33話 愛するがゆえ
極秘で行われた高藤の非公開引退セレモニーが終了した。
グランドから去りゆく高藤夫妻の後姿を黙って見ているしかなかった東郷。
正直、この絶好の場面にインタビューにも行けない記者など失格である。
だがそれは、東郷にはどうしてもできないことだった。
高藤は妻のクルミの肩にそっと腕をまわし、目の悪い彼女を誘導し、支えながらゆっくりとゲートに向かって歩いている。
「クルミ、足元気を付けて。ここから段差がある。ほら、ゆっくりでいいから。。」
それはとても優しくて丁寧な声。妻への愛情がひしひしと伝わってくる声だった。
東郷の子供の頃からの憧れでもある、この高藤雄一。
そんな彼と奥さんの中に割ってインタビューなど、できるはずもなかったのである。
────10分後、球場内の監督控え室にて
自分のイスに座っている田安は、立ったままの東郷を前に苦笑していた。
「せっかく呼んでやったのに君は何もできなかったんだなぁ」
「…はい。。情けない話です…」
「まぁいい。これで君が本当に高藤のファンだったのがわかった気もするしな」
「…それは絶対に本当です。ウソ偽りはありません」
「で、君はこれからどうするつもりだ?」
東郷は迷った。これ以上、高藤を追いかけるのは心苦しい。ここはやはり…
「監督、お願いしますよ。あなたは全てわかってらっしゃるんでしょう?どうか僕に教えて下さいよ。高藤選手引退の本当のわけを」
田安がひとつ咳払いをしたあと、軽いため息をつく。
「ん〜、全てなんて知らないさ。あの夫婦にしかわからないこともあるし…」
「このままじゃ僕、東京に帰れませんよ…」
「まぁ待て。何も教えないわけじゃない。私が君をわざわざ呼んだんだからな」
「ええ、そうです。監督は僕に“来ればわかる”とおっしゃった。でも僕にはまだ、わかりかけた段階にすぎません」
田安は数秒間、ジッと東郷の真剣な眼差しを見てとり、彼が事実を面白おかしく書きたてるような人物ではないと確信した。
「さっき君が言いかけたこと…あれは君の思った通りだよ」
「えっ?」
「高校時代に高藤が打ったファウルボールが、観客席の少女を直撃する事件があったことは君も調べがついてるんだろう」
「ええ、まぁ…」
「その時の少女がクルミさん…今は高藤の奥さんでもある」
「や…やはり。。」
「片目を失った彼女は、もう片方の弱視の目までも今や光を失おうとしている。高藤はこれから引退後の一生を、彼女のサポートに全力を尽くすと心に誓ったんだよ」
「……そうだったんですか。。」
「うむ。プロ野球選手は遠征が多い。家を留守にすることも少なくない。だがクルミさんを一人にするわけにもいかない。大まかに言えばそんなところだ」
「じゃあ実際はやはり体力の限界ではなかったんですね?」
ほんの少しの間があったが、田安はすぐに返答した。
「いや…限界を感じていたのは確かだ。奴が俺にそう言ってたよ。さっきの打球がホームランにならなかったのもそう。あいつは自分をわかってる。引き際もちゃんと心得てる男なのさ」
東郷はいまいち高藤引退の理由に納得がいかなかった。
例え野球人としてのピークは過ぎているとはいえ、代打でこれほどの成績と、チャンスに強いのは今シーズンも変わりなかったからだ。
「監督、お言葉ですけど、高藤選手はまだ3年はできると思います。監督はそうは思わないんですか?」
田安は腕組みをして椅子の背にもたれながら苦笑する。
「ハハ…君にだから言うが、実は私も君と全く同じことを考えていて、高藤と話し合ったことがあるんだ」
「そ…それで?」
東郷は身を乗り出して聴き耳を立てる。
「奥さんの面倒は身内の誰かに任せたらどうかとね」
「そうですよ。僕もそう思います。それに奥さん自身だって、自分の体のために亭主が引退するなんて、逆に責任を感じて苦しんでしまうのではないでしょうか?」
「そうなんだよ。まさにその通りのことが起きたんだ。自分さえいなければ高藤は野球ができるってね。奥さんは離婚するとまで言いだしたのさ」
東郷は愕然とした。この引退の裏側には、高藤選手にしても奥さんにしても、田安監督にしても、それぞれの並々ならぬ心の葛藤があったに違いない。
「監督…それなのになぜ高藤選手は引退を決意したんでしょうか?奥さんがどう思うかってことくらい、わかるはずじゃ…」
「わかってるさ。当然わかってる。その上で奴が決めた結論なんだよ」
わずかに首をかしげる東郷。
「僕には…よくわかりません。監督はわかりますか?」
田安は腕組みしたまま、笑みをこぼした。今度は苦笑ではない。
「それはな、高藤はクルミさんを心から愛しているからだよ。愛するがゆえだ」
「はぁ……?」
(続く)