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沼の貴公子、というのの意味がわかった気がする。立ち上がって、あらたな婚約者を迎えたスナーは、そう思った。
いや……沼と云うより、汚泥、もしくは耕盤の所為で水はけの悪い畑の、ドブくさい水溜まりのような色の髪だ。それも、脂じみてところどころ束になり、肩に垂れている。腰辺りまである長い髪だが、手入れした様子はない。
どうやら彼は博愛主義らしく、前髪も平等に扱っていた。長いのだ。とにかく長い。その長い前髪の間から、すかすようにしてスナーと兄を見ている。
「やあ」
ヤオカムの次男の声は、掠れ、老人のようだった。「これが僕のあたらしい花嫁さんか」
スナーがなにも云えないでいると、兄が高らかに笑った。
「ライ卿、早速妹を迎えに来たのか。これはありがたい。妹は領地に戻るのをいやがっていてな。あなたのもとへ一刻もはやく参りたいそうだ」
「お兄さま!」
「持参金は後からおくろう。不出来な妹だが、持って帰ってくれ」
兄は最後に、スナーに特別きついひと睨みを寄越し、肩を怒らせて出ていった。従僕が兄に頭を下げ、扉を閉める。
ヤオカムの次男、ライ・ヤオカム卿は、あいている椅子に腰掛けた。
スナーも三度、椅子に座った。今夜は何度、立ったり座ったりを繰り返せばいいのだろう。
ライ卿は前髪越しに、スナーをまじまじと見ている。紳士らしからぬ無作法だ。スナーはけれど、それを咎めることなく、ライ卿を見詰め返した。
「卒業記念の宴に赴くにしては、随分、かわった格好をなさっていますのね?」
実際のところ、ライ卿はおかしな格好をしていた。もう夏が来るというのに、冬用のような立派な長靴を履いている。勿論、宴用のブリーチズもはいておらず、ごわごわした厚手のながずぼんをはいていた。黒いローブは上等な生地らしいが、その下に着ているシャツはよれよれで、しみが散見される。
「喪服を着ている君に云われたくないよ」
ライ卿は笑い含みに返してきた。スナーはきょとんとしてから、自分が来ている白のドレスを見る。
それから、くすっと笑った。
「おっしゃるとおりですわ。でも、少し前に父が事故死しましたの」
「ああ……僕も、少し前に父を亡くしたよ。兄さんは跡を継ぐ為に、お嫁さんさがしで大変なんだ」
ジャシ皇国では、結婚していないと爵位を継げない。
もしかして、その為に婚約者の交換を持ちかけたのかしら、と、スナーはちょっと考えた。爵位が三月以上空白のままなのはゆるされないので、それまでに結婚できなかった場合は、結婚している弟や妹が爵位を継ぐのだ。
ライ卿の顔はほとんど見えない。なので、表情を伺うことも不可能だ。それでスナーは、その疑念を胸に仕舞いこんだ。
ライ卿が従僕を呼び、指示すると、いい香りのお茶とお菓子が運ばれてきた。スナーは、従僕達が小さなテーブルを持ってきて、自分の前に置くのを、ぼんやり見ている。
「お父上のことは、哀しいだろう」
ライ卿が淡々と云う。
スナーはそれを見て、小首を傾げた。
「あの……?」
「気分が落ち着くお茶と、お菓子だよ。食べるといい。ヤオカム家の上邸に、君の部屋を用意するから、しばらくそこに居てくれるかな。今、実家に君をつれて帰りたくない」
ライ卿の云うことはわかった。ヤオカム家は順調に爵位を受け継ぐことができていない。そこへ、皇太子と神聖な儀式でもって交換した婚約者をつれて戻ったら、そしてその婚約者が別の家を継ぐ使命のない人間だったら、ヤオカムの家中に余計な災難を振りまきかねない。
スナーは頷いて、承知いたしました、と答えた。成程、さすがニェトさまだわ。わたくしに害が及ばぬように、思慮深くて頼もしいかたをあてがってくださったのね。
ライ卿はどうやら微笑んだらしかったが、脂じみた前髪ではっきりしなかった。
スナーはお茶を飲み、安堵の息を吐く。ものは考えようではないかしら。ニェトさまの知性の邪魔をする生涯を送るようなこともなく、バグ嬢のしあわせにも貢献し、愚鈍な兄とは縁が切れた。そして、かわった風貌だけれど頼れそうな婚約者を得ている。
まるく収まったというやつね、と、スナーは真実そう思った。