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猫の舌をあげる

作者: 傘 ハヂメ

 わたしは普通の女性だと思う。ごく普通、きわめて一般的な二十代。

 普通ではないところがあるとすれば、今のわたしの思考だろう。いつもは絶対に考えないようなことを、こうしてひとりベンチに座り考えているのだから、今日のわたしは普通じゃない。


 わたし以外の普通の女性は恋愛に興味があるのか?

 人それぞれだ。そんなものを一括りにしようとするのが、そもそもおかしい。わたしが「ない側」にいるだけだ。


 人の恋心を否定するつもりはないけれど「うそ? 町田ちゃん付き合ったことないの? なんで? 好きな人出来たことないの!?」と友達に大仰に騒がれたことがあるので、自分からそういう話題を他人に振ることもない。


 あらためて思えば二十七年生きてきて、ただの一度も恋愛などしたことがなかった。

 中高、そして大学と、一緒に遊ぶような男友達はいたけれど、ただ、それだけ。

 本当に「いるだけ」だった。


「そういえば淳史は元気かな……」


 近所に住んでいた幼馴染を思い出す。かれこれ五年以上会っていないし連絡も取っていない。

 昔はそこそこ仲は良かったのに、今はもう文字のやり取りすらしていないことにも、なんの感慨もわかない。


「ま、この年にもなればそういうものだろうし、生きていくに困らないけどね……」


 過去何度か男の人に告白はされたけれど、付き合ったことはない。

 そもそも「付き合って」と言われても、その人となにをどうしたいという気持ちが沸かなかった。


 友達を見れば、それこそごく普通の恋愛をして、それなりのことをして、その後は上手くいったり別れたり。

 その儀式にも似た行為を自分がしなければならないということに、どうにも実感が持てなかった。だから、この年まで恋愛というものを知らずに生きてきた。


 特段と珍しい話でもないだろう。独り身の女など沢山いるし恋愛に興味のない者は男女問わずにごまんといる。わたしだけが特別なわけではない。


 本当に今日のわたしはどうかしているな……。

 飲みかけのブラックコーヒーを口元に寄せ、その香りに心を委ねれば仕事の疲れと午後の気だるさが少しだけ癒される。


「お疲れさまです。町田さん」

「安西くん? お疲れさま」


 社内の休憩コーナーで休むわたしに声を掛けてきたのは二つ後輩の安西君。

 かつて新入社員だった彼を当時わたしが面倒をみることになった。あの頃はまだ大学生気分が抜けていなかった彼が、今では当たり前のように社会人として働いているのが、少しだけ可笑しい。


 安西君は適度にまじめで、適度に明るく、適度に良い人。こう言ってはなんだけれど「普通の人」というのがピッタリの男性だ。


「このミル挽き自販機良いですよね。味は普通ですけど香りが最高です」

「わかる。わたしもこの香りが好き。でも導入直後はこの辺りに凄い香りが漂ってたよね。ここに近づくだけでコーヒー臭かったじゃない」

「そうですねぇ。まぁ、もう慣れちゃいましたけどね」

「そうね。わたしも慣れちゃったな」


 そうなのだろうか。本当に慣れたのだろうか。

 本当に慣れたのかもしれないし、業者が臭気を緩和する対策をしたのかもしれない。

 いずれにせよ、気にならなくなった、という事実は変わらない。


 彼はコーヒーを買うと、ベンチに座るわたしの少し離れた所に腰かけた。


「町田さんが、この時間に休憩しているのって珍しいですね」

「うーん? まぁ、そうかも。ちょっと仕事に身が入らなくてね。みんなと時間をずらして、一人で少しくつろぎたかったんだ」

「あ、おれ。行きましょうか?」

「ううん、行かなくていいよ。騒がしくしたくなかっただけで、一人きりになりたいってわけじゃないから」

「なんかあったんですか?」


 なにかあったのかと聞かれれば、きっと、なにもなかったのだろう。


「特になにも。ただ、高校時代の友達が結婚するって連絡がきただけ」

「あ、おめでとうございます」

「あはは、別にわたしが結婚するわけじゃないから」

「それもそうですね」

「まぁ、結婚式には行くつもりだけどね。あの子って昔からイベントに拘るんだよね」

「そういう人っていますよね」

「うん。ただ、意表をつくのも好きなんだよね、あの子。だから派手婚と思って行ってみたら、案外地味婚だったりとかね」

「面白そうな人ですね」

「まわりは振り回されて大変なんだから。あのテンションで結婚生活とか、どうなることやら」

「あはは。まぁ、ぼくは普通の穏やかな生活が好きですね」

「うん、安西君を見ればなんかわかる」

「えぇ? どういう意味ですか」

「ふふ、悪い意味じゃないよ」


 彼女の中ではわたしが参加しないというのは全くの想定外だろうし、わたしも彼女を祝福したいので当然参加するつもり。

 まぁ、あの賑やかな子が選んだお相手はどんな人なのかという、純粋な興味もあるわけだけど。


「女性は着ていくものを選ばないとならないですし大変ですよね」

「そうだねぇ。そういうわけで式の当日に何を着ていこうかなぁ、とか考えてたんだ」

「あぁ、そういうことですか」


 そんなことはまったく考えていなかったけれど安西君は納得してくれたようだ。


「おれはそういう時でもレンタルの黒スーツで済むから気楽ですよ」

「安西君はフォーマルスーツは持ってないんだ?」

「はい。頻繁に使うこともないし、必要な時に借りればいいかなって。衣装持ちじゃないんですよ。おれ」

「そうなんだ」


 そういえば彼は築三十年以上は経っているワンルームアパートに住んでいると以前聞いたことがあるのを思い出す。

 収納が限られているのだから、持ち物を吟味するのは当たり前か。


「何もないのも大変かもね……」

「え、何がですか?」


 わたしの何気なく呟いてしまった言葉に安西君が反応してしまった。

 特に何かを考えていたわけではないのに、わたしは何を言っているのか。


「ううん、意味はないの。ただ、友達も結婚するような年なんだよなぁ、って考えていたらね? なんか言葉に出ちゃったんだ」

「あぁ、なるほど。たしかにおれの友達も何人か結婚したやつがいるんですけど、最初の時はおめでとうってよりも「え?」ってなっちゃいましたよ」

「そうそう。なんか変な気持ちになるよね。そういう年になったのかぁっていうのとか色々ね」

「ですねぇ」


 安西君はこちらに踏み込んでこないので気軽に話せる。

 わたしはどうにも恋愛めいた感情を剥き出しにする男の人が苦手だ。本人にそういったつもりはないのだろうけれど、好意の裏側に男としての本能的な欲望が隠れているような気がして、それをなぜ自分が受け止めなければならないのか? といった考えが浮かんでしまう。


 それはわたしが、ただ未熟なだけなのか。

 なんでもないことを偏屈に考えて拗らせているだけなのか。

 それともこれはごく普通の考えで、みんな同じようなことを思っているのか。

 恋愛から遠くにいたわたしには、わかりようがなかった。


 恋愛に興味がない自分を不完全な人間とは思わないけれど、何かが足りていないと言われても、それも当たっているような気もする。


「じゃあ、おれは戻ります」


 コーヒーを飲み終えた安西君が立ち上がる。


「うん。わたしももう少ししたら戻るから」

「あ、そうだ。町田さん、これどうぞ」

「なぁに、これ」


 手渡された物はクッキーの包みだった。


「それ、うまいんですよ。結構好きで、よく買うんです、おれ」

「へぇ。どうもありがとう。頂くね。おかげでちょっと元気出たかも」

「町田さんが元気だとおれは嬉しいです」

「え? あ、そう……」


 ペコリと頭を下げて安西君は戻っていった。


「わたしにくれたのに自分は食べないんだ」


 結構好きだと言っていたのだから自分でお茶請けにすれば良いのに。どうしてこの一枚を、わざわざわたしにくれたのだろうか。

 包みの端を破り中身を半分出してみる。これはラング・ド・シャ、といっただろうか。細長い形のクッキー。ザラリとした舌触りが口の中で淡く溶けていく。


「甘すぎなくて美味しいな……」


 煮詰まった顔をして一人休憩をしている女。

 友人の結婚の話からの愚痴のような他愛無い話題に話を合わせてくれて、お菓子を手渡して去っていく年下の男。

 これがドラマだったならば、ヒロインに好意を寄せている年下のヒーローからの、さりげないアプローチといったところか。


 もし、安西君とのやり取りが思春期真っただ中の一コマだったのなら、わたしはそこに恋愛の匂いを感じ取ったのだろうか。

 あの頃も今と価値観があまり変わっていないわたしのことだ。まず、それはあり得ない。


 高校の時に、友達がホワイトデーにクッキーをお返しされたといってヘコんでいたことを思い出す。クッキーは「友達のまま」という意味があるそうだ。


 ただ、あの安西君がそんなことを知っていて、一人でフラっと休憩に行くわたしを追いかけてまで、そういう意味を込めたクッキーを手渡す理由はあるのだろうか?


「本当に今日は普通じゃないなぁ……まぁ、でも」


 ラング・ド・シャは低温から焼き上げるという。使うバターは室温の物。最初から熱した物などない。

 ラング・ド・シャは猫の舌。猫の舌は熱い物が苦手。ザラついたその舌は餌をこそぎ落とすのにちょうど良い。


 飲んでいたブラックコーヒーの苦い味に、急に紛れ込んできた他からの甘い味。

 一瞬違和感を覚えた苦みの中の甘みにも、舌はもう慣れてしまっていた。


 このワンシーンは結局なんだったのか。

 今考えたこれらのことに意味があるのかないのか。


 なぜ、恋愛に興味がないわたしが、こんなありふれたやり取りで、ここまで妄想を膨らませているのか。


「……猫の舌をあげる、ね。降参かな。わたしにはわかりません」


 さて、わたしも仕事に戻ろう。

 煮詰まった気持ちは未だ整理できてはいない。

 ただ、最初にすることは仕事ではなくて、隣の安西君にお礼を言うことだということだけは決まっていた。

コーヒーを飲んでいたら、ふと思い浮かびました。

タイトルの「猫の舌。ラング・ド・シャ」は主人公の最後のセリフにある(問題に対して)お手上げ、降参、わからない、という意味のフランス語です。

TS以外の物を創作することも一応あります。はい、一応です。

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