第三話
僕は翌週から案の定、深夜まで働くことを余儀なくされた。家に帰ってくれば彼女は寝ていて、朝は僕の方が早く起きなければならなかった。だから彼女と顔を合わせて話をする時間はあまり取れないようになっていった。会社にいるとき、電話では話すのだがフェイストゥフェイスで会話をすることはめっきり減ったため、彼女の病状がどれほどなのか、僕には図りかねた。しかし彼女がいうことには、あまり心配はいらないらしい。病院でも医者からは快方に向かっていることを告げられ、薬も減らす方針で話が向かっているらしい。僕はそれを聞いてもちろん嬉しかったし、彼女のお母さんにも早く会って話がしたかった。確かに毎週日曜日は会社が休みで、僕はその曜日をフリーで使うことが出来たのだが、何せ一週間の疲労やストレスなどで大体寝込んでしまった。彼女の母親に会いに行くのなんて、言わずもがなである。
毎週金曜日、僕は霧島さんに連れられて上野の居酒屋を飲み歩いていた。曰く、彼女は僕の仕事を手伝ってやっているんだから、僕も彼女に付き合ってしかるべきだ、ということらしい。僕は霧島さんと飲みに行く時間を削って、家で待っているサユリに一刻も早く会いたかったのだが、こういった飲みにケーションも大切だということで、仕方なく付き合っている。
「大ちゃんさ~、最近彼女とは上手くいってんの?」霧島さんはその日、酔いが回るのが早かった。いつもの彼女ならビール5杯は余裕だったろう。しかし彼女はその日、ビール、ビール、ハイボール、と来て彼女はもう呂律が怪しくなっていた。頬がビッグボーイのように赤くなり、目が潤んでいた。多分、僕同様彼女も連日の労働で疲労がたまっているのだろう。そして、酔いが回った後の彼女の色話は賤陋を極めた。僕は早くも脱落しそうになりながら、彼女の弄りに一々反応してあげた。そうすると彼女は喜ぶのだ。
「それでさぁ、お前はいつ結婚するの?」ふいに霧島さんは顔をこちらへ向けて、真剣そうなまなざしで僕を捉えた。そこには濁りは一切なく、純粋な疑問として発せられたものだった。僕は一瞬狼狽したが、焦点をずらすことなく平静を装って話をした。
「えぇ、僕は結婚については前向きなんですが、彼女がなかなか踏ん切りがつかないらしくて...。」
「お前、男だろ!そんなんでどうするんだ!いいか、女ってもんはなぁ、結婚を人生の山頂だと思ってるんだ。そう、やすやすと結婚に甘んじてしまう奴なんかなぁ、ビッチだ!私だってなぁ、結婚するときは並々ならぬ覚悟が要ったよ。本当にこの人が私の最愛の人でいいのか、この人と一生付き添っていくことができるか、ってね。でもそこで今の夫の言葉があって、初めて私も踏ん切りがついたんだ。彼はこう言ってくれたよ。今でも大事に胸の奥に刻み込まれてる。『僕と結婚しよう。同じ人生を選ぼう。』ってね。うはー、やっぱ照れるなぁ。」
「あのね、課長。僕らはそういう問題に直面してるんじゃないんです。もっと込み入った話なんですよ。これは僕一人でどうこうできる話じゃないんです。だから、いづれ時間が解決してくれることを信じて、今二人で慎ましく生活してるんですよ。課長は心配なさらなくても結構です。」
「んな受け身な態度があるかぁ!いづれ時間が解決してくれるだと?そんなん、待ってたらヨボヨボになっちゃうよ。もっと、お前には根性が足らん!しっかり働いて、しっかり愛して、しっかり生きてくんだ、な。」と言って霧島さんは僕の肩を容赦なくバシバシと叩いた。彼女なりの激励の仕方なのだろう。これで気合が注入されるというわけではないのだが、僕の周りに僕らの結婚を待ち望んでいる人がいる、ということを発見できただけでも嬉しかった。僕は緩み切った口角のまま、彼女の叱咤激励に耳を傾けていた。
日々の激務に身を弄していると、季節の感覚が体の内からどんどんと流れ出ていってしまう。それはたぶん、室内に身を置いているからなのだろう。季節の変わり目に咲く花を見ることもできないし、代り映えのしない空気を毎日吸っているし、そして何より、日の時間を測ることも忘れてしまうほどにパソコンの画面を眺めていないといけないから、なのだろう。大学時代、僕はよく一人で旅に出た。知らない街へ赴き、知らない家々を歩き回り、知らない土地の人に挨拶をした。その間、僕は歩いたことのない道を歩く。それは一見日常性の中に隠れてしまっていて見落としてしまいがちなのだが、それを意識して改めて歩いてみると、僕の知らない事実が大いに隠されていることがわかる。たとえばガードレールひとつをとってみても、そこには僕が住んでいる街とは少し違った形状、蛍光板となっているのだ。さび付き方も違えば、ねじの形も違っている。僕はそういった種々の変化を微妙に感じながら、街から街へと練り歩いたものだった。そうすることで僕は、かけがえのない時間を得ることができた。季節の変化を肌で感じ、普段接している世界とは違った世界を楽しみ、そうやって自分の心に日々感じていることを直接、問いかけることができた。そう、僕らが住む街、時間にはあまりにも雑音が多すぎる。それらは人々の考えるという行為を妨害し、人を無機質なものにしてしまう。あるいは僕は、単に書を捨て町へ出たかったのかもしれない。単に安息の日常を棄てて刺激を求めていたのかもしれない。しかし方法はどうであれ、僕は僕なりに考える時間、自分と向き合う時間を確保できていたのだ。僕は今でもそのときの感触を忘れないでいる。田んぼの中の農道を歩いていた時、横から飛び出してきた小さな蛙の緑。山に沿って敷かれたアスファルトの道路を一人で歩いているときの蝉の声、枝垂れかかった細い木々。冬の新潟にも行ったことがある。ニュースでよく見る大雪を一度体験したかったためだ。実際、住民たちはみな雪と上手く付き合っていた気がする。僕が泊まった小さな旅館では、朝から積もった屋根の雪を汗水たらして一生懸命に落としていた。そうしないと木造建築では雪の重さに耐えられなくて、つぶれてしまうらしい。僕も車が無事に通れるように、道路の雪かきをやらせてもらった。あれは想像以上に過酷な労働だった。朝の湿った雪はとんでもなく重いのだ。おまけに踏み固まった雪は一晩でつるつるの氷に変わってしまっていて、そのうえに粉雪がまぶされているものだから上手く踏ん張ることができない。それ以外にも、それぞれの季節にいろいろな思い出が詰まっている。僕はその季節になったら、一つ一つ頭の中の季節に関する思い出の引き出しを取り出してきて、その季節の概形を堀固めていくのだ。でも今は、もうそんなことはしなくなってしまった。いつからだろう、僕が情緒を解さなくなったのは。そういった変化を突きつけられると、僕はたまらなく虚しい心持になる。そして僕は、少しでも日に当たりたくて、休憩室へと向かった。
甘い缶コーヒーを飲みながら窓の外の景色を見ていると、ポケットの中の携帯が鳴った。
「もしもし、渡辺です。」
「あ、大知君、おはよう。今仕事中だったかな、ごめんね。」
「いや、そうじゃないけどさ、なんか用?」なるべく心を鎮めて答えようとしたが、逆に語尾が少しきつくなってしまい、圧迫感を与えてしまうような聞き方になってしまった。
「いや...、用ってほどの用はないんだけどさ。朝の挨拶がしたくって...。」彼女は少し申し訳なさそうにこう答えた。普段はこんなはずではないのに、今日に限っては彼女の声を聞いているだけで腹が立った。彼女には一切の責任もない。しかし、今に限っては心にもないことが次から次へと頭をよぎる。それを絶対に口に出すまいと注意しながら、口に出かかる寸でのところで抑制するのだが、僕は彼女にそれをぶつけたくって仕方がなかった。今まで僕はずっと彼女に対して我慢をしてきた。それを可能にしたのは、彼女の一種の儚さ、脆さであったに違いない。しかし、最近の彼女を見る限り、いたって見た目は健康そうだし、彼女よりは僕の方が毎日大変な思いをしていた。それなのに、彼女はいつまでたっても変わろうとしないで僕に支えてもらってばかりだ。昼間までこうして寝ているのも、夜に飲む精神安定剤のせいなのはわかっていた。その薬が効いているため、彼女はこうして朝にすっきり目を覚ますことができないのも、僕はきちんと承知していた。それでも、彼女の何から何まで、すべて彼女の甘えから起因するものではないのか、そしてそれを妥協させているのも同じ甘えからではないのか、僕は考えずにはいられなかった。そして、そんな彼女に対して一度は叱責する権利くらい、僕は持ち合わせているのではないだろうか、とも思った。そうして彼女が変わってくれたら嬉しいし、僕も言った甲斐があるというものだ。だんだんそういった歪んだ思惑が僕の心を支配し、いてもたってもいられなくなった。そして、僕は自分なりの正当性を盾に、彼女を否応なく責めてしまう。
「なぁ、サユリ。お前、もっと朝早く起きてさ、そんなだらしない生活送るのはやめにしようよ。君も君で大変だとは思うけどさ、僕は僕で大変なんだよ。君と僕、二人で一緒に暮らしていくには今の僕だけでは不十分なんだ。わかるかい、二人分の生活費を養っていくのにどれだけ働かなくちゃいけないか。もちろん無理強いをする気は毛頭ないんだ。だけどさ、少しはサユリも努力ってものをしてほしいな。それから―――」と言いかけたところで、僕は電話越しに彼女のすすり泣きが聞こえてきた。僕はその瞬間に今の自分の非情さを悟った。そう、僕は責める相手を見誤ってしまった。僕はどうしていいかわからずに狼狽えたまま、呆然と突っ立っているしかできなかった。それでも腹の虫は抑えられない。もうここまで言ってしまったのなら、罪悪感を抱えたままでいいから、言い切ってしまいたかった。僕が日ごろから感じてきたものを。そうして、今の自分の気持ちをそっくりそのまま吐き出してしまって、早くすっきりしたかった。それに、このまま自分の気持ちを隠しながら彼女と付き合っていくのは、あまりにも苦痛であった。そして、僕が口を開こうとした瞬間、彼女が先に電話口を捉えた。彼女は謝っていた。何度も何度も、僕に「ごめんね。」と言い続けた。泣きながら、その声は震えを交えて僕に届いた。声がかすれても、そして声に出なくても、彼女は何度も謝っていた。僕もいつしか、先ほどまでの昂った感情はどこかへ行き去り、携帯を耳にあてたままぼんやりと外の景色を眺めていた。彼女は際限なく涙を流しているだろう。僕はいたたまれなくなった。喉は塞ぎ、心は締め付けられるように苦しかった。先ほどまでの言い訳がましい彼女への当てつけは、恥辱に値するほど僕の頭を蝕んだし、彼女に対しての申し訳なさは底を知らなかった。僕は何も言わずに電話を切って、椅子に倒れこむように腰を下ろした。そして今更ながらに、深く後悔をした。もう何をいうこともなく、僕は僕自身を見つめるように窓の外をとりとめもなく眺めていた。
頭の隅で物を考える余力も失ったまま、体を引きずるように家へ戻ってみると部屋の明かりは灯されていなかった。誰もいない部屋の情景というのはまさしくこのことである。しかし僕は信じられなかった。一瞬頭をよぎった予想を隅へと押しやり、僕は一握りの希望を携えて部屋に入った。手探りで電気をつけて、部屋を大きく見渡す。寝室を調べてみる必要はなさそうだった。なぜなら、ガラステーブルの上に一切れの書き置きが残してあったからだった。僕はそんなものを見る気も起きなかった。誰が書き置きしていったのか、それはどんな内容が書かれているのか、そんなことは全て十分すぎるほどにわかりきっていた。僕は一片の紙切れを手に取り、ひらひらと揺らめかせて紙が空気を切る音を聴きながら、それを台所のカウンターに置いて上からレースをかけた。