36話 心に刻まれた夢
クルミの見ている夢は数ヶ月前のリアルな回想だった。
自宅のリビングで向き合っている二人。目の前にはテーブルにお茶が二つ。
高藤雄一は意識的にリラックスを装っている。
それが手に取るとうにわかるクルミ。
彼女の動揺を少しでも軽減するため、張りつめた空気を避けたいのだと。
「俺どうもさぁ…昔のように体が言う事きかなくなっちゃってさ。ここいらがもう潮どきだと思うんだ。悩んでてもしょうがないし、今シーズンでスッパリ引退しようと考えてる」
「!!!」
当然ながら、雄一がどんな言い方をしようと、突然の引退宣言にクルミはショックを受けないはずもない。
ただそれは単なる引退への驚きだけではなく、その理由が彼の本意ではない事を彼女はいち早く悟ったからでもある。
「ウソはやめて。あなたは私のせいで引退するつもりね。私の視力が悪化して、人の世話がいるようになったからでしょう?」
「いやいや、俺のパワー不足さ。もう俺は昔のようなパワーは出ないんだ。だからもうこれからはクルミと一緒にいる時間を増やそうと思ってるだけなんだ」
「そんなこと…」
「今まで遠征で長く家を留守にしただろ。ウチには子供もいないし、クルミには随分寂しい思いをさせたと思う」
「もう新婚じゃないんだし、そんなことはいいの。あなた無理しないで。あなたはまだまだ野球がやれるはずよ。私の介護のために引退するなら…そんなためなら…いっそ私と離婚して下さい!」
「Σ( ̄□ ̄;なんだって??離婚だって?!」
脳内に衝撃が走るのをリアルに感じた雄一。
「私、あなたの重荷にはなりたくないの。私がいなかったらあなたは伸び伸びと大好きな野球ができるわ」
予想外の離婚発言を切り出され、動揺しながらも観念した雄一。やはりクルミのような勘のいい女性にごまかしは効かない。
「じゃあ正直に言う。確かに引退を決意したのはお前の視力が低下したのが1番の理由だよ」
「そんなこと…すぐにわかったわ」
「でも聞いてくれ。俺とお前は夫婦だ。俺がお前の面倒を見るのは当然の話じゃないか。それなのになぜ離婚なんだよ?」
「だって…あなたの人生が私の犠牲になることなんてないじゃない!」
感情が高ぶり、少し声を荒げるクルミ。
その様子を見た雄一は、つとめて穏やかな口調で彼女に接するように心がけた。
「クルミ、俺は何もお前の犠牲になるなんて一度も考えたことがないぞ。むしろ喜んで引退するんだ。これで夫婦水入らずってもんじゃないか」
「ウソ!あなたはいつも表舞台の人。私みたいな日陰の存在になる必要はない。あとで後悔するわ。本当に無理しないで!」
深くため息をつく高藤雄一。だがクルミに対しては微笑みを絶やさずに対応した。
「なぁクルミ。お前は俺の気持ちをあまりわかってないようだなぁ…」
「……??」
「いいかい?俺は無理なんて全然してないんだ」
「…してるわよ」
「いいや、してない。絶対に!」
少し語気が強くなった雄一。その目はまっすぐクルミに注がれている。
「クルミは今までずっと陰で俺を支えてくれたじゃないか。だいいち、俺がプロに入れたのも後押ししてくれたクルミのおかげ。食事の栄養管理も任せっぱなしだった」
「そんなの当たり前のことだし、それとこれとは話しが違うわ」
「同じだよ。俺はお前のおかげで充分野球ができた。でも俺はお前に今まで何もしていない。何もやれてない。だから次は俺がお前にしてあげる番なんだよ。そしてそれが今なんだ。これは俺の希望なんだよ。野球に未練など全くない!」
そう言われたところで、クルミはそれを丸々鵜呑みにできるはずもなかった。
「信じられない。18からプロに入って今まで20年以上も野球一筋で生きて来たあなたが、もう野球に未練がないなんて…」
「あぁ、それはなんつか、言いにくいんだけど……この年で俺がこんなこと言うのもなんだが……俺は野球よりもお前が大事なんだ。お前にずっとそばにいてもらいたいからなんだ……すげぇ恥ずかしいけど言っちゃったぜ<(; ^ ー^) 」
その言葉を聞いてクルミは素直に嬉しかった。昔からシャイな雄一が、熟年にもなった今でも、自分を大事に思ってくれることを口に出して言ってもらえるなど、思ってもみなかったからだ。
「あなた本当にそれでいいの?」
雄一は座り直してお茶を一口飲み、ゆっくりと話し出した。
「なぁ、まだ覚えてるかい?俺の高3のラストゲーム。あの日の9回裏のことを?」
クルミは躊躇もなく答える。
「忘れるはずないでしょ。負けちゃったけど、あんな奇跡的な集中攻撃、20年以上経った今でも見たことがないわ」
「あの試合は負けたからこそ、クルミと深い絆ができたんだと思うんだ」
「負けたから?」
「全てがあの場面に集約されるんだ。俺の最後の打席にね」
「どういうこと?」
「あのときの当たりは完璧だった。間違いなく飛距離も充分なホームランだった」
「ええ。憶えてるわ。センターの超ファインプレーに阻まれなかったらきっと…」
「でも捕られた。あの打球を捕るなんてまさに神業だよ。そして結局は負けたんだ」
「そうね…」
「俺思うんだ。あの試合はああいう負け方をしたことに、深い意味があったんじゃないかってね」
「意味?」
「あのとき俺が逆転サヨナラホームランを打ってヒーローになっていたとしたら、俺はお前の言葉を軽く聞いていただろう。目の前の大切な人の存在も忘れてしまったかもしれない」
「・・・・・」
「人は負けた方が次は精神的に強くなれる。俺は必然的にリベンジの機会を与えられたのさ。それは野球だけを意味するものじゃない。大切な人のことを忘れず、恩を返して支えてこそ真のリベンジなんだ。それをあの9回裏が教えてくれた」
「…私、どう言ったらいいか。。」
「ごめん。少しスピリチュアルなこと言い過ぎたかもしれん。でもな、あれから長い年月が経った今、やっとそのリベンジの機会が訪れたんだ。俺がお前の目となり耳となる。それができてこそ、高校時代のリベンジが成功するんだ。だからあのときは負けて良かったのさ。俺の一生のパートナーと巡り合うためにも」
何か狐につままれたような話だけれど、雄一の心根は充分に察したクルミであった。
ホテルのベッドで横になっているクルミが回想から覚めると、雄一に髪を撫でられているのがわかった。
「…ん?あなたどうしたの?眠れないの?」
雄一が微笑みながら言う。
「だってスイートなんだぜ。すぐ寝るのもったいないじゃないか」
「まぁ、あなたったら。。」
心もち顔を赤らめるクルミ。
「ハハハ…冗談だよ。田安のやつ、わざわざスイートなんて予約しやがって。こちとら新婚でもないのにホントこっ恥ずかしいぜ」
視力低下のため、今のクルミには雄一の表情がよくわからない。だが声の微妙なトーンから、自分の亭主の表情は読み取れる。
「今日の引退試合、田安さんにお礼しなきゃね。教えてくれたのも彼だし」
「あいつにはかなわねぇや…」
「でも信頼できる人でしょ?」
「あぁ。あいつだけには何でも話せるってか…まぁ親友だしな」
「なぜ今日の試合、私に教えてくれなかったの?」
「それはその…」
「言わなくてもわかるわ。私があなたを引退に追い込んだって、また言い出すと思ったからでしょ?」
「ハハハ…クルミにもかなわないな…」
「なんならまた野球してもいのよ」
彼女が少しイタズラっぽそうな笑みで雄一に言う。
逆に雄一はキッパリと毅然とした口調でクルミに返答した。
「いや、俺はお前のそばにいるのが生きがいだよ。下の世話もしてやる」
「ちょっと…(^_^;)それはまだ大丈夫よ」
「遠慮するなよ。これから思い出いっぱい作らなきゃな」
「今までだって、思い出たくさんあるじゃない?あの9回裏のことだって」
意外にも雄一はそれに対しては否定的だった。
「いいや。あの試合は思い出じゃないよ。あれは現在とリンクしてるのさ。俺のリベンジマッチは今も現在進行形だからね」
(続く)