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第三話「幽霊屋敷」

 

シンヤがベッドの上で目を覚ましたとき、彼はまだ自分が夢の中にいるのだと思った。

まず彼の目に映ったのは見覚えのない天井だった。それからぼんやりとした頭のまま体をおこし、毛布をはねのけると、周囲を見渡して、ここはいったいどこなのかと考え始めた。

シンヤは片手を額にあてて、自分がどうして見覚えのない部屋にいるのかを思い出そうとした。それからいきなり胸に走った小さな痛みから、その原因である小さな注射器のようなもののことを思い出し、シャツをめくって体をたしかめた。左胸には包帯とガーゼが当てられていて、それがどうやら勘違いや妄想ではないらしいことを知った。またそのときに、今自分が着ている服が高校の制服ではなく、化学繊維で織られた、地味な色の揃いのシャツとズボンだということに気がついた。自分の着ていた制服はどこに行ったのだろうと思った彼は、あらためてじっくりと部屋を見渡した。

周囲を見渡した限りでは、だれかのアパートの一室のように思えた。床の広さは八畳くらいだろうか、絨毯が敷かれていて、こざっぱりしたビジネスホテルの一室のようにも見えた。シンヤが眠っていたベッドは、片側の壁に小さめの衣装ダンスと並んで寄せられていた。反対側の壁には簡素だが洗練されたデザインのデスクがあって、その上にパソコンが電源を切られた状態で設置されていた。そのすぐ横にはテレビがあり、それが乗っている棚のガラス戸の奥には、シンヤがずっと欲しいと思っていた最新のゲーム機がしまってあるのが見えた。ほかの壁は小さな玄関と、バスルームへの扉、そしてカーテンの閉められた大きな窓だった。

シンヤはすっかり困惑してしまった。もしかしたら病院なのかもしれないとも思ったが、こんなに設備の豪華な病室は見たことがなかった。外へ出ようにもドアには電子ロックがかかっているらしく、開けることはできなかった。中から開けることのできないドアなんて、とシンヤは妙に感じたが、どうすることもできず、仕方ないのでふたたびベッドに腰かけた。そのとき、シンヤは部屋の外から足音が近づいてきていることに気がついた。もしかしたら話をきける人かもしれないと思って、シンヤは落ち着かない気持ちになった。

 足音が部屋の前でとまり、そのすぐ後に電子ロックが開く音がして、ドアが開いた。キビキビとした動作で部屋の中に入ってきて、シンヤの前に立ったのは、黒いスーツを着た女性だった。

「おはよう、クロミネくん」

 女性は顔を上げたシンヤと目が合うと、ほほえみもせずにそう言った。その声はひどく事務的で、まるで人間のものではないようにシンヤには感じられた。シンヤは彼女の威圧的で冷淡な雰囲気に気おされて、すこしおそろしくなりながらも、なんとか彼女の顔を見返して小さく会釈をした。

「はじめまして、私はジオ・ジャパン政府、『幽霊屋敷』長官、アヤカ・コンドウです。よろしく」

 彼女はこなれた仕草で名刺をとりだすと、片手でシンヤに差し出した。シンヤはわけのわからない緊張に震える指でそれを受け取った。

「楽にして」

 彼女はそういってデスクの前にある椅子を引き寄せた。シンヤはうけとった名刺をどうすればいいかわからず、とりあえず自分の横に置いて彼女を見た。アヤカ・コンドウと名乗った女性は、かっちりとしたスーツを着ていて、そのスーツには余計なしわは一本もついていないように見えた。シャープな輪郭の顔立ちは、整っていて、かなりの美人だった。肌は白く輝くようだったが、切れ長の鋭い目はその輝きをまるで刃物の光沢のように錯覚させた。真一文字にキュッと結ばれた唇には真紅の口紅が引かれて、よく似合っていたが、シンヤにはそれが血の色に見えた。鼻筋はすっと通っている。左目の下にある泣きぼくろが妖艶な印象だった。髪はつやのある黒で、波がかっているのを、肩のやや下まで伸ばしていた。体は細く、ファッションモデルのようだったが、スカートの下から伸びるふくらはぎをストッキング越しにはたと見たシンヤは、彼女の体型は引き締まった筋肉によるものだということをさとった。

 アヤカは引き寄せた椅子に座り、シンヤと向かい合った。それから彼女は、手にしたタブレット端末を膝に乗せた。

「さて」

 彼女は言った。

「いろいろと質問はあるでしょうけれど、まず簡潔に事実だけ伝えるわね」

 シンヤは「はい」と答えた。

「シンヤ・クロミネくん、あなたは今から約十時間前、ジオ・ジャパン政府によって社会的に完全に抹殺されました」

 アヤカは平然とそう言い放った。シンヤはあっけにとられていた。

「これからあなたにはふたつの義務が課されます。その一『幽霊屋敷への服従』、その二『ジオ・ジャパン国民への奉仕』これらに違反した場合――」

「ちょ、ちょっと待って!」

 シンヤは大声をあげて制した。その声は動揺で裏返っていた。

「――なに?」アヤカは説明を中断されたことが不服そうに眉をひそめた。

「何言ってるのかぜんぜんわかんないんだけど、どういうことですか」

「でしょうね。でも今はそれでもいいの、説明を――」

 アヤカはめんどくさそうに顔にかかった前髪を指ではらった。そのぞんざいな態度を目にして、シンヤは怒りがフツフツとわいてくるのを感じた。シンヤはベッドから立ち上がり、腕をふりあげてアヤカにわめいた。

「ふざけんな! ここはどこなんだ、アンタは誰なんだ、俺を家に帰せ!」

「その点に関しても説明を――」

「説明なんかいい! とにかく俺は――」

「――聞きなさい」

 アヤカの語調が変わった。シンヤの背中にぞっとするほど冷たいものがはしった。シンヤはさっきまでの体の熱がうそのように消え、筋肉が硬直するのを感じた。

 アヤカは変わらずシンヤの目の前の椅子に腰かけていただけだったが、その眼と雰囲気はまるで別人のようだった。ただでさえするどい瞳はますます鋭くなり、シンヤの心臓をつらぬいた。彼女の威圧感も増していて、シンヤはたんに萎縮するだけでなく、首筋に刃物をあてられるような、はっきりとした生命の危険すら感じ取った。あまりのおそろしさに両足から力が抜け、シンヤは床に崩れ落ちた。腰をぬかすのはシンヤの人生ではじめての経験だった。

「ベッドに座りなさい」

彼女の声は淡々としていて、低く落とされていた。その声はまるでひと言ひと言が物理的な質量を持っているかのように、シンヤの腹を殴りつけた。

腕の力で体を持ち上げ、なんとかベッドの上に這いもどったシンヤは、彼女を直視できなかった。しかしアヤカが脱力するように息を吐いた音を聞くと、彼女の威圧感はやわらいだような気がした。おそるおそるふたたび目をむけると、意外にも彼女は微笑を浮かべていた。シンヤはびっくりした。

「落ち着いた?」

 彼女がそう訊いてきたので、シンヤはうなずいた。

「じゃあ、説明を再開するわね」

 そう言った彼女の声はぶきみなまでにやさしかった。アヤカは手元のタブレット端末をいじった。

「今の君の状況をかみ砕いて説明すると――」

 アヤカはシンヤの眼を覗き込んだ。シンヤは彼女の豹変ぶりと、緊張感からの解放のためにただ説明を聞くことしかできなかった。

「――君は社会的に死亡したことにされ、これからは他の多くの国民のために人生をささげることを強制されている、という状況ね」

 シンヤはまた噛みつきたくなったが、数分前のあの恐怖を思い出して躊躇した。そのあいだにアヤカは次の説明にうつっていた。

「君の主な業務はただふたつ。この幽霊屋敷にて、特殊機動兵器を用いた戦闘と、とある物質の探索と回収……その物質についてはおいおい説明するわ」

 アヤカはシンヤの顔を眺めて言った。

「きみ、テレビゲーム好きでしょ?」

 シンヤはまたあっけにとられた。なぜここでいきなりテレビゲームの話題が出てくるのかさっぱりわからなかったが、黙っていることもできそうになかったので「はい」とうなずいた。

「さらに言えば、とくに『グラウンド・ゼロ』が好き」

 その言葉で、シンヤは政府が自分の生活を監視していたのだと察した。あのゲームセンターで防犯カメラ越しに感じた視線は、アヤカたちのものだったのだ。

(ということは、もしかして)シンヤの言葉は口をついて出た。

「あの『テスター』は……」

 そのひと言を聞いたアヤカは、やや驚いたように目を丸くし、それからなぜだか楽しげな笑みを浮かべた。つり上げた唇の端からその下の白い歯が覗いた。

「理解が早いわね」

 彼女は目を細めて言った。

「そう『Tester』は文字通り『試験者』なの。そしてきみはテストに合格した」

「何のテストに……?」

 震える声でそう訊きつつも、なぜだかシンヤには半分答えがわかっているような気がした。そしてそれは正しかった。

「『次世代装甲戦闘機、AACVパイロットの適正試験』」

 シンヤは側頭部をなぐられたように感じた。それから肩の力が抜けて、頬が緩んだ。そんなシンヤの様子を見ていぶかしげな表情をするアヤカの顔が、なんだかとてもおかしく感じて、とうとうシンヤは大きく吹きだし、これ以上ないほどの大声をあげて笑った。

 体を大きく曲げてゲラゲラと笑い続けるシンヤを、アヤカはしばらく見下ろしていたが、彼の笑いが落ち着いたころを見計らって言葉を発した。

「なにがそんなにおかしいの」

「いや、ホントそういうのいいですって、もういいって」

 シンヤは大きく息を吐きながら腹をさすった。笑いすぎて腹筋と頬が痛かった。

「ドッキリでしょ、これ。いやーすっかりだまされた。でもさすがにAACVはないって……はぁーおなかいたい」

「ドッキリ?」アヤカの口調は冷淡なものに戻っていた。

「AACVなんてフィクションじゃん。コンドウさん演技うまいから、危うく信じるところだったよー」

「そう、そういうこと」

 するとアヤカは端末をわきに抱えて立ち上がった。

「じゃあそろそろネタばらしでもしましょうかね。ついてきなさい」

 アヤカは部屋のドアへと向かった。シンヤは目じりに浮かんだ涙をぬぐって立ち上がった。

 部屋の外は病院のような長い廊下だった。廊下の両側にはシンヤたちが出てきたものと同じつくりのドアが並んでいて、それぞれ表札がかかっていた。てっきりどこかのアパートかマンションの一室だと思っていたシンヤは、予想と違うその雰囲気にやや面食らった。アヤカはその明るい廊下の中央を、硬質な靴音を響かせて歩いていた。その調子はかなりの早足で、シンヤは遅れないようについていくのが大変だった。

 廊下の角を曲がると、ふたりは向かい側から歩いてきた人物と鉢合わせた。その人物は若い青年で、彼はアヤカにからかうような口調で何か言ったあと、シンヤの肩をポンとたたいてすれ違った。快活な笑顔が印象的な金髪の青年は、廊下にならんだドアのひとつに消えていった。

アヤカはふたたび歩き出した。角を曲がった先も長い廊下で、途中でいくつも枝分かれしていた。そのことから、どうやらこの施設はとんでもなく大きいものであるらしいと感じたシンヤは、ますます病院ではないかとの予想をつよめた。それからさらにいくつかの角をまがって、ふたりが最終的にたどりついたのは、「第一ドック三番ゲート」と書かれた大きなシャッターの前だった。シャッターは床まできっちりと下ろされていて、その向こうからは大勢の人間の気配と、いくつもの機械が駆動する音が伝わってきていた。シンヤはあえて考えないようにしていたもうひとつの可能性から目を背けられなくなってきていた。そしてアヤカが手にしたカードキーを壁のリーダーに通し、シャッターを持ち上げた先の光景を目にして、とうとうシンヤは、その可能性こそが真実であるということを思い知らされた。

 シャッターの先は広大な空間だった。シンヤの通っている高校がいくつも入りそうなほど広い硬質な素材の床を、高い天井に並んだ照明が、目が痛くなるほどの強い光で照らしていた。その床の上にズラリと並んでいて、シンヤの目を奪ったのは鋼鉄の巨人たちだった。彼らは拘束具のようなハンガーにそれぞれ立ったままおさまっていて、さっきすれ違った青年とおなじようなツナギを着た整備員たちが、彼らの内臓である複雑な機械群や、骨である金属フレーム、皮膚である装甲の点検や整備をしていた。その巨人たちはまぎれもなくこの世に存在しないはずのものだった。シンヤはあまりの事実を目の当たりにして脱力しそうになり、壁に手を突いた。

「冗談じゃない……」

 シンヤのちいさなつぶやきを聞きつけたアヤカは、彼に向きなおって言った。

「そう。冗談じゃない」

 彼女は腕をあげ、さらにシンヤに巨人の姿を示した。

「次世代装甲戦闘機、通称AACVはこのとおり現実に存在する。グラウンド・ゼロはこれらのパイロットを選発するための操縦シミュレーターだったのだ」

 シンヤは気がとおくなりそうだった。アヤカは、そんなシンヤにはかまわず、なおも声を張り上げて言った。

「現在ジオ・ジャパンは他の世界中の地下都市国家との生存競争のただなかにある!

 学校やニュースでは、戦争はとうの昔に根絶されたと教えられただろうけれど、あれは全部嘘っぱちだ! 戦争は今この瞬間も現実にたしかに存在しているのだ。人は人を殺し続けているし、きみたちはその無数の死体の上で笑いあっている!」

「もうやめてくれ!」

 シンヤは頭を抱え、悲痛な声で懇願した。しかしアヤカは聞き入れない。

「われわれ『幽霊屋敷』は、国民の明日を紡ぐために、国民にすら知られないまま戦う、ゴースト・ファイターの集団だ! 地下都市で平穏を生きる国民は、甘い幻想の中で生きていなければならない!」

 シンヤはそれ以上耐えられなくなって、逃げだした。アヤカとドックに背を向けて、長い廊下を全速力で駆け抜けた。これはきっとたちの悪い悪夢に違いなかった。空想だと思っていた兵器が実在し、それを用いて人知れず戦争をする集団なんて、あきらかに現実味を欠いていた。きっと自分はゲームのやりすぎで頭がおかしくなってしまったに違いないとシンヤは思った。

 気づいたときには、シンヤは最初に目覚めたあの部屋に戻っていた。膝に手をついて、肩で息をしていた。全身から吹き出た汗でシャツが素肌に貼りついて不快だった。左胸の傷が開いたのか、じくじくと痛み出していた。

 シンヤはとにかくこの施設から脱出しようと周囲を見渡し、今まですっかり忘れていた窓の存在を思い出した。窓には分厚いカーテンがしめられていた。シンヤは乱暴にそれを開いて窓を上方へ引き上げた。

 窓を開けた瞬間、強い風がその窓の向こうから吹き込んできて、シンヤは思わず目をつぶった。そしてふたたび目を見開いたとき、シンヤの表情は色を失った。

「理解できた?」

 いつのまにか部屋の入り口に立っていたアヤカが、そうシンヤの背中に声をかけた。シンヤは唇をふるわせて、涙をこぼした。

「……ごめんなさい……」

 それが自然とシンヤの口から出た言葉だった。シンヤの視線の先にはジオ・ジャパン、カントウ第一ブロックの夜景が広がっていた。宝石をちりばめたような、色とりどりの光にあふれた美しい夜景は、シンヤのはるか下方に広がっていた。それに対して、いつも遠方に見上げていた巨大な空のスクリーンが、今はシンヤのすぐ上にまで迫っていた。それでシンヤはさとった。

 ここは地下都市の空を支える柱の上端だ。

 いつも鬱陶しく思って見上げていた場所には、自分たちのために命をささげてくれる人々がいたのだ。彼らはいつも自分たちを見下ろしていたのではなく、見守っていたのだ。自分たちが今日まで何不自由なく暮らすことができていたのは、この組織のおかげだったのだ。それを理解したシンヤは、自分のあまりの情けなさと無知に泣き出してしまっていた。

 アヤカは、そんなシンヤの心情を無視して、端末の画面に目を落として言った。

「とにかく、そういうわけで『メテオ』はこれから幽霊屋敷の一員となります」

 シンヤは彼女が淡々と発したその言葉に、つよい衝撃をうけて、ばっと彼女の方を振り向いた。

「今後のことは明日――」

「ちょっと待ってくれ!」

 シンヤは大きな声でそう言って、彼女に詰め寄った。アヤカはいきなりのことに少したじろいだ。

「いま『メテオ』って言ったのか?」

 シンヤのみょうな気迫に、アヤカは無言でうなずいた。シンヤはあまりのことに吐き気までもよおしてきていたが、ぐっとこらえて、彼女に言い放った。

「『メテオ』は俺じゃない!」

そのひと言はアヤカをひどくうろたえさせた。

「え、うそ」

「『メテオ』は俺の友達のプレイヤー名だよ、俺のプレイヤー名は本名と同じだ」

 シンヤの訴えを彼女は信じたようだった。彼女は数秒、細い顎先に手をやって、考えるようなしぐさを見せると、力強い瞳でシンヤを見た。

「きみ、もしかしてその友達とICカードの貸し借りを?」

 シンヤはうなずいた。アヤカは苦々しげに顔をゆがめた。

「ミスだわ」

 彼女は怒気をわずかにはらんだ声でそう吐き捨てた。それから素早くポケットから小さな通信機をとりだし、その向こうの相手と、シンヤには理解できない専門用語ばかりの会話を少しして、それからシンヤに向きなおった。

「ごめんなさい、どうやらきみ、人違いだったようね」

 シンヤは崖から突き落とされたような気分になった。

「通常、パイロット候補の監視は、その人がテスターに勝利したときから、町や施設の防犯カメラなどを通して行うのだけれど、今回はきみが他人のICカードを使ったから、誤認したようね」

 アヤカは冷静な口調でそう言った。シンヤはあまりのことに頭が真っ白になって、床にへたりこんだ。アヤカはそんな彼を見下ろして言った。

「残念だけれど、それでも君を家に帰すわけにはいかないわ。偽装工作は済んでしまったし、AACVや幽霊屋敷の存在を知ってしまったのだから」

 彼女は部屋のドアに手をかけた。シンヤにはそれを止める気力すら残っていなかった。

「きみの部屋は今いるここよ。詳しいことはまた明日」

 アヤカ・コンドウはそうして部屋を出ていった。後には静寂だけがのこった。



「――そのため、先程申し上げたようなミスが起こってしまいました。多大な損失を出してしまい、まことに申し訳ありませんでした」

 アヤカ・コンドウは深く頭をさげた。彼女の前のデスクにはひとりの老人が座っていた。上等な生地のスーツを着た彼は、革張りの椅子に腰かけて、思案顔であごひげを撫でていた。顔には深く皺が刻まれていて、まるで老齢の大木のような顔だった。頭は額から禿げあがっていて、後頭部に残っている髪は白髪交じりだった。目つきはするどく、何もかも見透かされそうなほどに澄んだ瞳の持ち主だった。彼はアヤカの直属の上司だった。アヤカは彼の次の言葉を待っていた。もし彼がこのミスを許さなければ、自分に明日はやってこないかもしれないのだった。それだけの権限を彼は持っていた。

 老人は彼女が提出した書類を手にとって、ざっと眺めた。

「かまわんさ」

 低く重い声を老人は発した。その地位にふさわしい、威厳に満ちた声だった。

「人間が関わる以上、ミスは必ず起こる。ただ今回は運が悪かっただけだ、顔を上げなさい」

 言われて、アヤカはゆっくりと姿勢を直立不動に戻したが、緊張はまだ解けきっていなかった。

「そのシンヤ・クロミネはどうするつもりだ?」

 アヤカは老人の質問に素早く返答した。

「ゲーム内でのデータから、AACVパイロットとしての適性は低いと判断しましたので、輸送機の操縦を担当させようと考えております」

「妥当なところだな」

 老人はそう言いながらも、そのするどい目は書類に向けたままだった。彼のすべてを見透かすような瞳が書類に注がれていることに、アヤカは不安になった。

「なにか書類に不備でもありましたでしょうか?」

 老人は首を振った。

「いいや、ただ……」

 老人は書類をデスクに放りつつ、少し考え込んで、それからどこか遠くを見て言った。

「テスター戦での動きが面白いと思ったのでな」

「と、いいますと」

「『アタリ』かもしれない」

 そう言うと、彼はひとり得心したようにうなずき、それからアヤカの顔を見て言った。

「シンヤ・クロミネはAACVに乗せてみよう。もしかしたら、もしかするかもしれない」

「了解しました。しかしよろしいのですか」

「データだけでは分からないことも多い。とくに、この手のものはな」

 アヤカには彼が何を言いたいのかわからなかった。


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