第一話
呼ばれた、というよりは聞こえた、の方が正しかった。まるでアパートの隣の部屋に住む人の声がぼんやりと聞こえるような感覚で、音が聞こえた。
「…………………」
ここはどこだろう、と思考を巡らせるよりも先に、前方から音がする。今
度ははっきりとした人の声だった。
一人ではなくもっと大勢の声。座り込んでいる床が冷たい。
「こんな子供が……!?」
「いや、聖女様も力がお目覚めになったのは子供のときだったと聞くが」
「それにしても小さすぎる」
─────そもそもこの子は、ちゃんと力を使えるのか。
示し合わせたように向けられる顔に、お大袈裟なほど肩を震わせた。そこに見えるのは憐憫と同情のみ。歓迎こそされてはいないようだが、拒絶をされている様子もない。
わたしはそこでようやく前を向いたままの顔をぎこちなく動かしてみる。
わたしのことを子供だなんだと言っていた人たちは皆揃って同じ服を着ている。裾が床に着くほどの白いなにかを被っているので性別はわからなかったが声質からそこそこの年齢なのだろうと推測できた。
さらに視線をその奥へ向けると、たいへん麗しい顔を難しげに歪ませた男の人。そのすぐ後ろにはわたしをまっすぐに見つめる騎士のような格好をした人。そのような風貌の人は他にも何人かいて、麗しい人を囲むように立っている。
着ているものの装飾の絢爛さが他の人と比ではないので、このゾッとするほど綺麗な顔の人は偉い立場のお方なんだろう。
そして、最後に。
この大きな一室の端に凛と立つ人に視線をやる。
───女の人だ。
ハッと目を見開いて、その人を見つめる。見つめ返される眼差しに胸が苦しくなる。初対面なはずなのに目が離せない。瞬きをするのを忘れていたら、ほどなくして涙が零れてきた。ざわめく周囲の声が部屋全体を満たした。
そこで初めて、ここが自分の知る場所ではないと気付く。
「この子に力はありません」
立ち姿に違わない伸びやかな声を放つ彼女に、わたしは涙を拭うことも忘れて手を伸ばした。
<どうか私を、助けてください。>
「───ミレナ」
呼ばれた声に顔を上げる。
「クランツ様」
「連日の祈祷で疲れているでしょう。城まではもうしばらくかかりますので、どうぞ自分の肩をお遣いください」
「……それでは、お言葉に甘えて。ありがとうございます」
船を漕いでいたのが気付かれていたらしい。馬車の中で隣り合って座る護衛の言葉に素直に従い、彼の肩に頭を預けた。
クランツ様───とは、あの日煌びやかなお方の背後でわたしを見つめていた騎士姿の彼のことだ。そして彼の主はやはり煌びやかなそのお方であり、陛下だった。
三年前のあの日、わたしはこの世界に召喚された。本来ならば次代の聖女としての役割が与えられるはずだった。
しかしわたしを見た今代聖女様はこう仰ったのだ。この子に力はありません、と。
それから今日まで、わたしは聖女様“代理”として、この世界での役目を果たしている。幸いにも言葉は通じていたので会話に苦労することはなかった。向こうがなにを言っているのか、はたまた口には出しにくいが察してほしいことを理解するのも容易にでき、恐らく向こうもわたしの感情の機微には気付いていたのだろう。
当時のわたしは17歳の女子高生だったが、城で働く人たちはわたしのことをまるで赤子のようにでろでろに甘やかした。
日本では平均的な身長もこの世界の基準では発育が悪いとみなされる。すぐに緩むこの涙腺も感情を抑えることができない子供のようだと、いつだったかクランツ様に言われたこともある。
知らない世界にたった一人、平和の為に遣わされた可哀想な少女。それが、城の中でのわたしの評価であり、ミレナと呼ばれる所以だった。
ミレナとは、こちらの言葉で「可哀想な子」という意味らしい。聖女としての力があればまた別の名が与えられたのだろう。
三年過ぎた今でも、わたしは同情の対象でありミレナだった。わたしに対する態度は当時と変わらないどころか甘やかしに拍車がかかりつつある。
わたしは元いた世界に二度と帰れないらしい。それを知った侍女たちが可哀想に、さぞお辛いでしょう、と口々に言い、わたしの代わりに泣いてくれたこともある。わたしが涙を流すことを望まないから、彼女たちは代わりに泣いたのだ。
「ミレナ。ミレナ、起きてください」
心地良い声にゆっくりと瞼を持ち上げる。
その拍子になにかが一粒、頬を転がった。
「……なにか、悲しいことでも?」
先程と打って変わり深刻そうな声で、顔で、クランツ様はわたしを覗き込んでくる。わたしの泣き顔は、どうもこの世界の住人の心臓に悪いらしい。子供の泣き方に似ていて、どうもいたたまれなくなるのだそうだ。この世界は子供に甘すぎる。
泣き顔の違いなど考えたこともないが、とにかく城の皆はわたしが泣くようなことがないよう細心の注意を払っていた。
特に、目の前のクランツ様は。
もともと近衛騎士だったクランツ様は、召喚の儀の後に陛下の命を受け、わたしの護衛となった。このような小娘の護衛を勤めることになるなんて、文句の一つや二つ、いやもっと数え切れないほどあるだろう。
しかしわたしの考えとは裏腹に、クランツ様はいつもわたしの傍に控えわたしを甘やかすことに余念がなかった。その結果が先程の肩枕だ。
わたしをミレナ様ではなくミレナと呼ぶのも、身分の線引きでわたしに淋しい思いをさせないようにと配慮からくるのもだった。
「ううん、平気です。少し目が渇いただけ」
「さようで。このクランツがお傍におります。安心しておやすみなさい」
「はい、でも大丈夫。目は覚めました」
「なら少し話でもしましょう」
陽光が差し込む窓の外へちらりと一度視線を走らせたクランツ様が、わたしへ向き直り柔らかく笑う。不穏な空気などなに一つ纏っていない綺麗な笑みだ。
「……ミレナ、護身刃はきちんと持ってきますか」
頷くと、クランツ様の笑みが深まる。
「それは忘れず常に持っていてください。使い方はわかりますね」
クランツ様が護衛になりたてのとき、護身用として小型のナイフのようなものを渡された。もしわたしになにかあったとき周りに誰もいなかったら、自分で相手を殺せということらしい。
「そんなもの使わずとも私がついておりますのに」とクランツ様は憮然と言っていたから恐らくは陛下からのものだ。しかし今のような生活を続けている限り、わたしがこの刃物を使うことはないだろう。
もう一度頷くと、クランツ様は立ち上がる素振りを見せた。
「間も無く到着いたします。ミレナ、降りる準備を」
座る位置を直したら、急にふるりと身が震えた。身体を駆け上がるようなナニカ。聖女様がまだ、祈られている。
城に着いた途端、わたしはクランツ様を押しのけるように馬車を飛び出した。こんなわたしの行動に慣れている彼は何も言わずにわたしの後ろをぴったりと着いてくる。足の長さのハンデがもどかしい。
聖女が祈る為に造られたという部屋の扉を思い切り開けた。
跳ね返った扉は開けた本人であるわたしも驚くような衝撃音だったというのに、聖女様は焦れったいほど優雅に振り返り、わたしを見て目を細めた。今にも倒れそうなその儚さに息を飲む。
「聖女様、聖女様、ダメです。おやめください。あの地にはもう穢れはありません」
膝をつき祈りを捧げている聖女様に走り寄る。顔色が優れない。動揺するわたしの頭では聖女様にしてあげられることが何も思いつかなくて、とにかく背中をさすった。冷や汗もかいている。早く身体を休ませなければ。
事態が事態な為、一言断りを入れ、聖女様の腕を自分の肩へ回す。通常この部屋には聖女しか入れないが、次代聖女として召喚されたわたしも一応許容できる立場にある。クランツ様が入り口のところで待機しているのが見えた。あそこまで、行けたなら。聖女様がわたしの名を呼び、それに返事をする。
「はい、聖女様」
「さてはまた力を使ったのでしょう」
「わかるのですか?」
「ええ。わたしは聖女だもの」
「……ごめんなさい」
「いいのよ、その力は貴女だけのもの。貴女の好きにつかいなさい」
聖女様はそう言ったあと、すう、と眠るように意識を失った。一気に重くなる身体にバランスを崩し、床に倒れこむ。もちろん聖女様を落とすわけにいかないので、自分の小さな身体を回転させ聖女様の弛緩剤となった。
これで床が絨毯でなかったらわたしは怪我を回避できなかったが、幸いなことにここの床は冷たいだけだった。なんとかクランツ様の元まてま辿りつけば、既にクランツ様によって呼び戻された聖女様付きの騎士が聖女様をお部屋まで運んでいった。
聖女がこの部屋に入っている間は、何人たりとも部屋に近付いてはならない。この城の決まりごとの一つである。この部屋に聖女様以外の者が立ち入れないのなら、聖女様がお倒れになったとき一体誰があの方を助けていたのか。聖女様のお身体の加減はよろしくないのに。
祈りを捧げすぎたのだろう。
この国の幸を願いすぎたのだろう。
わたしが呼ばれた三年前、すでに聖女様の力の器ボロボロだった。初めて聖女様を目にした瞬間、だから自分がここに来たのかと理解し、泣いた。
初対面だったが、自分にできることならなんでもやろうと決意するほどに、あの瞬間から惹かれていたのだ。
わたしは聖女の力がないわけではなかった。ただその力が、ないと言っても間違いでないほど弱々しいだけだ。そして優しい聖女様はわたしにこの微弱な力を使うことを禁じた。
わたしの力が足りないせいで今も聖女の役割を聖女様が担っている。召喚されて数分で決意したというのに、わたしではあの尊い方から引き継ぐことができなかった。だから、代理。もう城外へ出ることすら叶わないあの方の代わりに、わたしが外の穢れの強いところへ赴き、わたしを通して聖女様が力を使われる。
「ミレナ。返事をなさい、ミレナ……!」
ハッと顔を上げると、クランツ様が鬼気迫る顔でわたしの肩を支えていた。
「お怪我は? どこか痛いところは?」
視界がぼやけたまま、ゆるりと頭を振る。
わたしは部屋の入り口をまだ出ておらずギリギリのところでへたり込んでいた。扉という境界のすぐ向こうにクランツ様がわたしと目線を合わせるように膝をついている。
わたしの目の焦点が自分に合ったことを確認したクランツ様は苦しそうに目を閉じたあと、「疲れたでしょう。こちらに」とわたしの肩から外した手を広げ、差し出してきた。
その手を取り立ち上がると、急なめまいに襲われる。すかさずクランツ様がわたしを受け止め、その大きな胸の中に閉じ込める。わたしの背中に回された腕に力がこもるのを感じながら、顔を埋めて静かに目を閉じた。クランツ様はとてもいい匂いがする。
「こんな小さな身体で何をしようというのですか」
「…………」
「……何度も申しておりますが。なぜ、助けてほしいと言わないのです。簡単なたった一言です。一番近くにいる、私に助けを求めれば良いではありませんか」
「ごめんなさい」
「謝罪の言葉など必要ありません。一度だけでも私どもの名を呼んでくれたのなら、聖女様に許しを得たことになり部屋の中に入っていけます。だから貴女が転ぶ必要なんてなかった。聖女様と違って貴女の声は遠くまで届かないのだから、どうかご無理をなさらないよう」
「声……?」
顔を起こしてクランツ様を見上げると、思いの外真剣な顔をするクランツ様と至近距離で目が合った。わたしの思考を読み取った察しの良い彼は、じんわりと苦笑を滲ませながら口を開く。
「聖女様は自分の声を音にせず、遠くの者まで飛ばすことができます」
「…………」
「最もミレナが来てからは声を飛ばす余裕さえなくなっていると思われますが」
「そう、なの」
「ミレナ?」
「聖女様、やっぱりすごかったんだ」
「はい。本当に」
聖女様の容体はまだ最悪な状況にこそ至っていないが、それも時間の問題だろう。聖女様に何かあったとき、誰が聖女様をお助けしてくれるのだろうか。
「ですが心配することなど何もありません。このクランツがついております。私が必ず、ミレナをお助けいたします」
わたしの沈黙を、聖女である自分が声を他の者の意識へ飛ばすことができないことへの不安ととったのだろう。しかしわたしが考えていたのは聖女様のことだった。
だからそれは少し、違う。
わたしの声は口に出して初めて届くため、これがクランツ様に届くことはないのだろう。どんなにまっすぐ見つめられていたとしても。
三年前と同じような瞳で射抜かれ、知らず知らずのうちに身体が硬直する。返事を求めているのかいなかを判断することが難しかったので、わたしは一度だけ頷いて返した。
なのに、クランツ様の片眉が上がる。
「……約束ですよ」
「はい」
「ミレナ」
「助けてほしいときには一番にクランツ様の名前を呼びます」
どうしても信用できないのだろう。表情が変化しないクランツ様が可笑しくてクスクスと笑っていれば、最終的には諦めたようにため息を吐いてわたしの頭を撫でたのだった。