第八話「ターニング・ポイント」
廊下を疾走していたシンヤは、目的の扉の前で急停止した。息も整えないまま、突き飛ばすようにその扉を開けて、部屋の中に飛び込んだ。
「ノックぐらいしなさい」
机で作業をしていた、部屋の主であるアヤカ・コンドウが、咎める口調でそう言ってきた。そんな彼女の言葉を無視してシンヤは叫んだ。
「リョウゴを拉致ったって、本当ですか!」
アヤカは面倒くさそうに視線だけををこちらに向け、小さくため息をついた。
「本当よ」
アヤカのその態度はシンヤの神経を逆なでした。
「なぜ!」
「なぜって……もともと、君じゃなくて、ナカムラくんにテストを受けてもらう予定だったのだけれど」
アヤカは作業を続けながら、平然とそう言い放った。シンヤは彼女の机の前に駆け寄った。
「今ならまだ間に合います、リョウゴを解放してください!」
「どうして?」
アヤカは不快そうに眉根をよせた。
「俺がリョウゴの分も働きます! それでなんとかしてください!」
シンヤは机の上に手を突き、額をぶつけるほど深く頭を下げた。それから彼女の反応を待ったが、アヤカはそれでもなにも言わなかった。シンヤは悔しさに奥歯をかみしめ、もう一度同じように頭を下げた。
「シンヤくん」
ようやくアヤカは口を開いてくれた。シンヤは顔を上げた。
「邪魔だから出ていってくれない?」
彼女の言葉はそれだけだった。
「ちっ……くしょう!」
追い出されたシンヤはアヤカの執務室の前で、怒りにまかせて廊下の壁を蹴りつけた。硬質な壁には傷ひとつつかなかった。シンヤは自分がひどく疲労していることに気づいた。汗でぬれた前髪をかきあげて、壁に寄りかかった。とりあえず息を整えることにした。
哨戒任務から戻ってきたシンヤが、たまたま廊下で出会ったタクヤから「今日、幽霊屋敷にまた新しい人がやってくる」と聞いたのは、ほんの数十分前のことだった。そこまではシンヤはすこし心が痛んだだけで、何も特別なことは思わなかった。だがタクヤ・タカハシは、いったいどこから情報を仕入れたのか、その人物の名前までも教えてくれた。
――リョウゴ・ナカムラ――
シンヤは耳を疑った。何度も聞き返した。そして確信し、走り出したのだった。早とちりであって欲しかった。だがアヤカの反応を見るに、そうではなかった。
シンヤは周囲を見渡した。リョウゴがいったいどの部屋で眠らされているのか知りたかった。それくらいならアヤカも教えてくれるかもしれないと思ったが、知ったところでどうする、という考えが頭をよぎった。幽霊屋敷から逃げ出すことなんてとてもできそうになかった。シンヤは歯噛みした。
そのとき、いきなり目の前にある執務室の扉が開いて、シンヤはびくりとした。中から出てきたのはやはりアヤカだった。
「まだ居たの?」
シンヤはまた激昂しかけたが、なんとか抑えた。彼女はそんなことは気にもとめない様子で言葉をつづけた。
「ああでも、ちょうど良かったわ。もし時間があったら、これからナカムラくんのところに一緒に行かない?」
「え……」
予想外の申し出だった。シンヤはそのためにかえって戸惑ってしまった。
「きみが居れば説明もスムーズにいきそうだし、どう?」
アヤカは微笑んでそう言った。シンヤは、アヤカに利用されることは屈辱だったが、その怒りをぐっと飲み込んでうなずいた。アヤカは歩きだした。
シンヤはアヤカに案内されて、リョウゴのいる部屋の扉の前に着いた。その部屋はなんとシンヤの部屋のとなりの部屋だった。きっとシンヤが任務に出ているあいだに、ここに運び込まれたに違いなかった。
扉の前につくと、アヤカはシンヤに「呼ぶまでここで待っててちょうだい」と言いのこし、ひとりで部屋の中へと消えていった。それからすぐ、中から話し声が聞こえてきた。
はやる気持ちをおさえながら待っていると、扉越しに名前を呼ばれたので、シンヤは背中をあずけていた壁から離れ、扉を開けた。
部屋の中央にふたりはいた。
リョウゴは壁際のベッドに腰かけていた。彼は憔悴した様子だった。アヤカは彼と向き合って椅子に座っていた。
シンヤはこみあげてくる気持ちを抑えるために、あえてゆっくりと歩を進めた。近づくと、リョウゴと目が合った。彼は目をまんまるくして、信じられないものを見る目でこちらを見ていた。きっとそれはシンヤも同じだった。
それから数分経ってもふたりは無言のままだった。アヤカすらも何も言わなかった。
「よっす」
息苦しさに耐えかねて、最初に沈黙を破ったのはシンヤ自身だった。軽く片手を上げ、なるべく以前と同じように挨拶をした。するとリョウゴははっと思い出したように、視線をシンヤの全身に走らせ、力無く立ち上がった。
シンヤは彼に笑いかけた。リョウゴはまだ目を白黒させていた。
「おまえ、シンヤ……?」
リョウゴの声は、混乱か緊張かはわからないが、小さく震えていた。シンヤはゆっくりとうなずいた。するとリョウゴは突然床にしりもちをついた。シンヤが驚いて駆け寄り、彼の傍にしゃがみこむと、リョウゴはうつむいて「大丈夫、腰抜かしただけだ……」と言った。
シンヤはどうすればいいかわからなかったので、とりあえず彼の背中をさすってやっていた。するとだんだんリョウゴも落ち着いてきたようだった。シンヤがそう思ってほっとした瞬間、こんどはリョウゴの肩が突然小刻みに震えだした。どうしたのかとシンヤが見ていると、彼の鼻や口元からぷすぷすと空気の漏れ出すような音がして、直後、部屋に大きな笑い声が響いた。リョウゴの声だった。彼は哄笑していた。彼は顔をあげ、シンヤに向きなおると、満面の笑顔で言った。
「なんだよおまえ、生きてんじゃねーか!」
シンヤは彼が泣きながら笑っていることに気がついた。そのくしゃくしゃになった表情を見ていると、自然と頬が緩んで、すぐにシンヤも笑い出した。リョウゴはシンヤの胸を軽くこぶしで殴りつけた。
「てめー、俺の涙返せよ!」
「なんだよ、泣いたのかよ!」
「ああ泣いたよ、めっちゃ泣いたよ! なのに何でおまえ死んでねーの!?」
「うるせぇ悪かったな! おまえこそなんでここにいるんだよ!」
「しらねーよ! ゲームやって帰ろうとしたらこれだよ! こっちが訊きてぇっての!」
ふたりはお互いの想いをぶつけ合いながら、肩を叩いたり、髪をぐしゃぐしゃにしたり、また大声で笑いあったりした。そういったことがしばらく続き、笑いすぎたために息があがって、ふたりが天井を仰いだとき、それまでふたりのやりとりを無言で眺めていたアヤカが、しびれを切らしたように言った。
「そろそろいい?」
ふたりは彼女の方を振り向いた。冷徹な声に、再会の興奮は一瞬でさめ、笑顔は消え去った。
「リョウゴくん、あとの詳しいことはこのクロミネくんから聞きなさい」
彼女はそう言って立ち上がり、シンヤたちのそばを通りすぎて足早に部屋を出ていった。残されたふたりは床に座り込んで、同時に深いため息をついた。部屋が静かになったあと、やがて、リョウゴが胸の内につぎつぎと沸き上がる疑問を口にしていった。シンヤはそれにいちいち答えていった。ひとしきりの回答を得たリョウゴは、いまのこの状況を理解して脱力したのか、床に仰向けに大の字になった。
その様子を複雑な気持ちで眺めていたシンヤは、ふと気づいた。
「その時計」
シンヤが指したのは、リョウゴの左手首に巻かれた、ガラスの割れた腕時計だった。シンヤはそれに見覚えがあった。
リョウゴは仰向けのまま腕を持ち上げて、それを顔の前に持っていった。
「あー、これか」
彼は時計を外してシンヤに投げ渡した。シンヤがそれを持ち上げて確認すると、やはり自分の時計だった。まだ針は正常に時を刻んでいた。
「お前の形見にって貰ったんだけどさ、恥ずかしいから返す」
「なんだよ、形見までもらってんじゃねーか」
「お前が死んだって聞いてマジにショックだったんだからな」
気恥ずかしさとおかしさに、ふたりはまた少しだけ笑った。それからはお互いに言葉はなかった。重苦しい沈黙がいつのまにかふたりの間に居座っていた。壁にかかった時計の秒針だけが音を立てていた。
「……俺、これからどうなるんだろ」
ぽつりとリョウゴが言った。
「……大丈夫、なんとかなるって」
シンヤは静かにそう返した。腕時計を握る手には力が篭っていた。