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第二話

 金曜日の朝は清々しいと感じる。翌日から2日間はフリーだ。サラリーマンたちはフライデーナイトに燃ゆる。彼らは電車の中でポールダンスをし、自家用車の中ではラジオに合わせて歌を歌う。自転車通勤なら両手離しで漕いでしまう。各々が家族の顔を思い描きながら、僕らは手を取り合って仕事に熱中するのだ。生産性は一番高い。霧島さんも心なしか昨日より美しい。それは彼女の心が微笑んでいるからかもしれなかった。僕は会議室に呼ばれ、書類作成を中断してそちらへ赴く。

「失礼します。」中に入ると、社外取締役、営業部の事業部長、そして企画部のあまり顔の知れない社員が数人いた。白いテーブルをはさんで反対側には他社の知らない顔ぶれがそろっていた。息苦しくなりそうな、よどんだ空気の中を斬って歩いていく。相当規模の大きい話に違いない。僕はとっさに気を引き締めて、取締役の方に顔を向けた。

「渡辺君、こちらは××社の広告部門の方たちだ。わが社の来年の街頭広告、およびCM制作をプロデュースしてくれるのだがね、経理の人を呼んできてくれということで君を呼んだんだ。」

「はい、ですが、なぜ私が関わることになったのでしょうか?」僕は控えめな声で尋ねてみる。唐突な話だ。これくらいの質問は許されるだろう。

「うん。君の部署で今手が空いているのは君しかいないんだよ。今回のプランはわが社にとっても今後の業績を揺るがしかねない一大行事なわけだ。今年いっぱいまで綿密な計画を立てて、来年うまく遂行できるようにしたいんだ。つまりね、時間と金がかかるんだ。そこで、今回君を抜擢したんだよ。聞けば公認会計士の資格も持っているそうじゃないか。それを有効活用しない手はないよ?」つまり、経理部の中で比較的暇そうでかつ、種々の資格を持つ僕を選んだというわけだ。今回の事業の会計は僕が担当することになる。多分、今ある仕事に加えて更に大きな仕事が舞い込んでくるのだ。僕は内心とても穏やかでなかった。先ほどまで金曜日で浮かれていたのに、そんな時に限って事業の相談だ。やりきれない気持ちとサユリのことを心の奥にしまい込み、僕は勧められた席に座る。思わずため息を吐いてしまわないか注意しながら、話の全容を大雑把に飲み込む。他社との共同事業に携わるのは今回が初めてだった。というよりも、この会社に入社して、今回のような責任ある企画に携わるのも初めてだった。今回の経験は光栄なこととして受け入れなければならないのだろうが、出世コースになどさらさら興味のない僕としては、この上ない障害物でしかなかった。面倒くさいという気持ちが先行して、会議にうまく集中できない。明日はお昼に帰れるのだろうか、来週から僕は奴隷のように身を粉にして働かなければならないのか、そんな先行きの不安が僕の心をめぐって、いつの間にか憂鬱な気分に支配されていた。

 結局、会議の後事業の大まかな出費や諸々の収益の決算報告書を提出するよう任せられてしまった。時刻は9時を回っていた。これからそれを片づけるほどの気力は残っていなかったため、僕はそれを明日に持ち越して、家に帰ることにした。荷物をバッグにしまっていると、誰かが僕の肩を叩いた。振り返ると霧島さんがそこに立っていた。彼女は満面の笑みを浮かべて僕を見下ろしていた。

「...なんでしょう、霧島課長。」僕は彼女の言葉を大体予測しながら、物憂げに言った。

「渡辺君、今度やるCMに携わるんだって?名誉あるお仕事じゃない、期待されてるのよ。ここが踏ん張りどころだわ。」

「......霧島さん。僕が出世に興味ないこと知ってるでしょ。それ、本心で言ってるんすか?はぁ、これから会計地獄が始まると思うと...泣けてきますよ。」

「そんな弱気な姿勢じゃ駄目よ。あなたにご指名が入ったんだから。」

「大体、霧島さんだって公認会計士の資格持ってるじゃないですか。予算を立てることくらいわけないでしょう。それに、霧島さんの方が仕事少ないし。ほんと、なんも見えてないよ、あの人...」僕は俯きがちに愚痴を言った。

「私だって暇じゃないわよ。企画だって一個抱えてるし、第一あの資格とったのなんて大学時代だし。それ以来決算一筋で働いてきちゃったから、あんなの今更やれって言われてもチンプンカンプンよ。」

「だからって、何も僕じゃなくても...」

「会社としては、なるべく無駄な出費を抑えたいものなのよ。経理部に会計ができる奴がいれば、わざわざ外部委託する必要もないからね。ま、今回は辛抱なさい。そのかわり、残ってる経費精算は私がやってあげるから。」

「あ、ありがとうございます。で、今日も一杯ひっかけにいくんですか?」

「うん、もし渡辺君が大丈夫なら。私の愚痴聞いてくれるのなんて君しかいないんだから、ね?」僕は大きくため息を吐いた。

「んじゃ、とっとと行きましょうか。今日は一軒だけですよ。」と言って、僕らは上野駅近くの居酒屋へと繰り出した。



 青白い街灯の光が頭上に降ってくる。僕は帰路を見据えて考え事をしながら歩いていた。この時間の住宅街は森閑としていて、自分の足音がよく響く。アスファルトと革靴のハーモニーは一定のまま、時折やってくる車に若干乱されながらも奥へ奥へと続く。赤い屋根の家を通り過ぎ、緩やかな階段を上ると、僕らのアパートが姿を現す。僕らが住んでいる部屋に目をやると、玄関に電気がついていることがわかる。サユリはもう寝てしまったかもしれない。僕は腕時計を外してポケットの中に入れた。

 ドアを開け「ただいま。」と誰に聞こえるともなくか細い声で帰宅を告げる。ふと顔を上げて見ると、上がり框の花柄のマットの上にサユリがいた。彼女は脚を折って抱え込み、そこに顔を埋めていた。肩まである髪は腕に滴り、ピンク色のふわふわの寝巻を手がうっ血するまで固く握りしめていた。垂れかかった髪の間からわずかに見える両耳は上気して赤く火照っており、肩が小刻みに震えている。耳を澄ませると、声にならない声を震えさせて泣いているのがわかった。

「どうしたの、サユリちゃん。」僕は彼女の心を逆なでしないように、十二分に気を使って優しく声をかけた。彼女は首を小さく振るだけで返事はしない。何度も何度も腕の中で首を振り、僕に何かを訴えかけているようだった。多分今はまともな会話ができそうにない。

「サユリちゃん、ちょっと立てる?」と僕は言って彼女の肩を持ち上げた。ゆっくりと彼女を立ち上がらせて、白くて細い彼女の腕を僕の肩に回させる。僕は彼女を半ば持ち上げるようにして、寝室の方に向かった。明かりは玄関にしか点いていなかったらしく、どの部屋も申し合わせたように真っ暗だった。ベッドに座らせて少し様子を見よう。もしこれでダメだったら、精神安定剤を服用させた方がいい、と判断した。寝室の明かりはわざと点けなかった。カーテンを開けて月明かりが部屋に差し込むようにする。彼女は俯いたまま、一向に泣き止む気配はない。生地の薄いズボンをぎゅっとつかみながら、柔らかくも儚い、小さな肩を熱心に震えさせて彼女は泣いている。部屋の中には彼女のすすり泣く声以外に聞こえるものはない。僕はPCチェアーを引いて、背もたれを前にそこに座った。彼女が泣き止むまでここにいよう。辛抱強く待っていれば、いずれストーリーは展開していく。それがいい方向へ向かうのかどうかはまだわからない。だけど、今の僕にはそれ以外に行動の選択肢が残されていなかった。僕は半月を見据える。そこからまっすぐに降り注ぐ光の粒子は僕らの寝室を白く照らし出し、目の前の薄幸の美女を暗がりに浮かび上がらせる。僕は再び視線を落として彼女の頭頂部を眺める。赤みがかった茶髪は2か月前に染め上げられたものだが、その月日分、つむじから地毛の黒が伸びていた。前髪が垂れていて顔の全容は上手くつかめないものの、そのわずかな隙間から見える艶やかな照りは風呂上がりのせいなのか、はたまた上気した彼女の汗によるものなのか定かではない。顔を近づけなくてもシャンプーの匂いが僕の鼻腔をわずかにくすぶる。いつのまにかベッドの上に上げられた両足は、シーツのしわを内側に寄せて離さなかった。きれいに整えられた足指はシーツの上に何かを描いているように動かされ、そのくるぶしまでもが愛おしかった。

 自分がスーツを来ていることも忘れ、今の時刻もずれた感覚では推し量れなくなっていた頃、彼女はようやく僕の方を向いてくれた。目は赤く腫れていたが、それ以外はあまり目立った様子も見受けられなかった。少し赤みを帯びた頬には、幾重にも流れた涙の跡が浮かんでいた。見た感じ落ち着いたであろう彼女は、そのまま僕の方をぼんやりと眺めていた。僕の方に目を向けてはいたが、しかしそこに写っているものは果たして僕の姿なんだろうか。今宵の半月が僕の前に仮初(かりそめ)の姿を投影させ、彼女と僕との間に透明の壁を作り上げているように思えた。そして彼女は僕を見ているのではなく、その壁をぼんやりと眺めているように思えた。僕は彼女が口を開くのをじっと待っていた。それはすごく長いようにも感じたし、彼女のことを思えば大した時間ではないようにも感じた。

「大知君、手、繋いでもいい?」彼女は少し上ずった声で僕にそう囁いた。彼女が僕に向かって手を差し伸べる。僕は頷いてサユリの手の先を握り、彼女の隣に腰掛けた。彼女の手は冷たく、まるで冷蔵庫から取り出したばかりの手羽先のように思えた。僕は彼女の手を少しでも暖めてあげようと、両手で包むように繋いであげた。彼女が初めて口を開いてから、また少し沈黙の時間が流れた。その間も僕は彼女の手を暖め続けたが、その行為は全くもって無意味なように感じた。彼女の手をいくら握りしめても、その核の部分に温もりが伝わっていく感触が得られなかった。それは、ただ表面を撫でて外界温度を少し上げるだけの行為のように感じられたのだ。少し間をおいて、彼女は僕の肩に頭をより掛けてきた。僕もそれを受容するために彼女のフォルムに自らの体をフィットさせるよう態勢を整えた。そして彼女はおもむろに言葉を発した。

「明日、無理かもしれない……。」僕は彼女の頭に手を回し、髪をゆっくりと撫でながら答えた。

「うん。明日は霧島さん呼ぶのやめよう。二人でゆっくりしよう。」

「ごめんね、大知君。私ばっかわがまま言っちゃって。ほんとに、ごめんね。私、わがままで自己中で、最低な女だよね。」彼女は今にも泣きじゃくりそうな声色で自分を責め始めた。彼女はしきりに僕に対して「ごめんね。」と謝ってくる。僕はそれをうまく受け流しながら、彼女の頭をずっと撫でていた。彼女がみるみる縮まって、僕のお腹のあたりに頭を乗せてくる。僕は彼女の体を支えるようにして肩を持った。彼女は今、とても脆くて危うい状態にあった。少しでもこちら側から小枝で突いてやれば、音もなく崩れ去ってしまうほどに。そして、彼女のそんな状態を支えるには僕しかいなかった。僕という支え技を精神的支柱に、彼女という存在はこの世で成り立っているといっても過言ではなかった。そしてそんな彼女を、僕はずっと守ってあげていたいと思えた。

「気にしなくていいよ。霧島さん、優しくて物分かりのいい人だから。もとから明日はゆっくりと過ごしたかったんだ。ね、一緒に映画でも借りてさ。明日はゆっくりしよう。」彼女はゆっくりと起き上がって、僕の方をにこやかに見た。目をくしゃっと瞑って笑う彼女には、言い切れないほどの魅力が詰まっていた。どうやら今夜、僕らは正しい扉を開けて正しい道を歩むことに成功したらしい。

「もう遅いし、寝よっか。僕はお風呂はいってくるから、サユリちゃんは先におやすみ。」

「うん、おやすみ。」と彼女は言って、ベッドの上に寝そべった。掛け布団に包まって、彼女は月の方を眺めるようにそっぽを向いた。僕はベッドから立ち上がり、スーツにシワができていないか確認しながら風呂場へと向かっていった。


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