第七話「鋼鉄の幽霊」
シンヤがAACVの射撃武器の訓練を終え、部屋に戻ってシャワーを浴び、落ち着いたときには、時計は夜の十時をまわっていた。
シンヤは部屋にある自分の机に向かい、頬杖をついて考え事をしていた。
異質なのだ。地上から戻ってきたときから感じているこの体の怠さと、昨日感じていたAACV酔いは、似ているが、違うものだ。
いったい原因は何なのか。考えていて、気付いたのだ。
この幽霊屋敷に来て知り合った人間は、皆、どこか体に悪いところがある。
ユイ・オカモトは目を病んでいるし、数時間前に一緒に食事していた整備員たちも、思い返せば、彼らのトレーのわきににそれぞれ小さなピルケースを転がしていた。それを見て、シンヤはあのタクヤすらも、ラウンジで初めて会話したとき、缶の横に同じピルケースを置いていたことを思い出したのだった。例外はアヤカ・コンドウだけだった。
その共通点に気が付いてから、嫌な考えがシンヤの頭の中に居座った。しかし認めたくなかった。そう考えればすべての説明がついてしまうのだ。シンヤは確かめるのがおそろしくて、ひとり葛藤し、そしてとうとう決心して、部屋を出ていった。
執務室の扉がノックされた。部屋の中央の机で事務作業をしていたアヤカ・コンドウは、キーボードを打つ手を休めずに、「どうぞ」と応えた。静かに部屋に入ってきたのはシンヤ・クロミネだった。その目つきには反抗的な光があって、手も震えていた。アヤカはそれだけでシンヤの目的を察した。彼女は、直接問いただしにくるとは珍しいな、と思った。
「用件はなに?」
ドアの前に立ったまま黙っている彼に、アヤカは一応訊いた。シンヤは目を閉じ、呼吸を落ち着かせてから、それから言葉を発した。
「訊きたいことが、あります」
アヤカには、目の前の少年が、焦ったり、恐れたりして、声の調子が乱れないよう慎重に喋っているのが容易に判別できた。また全身の神経をそのために集中させているのもわかって、シンヤのことをとてもかわいらしく思った。
「なに?」
「AACVに乗ると、病んでしまうんですか」
「ストレートね」
直接的なシンヤの物言いが、アヤカにはすこしおかしくて、微笑した。アヤカはキーボードから指を離して、カップのコーヒーを口に運んだ。カップを置き、背もたれに身を任せ、椅子を回転させてシンヤの方にまっすぐ体を向けた。
「そうよ」
アヤカは簡潔な言葉で肯定した。シンヤが続く情報を受け止められるよう、少し間を置いて続けた。
「昨日話した、P物質のせいでね」
アヤカは机の引き出しからファイルを取りだして、中から一枚の書類を抜き出した。それを机越しに差し出すと、シンヤはのろのろと近づいて受け取った。
「P物質にはちょっと厄介な性質があってね。そのために幽霊屋敷は職員の補充に拉致という手段をとらざるを得ないの」
目の前の少年は、震える両手で書類を広げて読んでいた。その視線から、彼がだいたいどのあたりを読んでいるかを判断し、タイミングを見計らってアヤカは言った。
「『P物質起因性障害』って、そこに書いてあるでしょう?」
シンヤは無言だった。アヤカは無視して続けた。
「簡単に言えば、『P物質からエネルギーを取り出す際に発せられる未知の放射線によって生じる、不治の病』といったところかしら」
少年は書類から目が離せないようだった。その顔は青ざめて、唇はぶるぶると震えていた。紙を握る力が強すぎて書類にしわが寄っていた。手足が震えているのがあきらかだった。
アヤカは、いまごろはP物質起因性障害の特徴の項目を読んでいるだろうか、と思った。P物質起因性障害の特徴はおおざっぱに言って三つだった。
ひとつは、P物質起因性障害を生じさせる未知の放射線は、現在の物理学では完全に防ぐことが不可能であること。
二つめは、P物質起因性障害で生じる症状は、個人によって大きく異なるために、対症療法しかとれないということ。
三つめは、はじめて放射線に触れてから一年以内に日常生活に支障をきたす程度の重大な障害を生じる可能性は六割、はじめて放射線に触れてから三年以内に死亡する確率は、九十九パーセントだということ。
AACVの特長であり、他の機動兵器と一線を画す要因である、両肩の「高出力・全方向スラスター」には、エネルギーをほとんど抽出し終えたあとのP物質の残滓が用いられている。そのため、AACVを操縦するパイロットや、その整備をする人間は、ほぼ確実にこの障害にかかってしまうのだった。これこそがAACVという兵器を用いる上での最大のネックであり、パイロットや整備員を自衛隊員などから登用することができず、わざわざダミーの会社からゲーム機と偽ったシミュレーターを発売するということまでしなければならない理由だった。なぜならば、AACVのもたらす戦果と収穫は、それら拉致と偽装・隠ぺい工作に割かれる予算を差し引いても、余りあるものだったからだ。
もちろんAACVを用いていない地下都市国家も存在する。非人道的という理由でAACVを所持していない「北米生存同盟」という、地上時代のカナダや北アメリカなどの国家が合体して建設された地下都市国家は、代わりに巨大兵器と大量の陸上戦艦を用いていたが、それらは大量の予算を必要としたので、ジオ・ジャパンのような小国には真似のできない戦法だった。
「読み終えた?」
アヤカは頃合いを見計らってシンヤに尋ねた。すると彼はいきなり書類を握り潰して、こちらを睨み付けてきた。
「どうして教えてくれなかったんですか」
彼の声は怒りにふるえていた。アヤカはやさしく微笑した。
「君のためよ」
「だから何故!」
「じゃあ訊くけれど」
アヤカは目にかかった前髪を払い、椅子の背もたれに体をあずけた。
「きみ、事前にこのことを知っていたら、AACVに乗った?」
「乗りたいなんて、思うわけな――」
彼の言葉はそこで途切れた。
「でしょう?」
アヤカは微笑んだまま小首をかしげた。
「――クソ!」
シンヤはやり場の無い怒りと悔しさのために、乱暴に床を蹴りつけた。床に敷かれた絨毯にしわが寄って、アヤカはすこしだけ不快に思った。
「最初に説明した通り、きみには幽霊屋敷の指示に従う義務がある。私は、殺人はあまり好きではないし、君も今すぐ死にたくはない、そうでしょう?」
少年は悔しそうに頷いた。彼の目の端に光るものがあるのにアヤカは気づいた。
「君の余命は三年になってしまったけれど、その時間はやりかたによっては有意義なものになるはずよ。タカハシくんを見なさい。彼はもう既に二年ほど幽霊屋敷に居るけれど、毎日充実していると言っているわ」
「でも……!」
彼の声は泣き出しそうだった。アヤカは億劫に感じて息を吐いた。
「それとも」
アヤカは机の引き出しから、ある物を取り出す。
「実際に銃口を向けられてみないとわからない?」
アヤカに拳銃を向けられて、少年は硬直した。しかしアヤカは安全装置を外していなかった。最初から撃つつもりも無かった。だが、彼がおそらく初めて目にする、本物の、しかも自分に銃口が向いている拳銃による脅しが目的なので、それでもかまわなかった。
他人の指の、たった数センチの動きに自分の命がかかる状況は、想像を絶する恐怖だった。アヤカ自身にも経験があった。だからこそ躊躇いもなく他人に同じことができるのだった。
少年が自分の立場をしっかりと理解するのを待ってから、アヤカは拳銃を引き出しに戻した。
「わかったら、部屋に戻って泣きなさい。それが一番のストレス解消よ」
そうしてアヤカは再びパソコンに向きなおり、中断していた仕事を再開した。シンヤはそれから数分のあいだ、部屋の中央に静かに立ち尽くしていたが、いきなり手にしていた書類をぐしゃぐしゃに丸めてアヤカに投げつけた。その書類はアヤカとは全然違う方向へ飛んでいった。シンヤはそれからなにか怒鳴ろうとして口を大きく開けたが、言葉が出てこないようだった。彼はアヤカがもうこれっぽっちも自分に注意を向けていないことをさとると、踵を返して乱暴に部屋を出ていった。
アヤカは指を止めた。すすったコーヒーがいつもより苦く感じた。
シンヤは部屋には戻らず、AACVドックに居た。
目の前には、今日一日自分が乗っていたAACVが、ハンガーに固定されて立っていた。周囲に人影はなく、地上のような静けさが広大なドック内に満ちていた。シンヤはとてもさびしかった。もしかしたらこの世には自分ひとりしかいないのではないかと思った。もちろんそんなことは幻想なのもわかっていた。それでも言いようのないほどの寒々とした孤独感を、シンヤは感じていた。まるで自分の肉体が自分のものではないようだった。
「幽霊屋敷、ね……」
いまさら、この組織のひどく残酷な名前の意味を理解して苦笑した。シンヤは己の居場所がこの世にないということをやっと真に理解したのだった。シンヤ・クロミネはとっくに死んでいたのだった。何も為さず、何も得ることのなかった人生はすでに終わっていて、残された三年という時間は、運命がお情けでくれたラスト・チャンスなのだと思った。シンヤはこのまま消えていくのは嫌だ、と感じた。
シンヤはAACVを見上げた。天井からの強い光に照らされているために、複雑な機械や装甲の影が色濃く出て、威圧的な様相だった。シンヤは巨人に声をかけたが、当然、何も反応はなかった。死をもたらすことだけが彼らの存在意義なのだ、対話なんて無意味なものなのだろう。
シンヤはAACVの顔を見た。およそ人のものとは似ても似つかない、平べったい箱形の頭からは何も読み取れなかった。シンヤは自分を嘲って、脚部の装甲に手を突いた。表面はとても冷たかった。
余命三年か。なるほど。絶望的すぎてなんだか逆に気が楽になった。この巨人の胸に抱かれた時点で俺の一生は決まったんだ。もう失うものなんて何も無いのだ。家族も、友人も、自分自身も、とうに無くしてしまったんだ。今ここに居るのは幽霊なのだ。シンヤ・クロミネという名前の、まだ未練がましくこの世にへばりついている幽霊だ。幽霊なら幽霊らしく、とことんまで現世にへばりついてやろう。いつか消滅する日まで。
シンヤは自然と笑みを浮かべていた。涙はもう流れていなかった。足に力が戻ってきていた。シンヤはにぎりこぶしを軽く装甲にぶつけた。
「これからよろしくな、相棒」
翌日、シンヤはAACVの操縦席に寝そべっていた。
通信機からタクヤの声に明るく返事をして、地上ゲートへ向けて巨人の足を歩ませていく。
今日も長時間の哨戒任務だった。またユイと一緒だった。アヤカの話によるとこれからしばらくは「地上慣れ」するためにずっとこの任務があてがわれるそうだった。
戦闘に出るのはもう少し、あと。
殺人を犯すことになるのだろうか。
でもきっと、地上に出ている人間なら、みんな、いつ死のうが後悔は無いはずだ。最大で三年、その短い残り時間を知ったら、あの世まで持っていけない物は全てが無価値なものに思える。そしてそんなものはこの世に存在しないのだ。自分の命すら持っていくことはできないのだ。いつどこで死のうが関係無いのだ、幽霊はすでに死んでいるのだから。
地上にシンヤのAACVが出た。
灰の降り続く地上に佇む巨人からは、およそ生命など感じられない。
死の大地を死の巨人は飛んでいく。魂のない体に宿った幽霊は、わずかに笑っていた。