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独特な香りと、奇妙な格好、それにほとんどの時間を部屋に閉じこもってすごしていることを覗いて、ライ卿はまったく理性的でまともな人間だった。
香りに関しては、とおまわしに入浴をすすめたが、どうにもならない。ほとんど肌を出さない格好しかしたがらないのも、どうしようもなかった。
部屋に閉じこもっているのは、薬の研究の為であるらしい。ライ卿は薬学科だった。研究室に残ろうとしていたらしいが、学校側が承知しなかったという。
「どうしてでしょうね」
並んでの朝の散歩の時、本当に疑問だったのでそう云うと、ライ卿はくすっとした。
「どうしてもこうしてもない。僕の見た目が悪い。あたらしく入学する生徒達が、僕をこわがる」
「こわがるなんて」
「君だって、僕の見た目をなんとかしようとしているじゃないか?」
「こわいからではございません」
断言するスナーに、ライ卿は尚更笑った。
部屋は、もっといいところを、とライ卿は云っていたけれど、結局それは空手形になった。ライ卿の兄が承知しなかったらしい。充分いい部屋なので、スナーはなにも文句を云わない。
「僕の花嫁さん?」
控えめに扉を叩く音がして、ライ卿の声がした。窓から外を眺めていたスナーは扉へ向かう。ライ卿はスナーの名前を呼ばない。
錠を外し、扉を開けた。「用心深いね。いいことだ」
「ライ卿、この部屋の鍵をお持ちではありませんの?」
「持っているけれど、礼を失する気はない」
ライ卿は端的に答え、左手に持った壜をこちらへさしだす。「僕がつくったもので悪いけど、洗髪剤だよ」
「まあ」
両手でうけとる。湯殿にも洗髪剤はあったが、髪をうまく洗えなかった。
頭を下げる。「ありがとうございます」
「気にしないで、僕の花嫁さん。君がほしがっているものを与えられないのが悪いんだから」
前日に、ほしいものはないか訊かれて、リストをつくったのだ。そのほとんどが、事情があって入手できないとのことだった。
「せっけんやなにかも、僕のつくったものになるけれど、いいかな?」
「はい。充分です」
「やけに僕を信頼してくれるんだね」
「あら、信頼しない理由がございませんもの」
ライ卿はくすくす笑う。
スナーもそうした。
ジャシ皇国は、〈災厄〉後に興った幾つかの国のなかで、一番大きい……と云われる。ほかの国との交渉はほとんどない。だから正しいところはわからない。
しかし少なくとも、皇都がひろいのは真実だ。
スナーはゆっくりと、南西市場を歩いていた。まわりには侍女が居る。南西市場はヤオカム上邸から目と鼻の先で、窓からいつも眺めていた。
ずっと閉じこめていたら悪いから、と、ライ卿が外出の許可をくれたのだ。スナーは侍女をつれ、まっさきに南西市場へ向かった。芝居も、仕立屋も、興味はない。
侍女達はスナーに日傘をさしかけながら、戸惑い顔だ。折角外出できるのだから、もっと華やいだところへ行くと思ったのだろう。
だがスナーは、目的があった。今が旬の野菜だ。旬の野菜で、ライ卿に栄養をとらせようと考えた。
ライ卿は顔色があまりよくない。旬のものを食べると、滋養になると聴く。だから、ライ卿に食べさせてあげたい。
鏡のような長い髪をなびかせ、侍女をひきつれて歩くスナーはあきらかに貴族だ。しかし、民衆は騒ぐことはない。おそらくヤオカム上邸から出てきたからだろうと、スナーは推測している。
ひそひそ声が耳にはいってきていた。あれが、ライ卿をおしつけられた、おかわいそうな令嬢……うすのろと変わり者でいい組み合わせだったのに、皇太子も酷なことをなさる……しかもあの変わり者は、可哀相な令嬢を閉じこめていたそうだ……。
スナーはなにも聴いていないことにした。兄と同じで、口さがない愚か者はどこにでも居るのだ。
「ライ卿は、お嫌いなものあるのかしら」
野菜を積み上げて売っている店の前で、スナーは立ち停まり、侍女達に問いかけた。侍女達は顔を見合わせる。
「特には……」
「うかがっておりません」
「ライさまは、わたし達に怒るようなことはございませんから……」
返事も戸惑っている。スナーはくすっとした。ライ卿らしい、と思ったのだ。彼はひょうひょうとしていて、つかみどころがない。
結局、スナーは一部が黒くなったトマトや、曲がったきゅうり、ひびのはいったまくわうりなどを買って、侍女達に持たせ、ヤオカムの上屋敷へ戻った。簡単なサラダをつくって、ライ卿へ持っていって、と侍女へ命ずる。
その晩、ライ卿からはお返しに、短い詩が届いた。彼らしい、とらえどころのない、ふわふわとした詩だった。
スナーはそれから度々、市場へ行った。雨の日は、ライ卿との朝の散歩は中止されるが、スナーが市場へ通うのはそれくらいでは停まらなかった。
旬のものを幾らか買い求め、簡単な料理をつくってライ卿へおくる。ライ卿は詩を返してくれたり、リボンをくれたり、お菓子を寄越したりする。そういうやりとりが続いた。
ただし、実際に顔を合わせると、その話はしなかった。どちらもほかに話したいことがあったのだ。といっても、小難しい話や、政治的なことではない。ただ、庭に咲いた花のことを云い、夜空の星について語り、雨が降れば雨のことを喋る。それだけだった。
だが、それでもスナーは楽しかったし、ライ卿も楽しんでいるように思えた。これはわたくしがうぬぼれているのかしら、とスナーは少し、なやんだ。
どの部屋に這入ってもいいし、好きなようにすごしてかまわない。ライ卿はそう云ってくれていたから、彼が部屋にこもって薬をつくっている間、スナーは市場へ行くか、でなくば、上邸のなかを歩きまわった。
外へ出る分には、スナーはクリーチ家の令嬢でもあるし、ヤオカム家次男の婚約者でもあるから、侍女や従僕が護衛につく。けれど、上邸内をうろつきまわるのは、なんの危険もない。したがって、護衛はつかない。
スナーは自分の部屋の近くから探検していた。ひと月が経ち、上邸の地下にまで到達したスナーは、婚約者が重たそうな扉をおしあけ、左腕から血を滴らせて出てくるところに遭遇した。