと停めたんだ」
ライ卿が継ぐ。ニェトは肩をすくめた。
「しかし、その所為で君がばかみたいな目にあっているじゃないか」
今度はライ卿が肩をすくめる。
「呪いとは具体的に、なんですの」
「僕の体は毒だ。長時間、せまい空間で一緒に居ると死ぬ」
ライ卿はそう云ってから、左手を挙げた。「今は、窓が開いているから問題ないよ」
「その……呪いは、どうして?」
「ヤオカムの祖先は愚かな条件で貴婦人達に助けてもらった。貴婦人達だってこんなことをしたくないだろうさ。世界中の水が汚されなくなるか、呪われた人間の為に命を失ってくれるひとがあらわれれば、ヤオカムの呪いは解ける」
「そんな……」
「不可能な条件を出さないと無理な呪いだったんだ。代償は大きいほうが、効果も大きい。僕のような呪われた人間がうまれ、かわりに世のなかの水は美しさを保っていられる。ま、呪いが解けてしまったら、世のなかの水はまたひどく汚れ続けるんだ。ヤオカムの呪いが続いているほうが、人間には好都合ということだよ。問題ないだろう」
スナーが、ありますわ、と云うのと、ニェトがあると云うのとが、同時だった。ライ卿は呆れたみたいに天井を仰ぐ。
「ばかばかりじゃないか、この国は?」
「ライ。冗談を云ってるんじゃないんだ」
ニェトが云う。「実際のところ、君は子どもを持てないかもしれない」
「それはない」ライ卿が切り返す。「貴婦人達は女だから賢い。呪われた人間の母は無事だ。婚約していたり、結婚している相手にも、毒の効果は限定的になる。三日くらい抱き合ってでもいなければ害はない。じゃなくちゃ口付けなどするものか」
吐き捨てて、ライ卿は立ち上がった。
「外に出てくる。ここの空気もいれかえたほうがいい」