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 ライ卿はスナーに近寄ろうとしなかった。手も握らない。ただ、それなりに離れた距離でも、なんとも云えない香りが彼から漂ってくるのは感じられた。

 端的に云えば、()()()。雨上がりにうっかり泥、というよりもドブのなかに転んでしまったような香りだ。

 ライ卿自身、その匂いに気付いているようで、馬車は別だった。皇立学校から移動すること一時間、ヤオカム家の侍女の手をかりて馬車を降りたスナーは、ヤオカムの上邸を仰いだ。

 貴族の上邸と云えば、王宮以外の建物より立派なのは当然なのだが、ヤオカムの上邸はまた特別に立派だった。尖塔が幾つも見える。天を突くように高い建物だ。

「君の部屋はあの辺りだそうだ」

 暗闇のなかからぬっとあらわれた婚約者殿が、ついと、尖塔のひとつをゆびさした。腕が長く、身長が高いのだろうと思うが、姿勢が悪いのでそれがよくわからない。

 ライ卿は従僕が持ってきたランタンを掴み、スナーを見る。「案内しよう。君、道順を覚えるのは得意かい?」

「一度通ったら忘れませんわ」

「それはいい」

 ライ卿は楽しそうに云って、歩き出す。スナーはそれを追った。




 ヤオカム上邸は、外から見るよりも複雑で物々しい構造をしていた。敵対している貴族からの襲撃に備え、どこの上邸も複雑で覚えにくい構造にするのは当然だが、ヤオカム上邸は度を超している。

 だが、スナーはそれを覚えた。東西南北が頭のなかではっきりとわかるから、迷うことはない。

 問題なのは、いつの間にか、一緒に居た筈の従僕や侍女が姿を消し、ライ卿とふたりきりになっていることだ。このまま同じ部屋に這入れば、早速夫婦としての契りをという話になるかもしれない。


 スナーは少し考え、それも仕方のないことだと結論した。なんにせよ、婚約を受け容れたのは自分なのだ。

「鍵はこれ」

 ライ卿はローブから鍵をとりだし、振った。スナーはランタンの頼りない灯でそれを見る。どういう訳だか、ヤオカム上邸は玄関広間をのぞいて、まともに灯を点していない。

 長く、わずかにゆがんだような廊下を行くと、つきあたりに扉があった。ライ卿が鍵穴に鍵をさしこむと、解錠された音が聴こえる。

 ライ卿はスナーへ、鍵を投げて寄越した。スナーはそれを両手でうけとる。

「ああ、ごめんね」ライ卿は簡単に謝る。「僕はこのとおりの()()だから、ご婦人に近寄るのは申し訳ない」

 スナーは同意も否定もしかね、黙る。


 部屋は二間で、居間と寝室、それに手洗いと簡単な湯殿、軽食をつくるのなら困らないくらいの台所もついていた。おそらく、長期滞在する客人用の部屋なだろう。

「よいお部屋を、ありがとうございます」

「いや。君は僕の婚約者なのだから、もっといい部屋を用意してもよかったんだけどね。侍女をどっさりつけてあげたいところだが」

 ライ卿は思案げに、顎に手を遣った。髪をそのままに、顎を撫でる。「しかし、家財はすべて兄のものだ。僕が裁量できる範囲で、最高の部屋だから、勘弁してもらえるかな」

「充分、よくして戴いております」

 ライ卿の云うことはわかる。兄が爵位を継げるかどうかなのに、上邸のことと云え不用意にあれこれ指示したら、越権行為ととられかねない。そういう意味だ。

 ライ卿は頷く。

「兄へは〈手紙〉をさしあげたから、明日にも返事が来る。いい部屋に移ってもらえるだろう」

「お気遣い、ありがとうございます、ライ卿」

「呼び捨てでかまわない」

「かしこまりました、ライ卿」

 ライ卿は少し笑ったらしい。その咽が、ごぼごぼと溺れるような音をたてていた。


 スナーは慌てたが、ライ卿が片手をこちらへ突き出す。

「ちょっと患っているんだ。気にしないで」

「まあ……」

 スナーは眉をひそめる。もしかして、ニェトさまが困った様子だったのは、これでかしら? 患っているかたに、わたくしのような気の強い女をおしつけるのは、気が咎めたのかもしれない。

 スナーが眉をひそめたのをどう思ったか、ライ卿は数歩離れた。

「勿論、うつるものじゃない。安心していいよ」

「そのような心配はしていませんわ。ですが、大丈夫ですの?」

「ああ」ライ卿はつめたく云う。「これは宿業だからね」

 ライ卿は、また明日、と云い、出ていった。

 スナーはしばらくじっとしていたが、窓を開け、灯のまぶしい皇都を見下ろした。星はなく、月が煌々と照っている。

 室内を振り返る。テーブルに置いたランタンだけが、室内を照らしていた。

 スナーは息を吐いて、とりあえず眠ることにした。




「こうしてみると、(しゅ)の決断はいかがなものかと思うね」

 翌朝、広間へ来るようにと云われ、侍女の案内で赴くと、ライ卿がお茶をすすりながらサンドウィッチを食べていた。

 長いテーブルの端と端に分かれ、スナーも運ばれてきた食事を摂取する。

「どういう意味でしょう」

「君が婚約をうけてくれるなんて、昨日は(しゅ)の休みの日だったのだろうね。こちらから断ったら君の名に傷が付くと思って、僕は云わなかったんだ。沼の貴公子にいいよられるなんて、並みの女性だったら気を失っている。勿論、振られるのは相当な屈辱だから、憤死しかねない。だから僕は、君が気を失うほうに賭けた」

 ライ卿が婚約者の交換を云いだした理由は、そういうことらしい。スナーは頷き、慌てて頭を振る。

「気を失うなど、そのようなことございませんわ」

「気を遣ってくれなくてもいい。僕は令嬢達にきらわれている」

 卑屈でもなく、どちらかというと楽しむように云い、ライ卿は片手をあげた。すぐに、従僕がお茶のおかわりを持ってくる。

 スナーはなんとも云いかねて、話題を戻した。

「あの。(しゅ)の決断とおっしゃると?」

「ああ、きょうだいの婚約の逸話だよ」

「あ……」

 スナーは頷いて、お茶をすする。


 世界が破壊された〈災厄〉のあと、(しゅ)は人間達を導いた。その(しゅ)の逸話のひとつが、「きょうだいの婚約」だ。

 あるところに夫婦がおり、子どもをふたり得た。兄と妹だ。

 また別のところの夫婦も、子どもをふたり得た。こちらは姉と弟だ。

 しかし、〈災厄〉直後の世界は混乱しており、夫婦はどちらも病で死んだ。

 子ども達は別々の大人にひきとられ、別れ別れになる。

 長じて、兄と妹、姉と弟が巡り会い、あろうことか婚約してしまう。

 しかし、結婚前に、(しゅ)のお力でそれが発覚した。

 そこで(しゅ)は、それぞれの婚約者を交換することを提案し、きょうだいふた組はそれを受け容れて、兄と姉、妹と弟で結婚した。


 その逸話に基づいて、婚約者の交換は行われる。神聖なものなので、覆されることはあってはならないし、別の人間との結婚もゆるされない。

 スナーはサンドウィッチを掴む。

「わたくしは、(しゅ)は正しい決断をされたと思います」

「その所為で君は、沼の貴公子と結婚する運命にある訳だけれど?」

「なんの不満もございませんわ」

 ニェトと喋るのに慣れたスナーは、真実を云った。

 ライ卿は笑った。




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