表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

第一話

この小説を読む前に、LUCKY TAPESというバンドの「EASY」、「MOOD」、「Gravity」を聞くことをお勧めします。そうすることで、よりこの小説の世界観を理解できると思います。実際、僕もこれらの楽曲を聴いて執筆しました。Spotifyにどれも載っているのでよかったらどうぞ。

また、僕自身「ノルウェイの森」(村上春樹著)が好きで、この作品をオマージュし、それを踏襲するような形で今回の小説を執筆しています。こちらもよかったら是非、お手に取ってご覧になってみてください。

 歯磨き粉のチューブを畳みに畳んだが、もうほとんど中身がないために歯ブラシの先にちょっと出ただけだった。洗面所に朝日が束になって差し、頭に文明開化の音を鳴らす。僕はプラスチックの薄い浴室ドアにもたれかけて、歯磨きに集中する。頭がまだ僕の体に馴染んでいないようだった。昨夜は夜遅くまでアルコール度数の低いチューハイを呑み続けてしまった。惰性というほかない。いっぺんに何かをやろうとするより、ひとつずつの行為に神経を集中しなければ僕という存在がバラバラになってしまいそうな、そんな気分だった。顔を冷たい水で洗って、生乾きの臭いがするタオルに埋める。水気をとって鏡を見てみると、そこには重い頭を(もた)げて面倒くさそうに突っ立っている僕がいた。全身から(にじ)み出る疲労感は抑えが効かないらしく、朝日に最も不釣り合いな態度として浮かび上がっていた。波打つような頭痛が僕の頭を占拠し、眼のあたりまで侵攻しているらしい。半分開けるのがやっとだった。慣れないお酒には手を出すものではない。僕は昨日の愚行に心の中でそっと喝を入れながら、這うようにバスルームを出た。リビングにも輝かしい朝は到来しており、ミルク色の二人掛けソファの前にある、ガラス張りのテーブルを挟んで向かいには32型のテレビが無音でついている。天気予報によれば今日は夕方まで晴れが続くようだった。南東にある寝室には、まだ彼女が眠っているはずだ。僕は彼女を起こさないように、静かな身支度を始めることにした。月曜日の朝、僕はいつも気合を入れるためにある儀式をする。(儀式というには少々重すぎるきらいがあるようだ。ルーティーンという風にとらえてくれればそれに近いかもしれない。)要するに朝食をたらふく食べるのだ。普段小食気味な僕は、朝食なぞ野菜ジュースですましてしまうことも多々あるのだが、やはりそれでは仕事の途中で力尽きてしまうこともある。一時期はどうにも体がもたず、事務机に突っ伏して眠り込んでしまうこともしばしばあった。それに悩んだ僕は、食生活を見直すようにした。結果は良好で、僕は眠り込まなくなったどころか以前より集中して仕事に取り組むことができるようになったし、それだけではなく健康面や生活面でも向上が見られた。というのも、外国にはこんな格言がある。「朝食は王様のように、昼食は王子のように、夕食は貧民のように食べるべし。」もちろん毎日これを実践することはできないが、月曜日は自分を鼓舞するためにもこの格言のようなスタイルを心がけている。彼女のためにも余分に朝食を作ってあげた後、僕はキッチンの向かいにあるチェリーのテーブルに腰掛、小声でいただきますと言ってご飯をもくもくと食べる。テレビの中ではニュースキャスターがテロップとともに朝を謳っている。ご飯を咀嚼(そしゃく)している間、ちらちらと掛け時計に目をやる。今日は仕事から帰ったらキッチン周りの掃除をしよう。流しは水垢で薄汚れているし、布巾はソースの染みやらなんやらで変色している。床は落とした野菜のカスなどが散乱しているし、冷蔵庫の中身も整理したい。僕はとりとめもなくそんな無難なことを頭の隅で考えながら、ご飯をもくもくと食べた。食器を片づけてからまたバスルームに行って身支度をする。髪を梳かして整え、電動剃刀で髭を適当に剃る。化粧水を顔に叩いて練りこむように付け、その場を後にする。眠気はいつの間にかどこかへ収束して押しやられていた。朝日が入り込まないように体を寄せて、ゆっくりと寝室に入ると彼女はやはり、僕に顔をそむけるようにして寝ていた。先ほどまでの光に満ちた部屋と違って、ここはカーテンで閉め切られて光を遮断し、流れている空気も昨夜のまま変わらずにそこに滞留していた。透明の衣類収納ボックスに寝巻を入れ、隣のクローゼットから暗闇に同化しているスーツを手探りで取り出す。スーツに着替えて一息つき、彼女の方に見やる。彼女は冷たくなった空気を纏って、一見死んだように見えたが、目を凝らすと微妙に肩が膨らんだりへこんだりしていた。カーテンの繊維より少し漏れている光が細切れに部屋の中に入り、やわらかい空気と混じりあって僕の寝室を控えめに演出していた。それでも彼女の輪郭を見分けるのがやっとなほどであった。僕は彼女がしっかり寝息を立てていることを確認すると、少し微笑みながら部屋を入った時と同じようにして出ていった。僕はリビングの、朝が薫る空気を胸いっぱいに吸い込んでから、バッグを取って玄関に向かった。返事を期待しない「いってきます。」を寝室の方に向かって言ってから、僕は家を出た。鍵をかけエレベーターで地上に降りる。もしかしたら彼女が見送っているかもしれないと思って、僕たちの住まう部屋の方を見てみたが、やはり彼女はまだ眠っていた。


 昼食後のコーヒーを飲みながら書類整理をしていると、彼女から電話がかかってきた。僕は一旦手を休めて携帯を取る。

「おはよう、サユリちゃん。」

「ん…おはよう…」彼女は挨拶を言い終わらないうちに長い欠伸(あくび)をした。電話越しに悟った僕は、それが終わるまで待ってあげた。

「今日は何をする予定なの?」僕は努めて自然な口調になるように声色を調節した。

「うーんとね、今日はちょっと実家に帰ろうかなと思ってて。最近お母さんに顔合わせてないからさ。だから今日は家に帰らないから、晩御飯は自分でお願いね。」彼女はまだ起きたばかりなので、ところどころつっかえたり、少し言い淀んだりすることもあった。まだ顔も洗っていないのだろう。ベッドの上からかけてきていることは聞かなくても僕に伝わった。そしてしばらくの間、沈黙が僕らの中に流れた。僕はその間も、会社の窓の外に広がるビル群をあてもなく眺めながら、それでも耳に携帯電話をつけておくことは忘れずにその沈黙を見守った。こちら側から相手に話を急かす必要はない。彼女が話すことをまとめてから話せば良い。何も崖がそこまで迫ってきていて、早く反対側に逃げないと落っこちてしまうような状況ではないのだ。そうやって長い間、携帯電話に耳をつけたまま本来の機能を黙殺していると、やがて彼女の方が口を開いた。

「洗濯物とかアイロンがけしとかなくちゃいけないものある?」

「ううん、特にないよ。でもできれば、キッチン周りを掃除しておいて欲しいんだけど。」

「わかった、やっとく。それじゃ、お仕事頑張ってね。」といって彼女はさよならを言わずに電話を切った。今日は家に帰っても彼女がいないという氷塊のような予定に、僕は思わずため息を漏らす。いつのまにか昼休みの時間はあと五分となっていた。カフェテリアから帰ってくる上司や同僚の姿を一瞥(いちべつ)して、僕はまた仕事に戻ることにした。



「今週の週末はさ、霧島さん夫妻が家に遊びに来たいっていうんだけど、いいかな?」僕は誰もいない部屋の中で、無駄に冷えているウィスキーを片手にサユリに電話をかけていた。冷房も暖房もいらない秋の夜長には、僕しか部屋にいないとなると、本当に孤独が身に染みる。静寂が僕をひっそりと、しかし着実に犯してくるような、そんな気分がした。現にテレビもラジオもあまりつけず、音楽にもあまり興味のない僕の周りでは、生活音以外で耳に届く空気の震えなど無いに等しかった。それがまた、一層孤独を掻き立てる。僕は少し身震いをして、ウィスキーをまた口に含む。

「霧島さんって、…誰だっけ?」彼女はとぼけたように僕に呟く。

「え、誰って…。ほら、この前って言っても半年前くらいかな、うちに来たじゃない。僕の管轄の女上司でさ、ショートヘアーでスタイルが抜群の人。サユリが前に言ってたじゃない。あの人かっこいい〜って。旦那さんもダンディな方でさ、結構歳が離れてて、白髪混じりになってる…」

「ああ!思い出した。そうね、フランス直送の白ワインを樽でくれた人だったね。土曜日に来るの?」

「うん。一応今週も土曜出勤なんだけどさ、お昼には帰れるから、そのまま霧島さんと一緒に帰ってこようかなと思ってるんだけど。」

「旦那さんは?一緒に来るの?」

「いや、旦那さんは夜に来るってさ。晩御飯だけよろしくね。」僕らはそこまで話すと、おやすみと言って電話を切った。あたりに静寂がまた侵食してくる。僕はなるべく深く考えないようにして、ウィスキーをテーブルに置いてソファに横になる。革製のソファは僕が寄り掛かるとみしっという音を立てて軋む。キッチンの方を見やると、左端のカウンターにいつも置かれている薬類がない。となりの書簡の束はすっきりと整理されていた。優しい色合いのダウンライトは背の低いテーブルに光を当て、淡い部屋模様を浮かび上がらせていた。ミルクティーのような色をしたレース地のカーテンは堅く閉められ、外にあるべき景色を断絶していた。僕は目を瞑ってサユリがいる実家の情景を思い浮かべる。都心から離れた家にあるサユリの実家は、同じ東京とは思えないほど田舎風だった。すぐ目の前が雑草の生い茂った空き地になっていたり、寂れたコンクリートで固められた駅の校舎は有名な無人駅を想像させた。一応住宅街の中心地に位置していたものの、すぐ近くには田んぼがあったり、ブロック塀によって囲まれた川が流れていたりした。しかし、彼女の都合上実家が1時間ほどしか離れていないというのは安心材料ではあった。それに、1年前に新車を買ったため以前よりも行き来は断然良くなった。そうだ、僕も暇ができたらサユリのお母さんに会ってこよう。僕は今後の仕事の予定をざっと頭で思い返してみて、冬休みあたりはまとまった時間を設けられると打算し、体を起こして明後日までに提出しなくてはならない決算報告書の残りを片付けることにした。寝室にあるパソコンを起動させている間、彼女のためにハーゲンダッツを買って置いてあげようと思った。サユリは、ハーゲンダッツのストロベリーが大好物なのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ