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第二十話「はじまり」

 ワイヤーをつたって、AACVからドックに降りたリョウゴは、要塞内のあまりの変貌ぶりに驚いた。つい数時間前までは元気に働いていた作業員たちが、みなグロテスクな様相で死んでいるのだった。いったい自分たちがコアの発掘作業を行っている間に、この要塞に何が起こったのだろうかと、リョウゴはほかに作業をしていた人たちと、手分けして状況を探ることにした。

 独りわかれたリョウゴは、腰のホルスターに入った拳銃を抜いた。それはこの要塞に来て、はじめて虐殺を経験してから、持ち歩かずにはいられなくなっていたものだった。

 リョウゴはドック内を慎重に歩いていく。その途中、AACVハンガーに、ツカサキのネイキッドとは違う、奇妙な機体が拘束されているのが目について、おもわず彼は足をとめた。

 その機体は今までのAACVとは大きく外見を異にしていた。

 全高は八メートル程度。頭部は通常のAACVより大型化し、真ん中にカメラとセンサーのようなものが追加されていた。背部には巨大なカノンが背負われているが、奇妙なことに弾倉にあたる部分が見つからなかった。それにくわえて、全てのAACV共通の大きな特徴であるはずの、両肩の高出力・全方向スラスターも無くなっていた。スラスターは両脚と一体化させられていて、この機体が「歩く」という機能を廃して飛行に特化した機体だということをものがたっていた。代わりに空いた両肩には、片方三枚の、連なった大きな三角形のプレートが装備されていて、まるで翼かマントのように機体を覆っていた。その裏側には、近接戦闘用の超高熱剣がマウントされている。その全体的なシルエットは、遠目で見ると、巨大な鷲の様だった。

 リョウゴはしばらくその前に立って、いったい誰の機体だろう、と考えていた。

「どーよ、傑作だぜ!」

 突然背後から声をかけられ、リョウゴは身構えつつ振り向いた。そこには崩したスーツ姿のツカサキが立っていた。彼はタバコをくわえ、満面の笑みで両手を広げていた。

「傑作?」

 リョウゴは思わず訊きかえした。ツカサキがリョウゴの背後の、異様な機体に視線をやったので、リョウゴもふりかえってもう一度見上げた。

「おうよ、AACV『フレスベルク』だ。高火力の砲と無敵の防御力を持つ、最強のAACVだぜ」

「はぁ」リョウゴは適当に相槌を打って、またツカサキを見た。そんなことは、今はどうでもよかった。ツカサキは残念そうに肩をおとした。

「なんだよ、もっと喜べよー。お前のもんなんだからさ」

「え?」

 それはリョウゴの予想だにしていなかった言葉だった。ツカサキは編み物をするようなジェスチャーをして「お前のために作ったんだぜ。まごころ込めて夜なべして」と言った。リョウゴは無視して訊いた。

「それよりこれはいったい、どういう状況ですか」

 そう言って周囲を見渡すリョウゴの問いに、ツカサキはタバコを放って答えた。

「歩行要塞中に細菌兵器がばらまかれ、事前にワクチン射ってない人間は全滅しちまった状況」

 ツカサキはこともなげに言った。リョウゴは驚いて口をおさえた。

「細菌兵器!?」

「ああそうさ」

 ツカサキは髪をかきあげて、どこか遠くを見るような目になった。

「みんなみーんな死んだぜ。でも安心しな、ウイルスはもうとっくの昔に消滅してる」

「生き残ったのは」

「俺と、こいつらだけ」

「こいつら?」

 そう問いかけて、リョウゴは気づいた。ひとけの無かったはずの広大なドックの方々から、人々が現れ、集まってきているのだった。彼らは服装こそ、作業着や私服、パイロットスーツ等と様々だったが、男女共に若者ばかりだという点は共通していた。リョウゴは彼らを以前に見たことがある気がして、すぐに思い出した。集まったのはジオ・ジャパンから一緒に亡命してきた「アンデッド」たちだった。ツカサキは集まったアンデッドたちの前に立ち、リョウゴと向き合った。彼の瞳には力があった。

「リョウゴ」

 ハヤタ・ツカサキは力強く言った。

「俺たちアンデッド・アーミーは、今から世界中を敵にまわす」

 彼の口調は真剣そのもので、いつもの冗談のようには聞こえなかった。

「それは俺たちのある共通の目的を達成するためで、俺たちはそのために生きてきたと言っても過言じゃない。顔も名前も捨て、別人に成りきって、いくつもの死線をくぐり抜けてきたのもそのためだ」

 しかしその表情はどこか物憂げだった。

「リョウゴ」

 リョウゴは自分が息をするのを忘れていたことに気づいた。

「手伝ってくれ」

 ツカサキの声は静かだった。

 彼はそれ以上何も言わなかった。ただ、まっすぐにリョウゴを見つめていた。リョウゴは唾を飲み込み、震える手に力をこめて、ツカサキを見つめ返して言った。

「せめて聞かせてください。その目的を」



「まさか、そんな……」

 リョウゴは言葉を失っていた。

 工具箱の上に座って、彼と相対しているツカサキは、ゆっくりと頷いた。

「だけどお前ならわかるはずだ。なにせお前は――」

「そのために、多くの人間を犠牲にしたんですか」

リョウゴはツカサキを睨んだ。彼は肩をすくめた。

「何を犠牲にしても叶えたい願いのひとつも無いのか? だとしたらそれこそ狂ってるぜ。それに、まだまだ足りねぇ」

「まだ人を殺す?」

「可能な限り多く、な。目的達成のためにはそれが欠かせない……夢を叶えるってことは、ほかの多くの夢を叩き潰すってことだからな。ベストは、世界を滅ぼすこと、かな」

 ツカサキは短くなったタバコを床に押し付けた。

 リョウゴは悩んでいた。さまざまな想いが頭のなかで渦巻いて、葛藤していた。ツカサキは「もし協力しなくても、べつにお前に何かするわけじゃないから安心しな」と言ってくれたが、そんなちっぽけなことは、最初からリョウゴは考えていなかった。彼は悩みぬいて、そして決断した。

「わかりました」

 ツカサキは顔を上げてリョウゴを見た。彼は言った。

「協力します、ツカサキさんに。目的を、達成するために」

 リョウゴの瞳には炎があった。「フレスベルク」は彼らを見下ろしていた。



 暗闇と静寂がそこには満ちている。塵で構成された暗い鼠色の雲は、空を一分の隙間も無く覆い尽くし、そこから昼夜を奪った。どこからともなく降り続ける灰の粒は、かつての人間たちが築いたものの残骸の上に重なり続ける。極寒の大気に揺らぎはなく、世界は完成されてしまっていた。

 遠方から耳障りな音が聞こえる。

 内部の莫大なエネルギーを爆熱の炎に変え、その推進力で空を飛ぶ鋼鉄の鳥が一羽、居た。戦うために産まれたその鳥は二挺の銃しか持っていない。歩行するための両脚は与えられなかった。できるのはただ立つことのみだった。体躯の暗い色はその世界の中に溶け込んでいた。

「……おかしいな」

 その鳥――「やたがらす」の胸に抱かれて、シンヤ・クロミネはひとりごちた。操縦席内に寝そべる彼は、操縦レバーをいじり、機体を空中で静止させた。指をコンソールに伸ばして、レーダーの画面を拡大した。そこには何も反応は無かった。

(誤反応だろうか)とシンヤは考えた。

 今から数分前、ジオ・ジャパンの領空内のこのエリアに、北米製造同盟所属の――ということは恐らくアンデッド・アーミーの――AACVの反応が突然現れたのだ。そこでシンヤはスクランブルの指示を受け、その機体の目的を確かめるべく駆けつけたのだが、肝心のその機体がどこにも居ないのだった。しばらく空中で待機したが、何も変化は無かった。

 やはり誤りだったのだろうか、シンヤはそう思って機体の高度を下げ、ぐるりと大地を見渡した。すると奇妙なものが地表に落ちていることに気づいた。それはコンテナだった。コンテナはこの大地にあって灰塵に埋もれず、転がっていた。コンテナの全体は目立つようにだろうか、趣味の悪いど派手なピンク色に塗られていて、さらに巻き付いた電飾が、様々な色に発光していた。なんだあれは、とシンヤは思ってカメラの画像を拡大した。コンテナの表面に「アヤカ・コンドウ様へ 愛を込めて ハヤタ・ツカサキより(はぁと」と書かれているのを見つけて、シンヤはまずげんなりとした。

 こんな馬鹿げたことをするのは世界広しといえどもひとりだけだろう。シンヤは基地へ連絡を入れた。この機体じゃあ、銃を撃つ以外にできることは何も無い。

 


 シンヤは幽霊屋敷に戻ったあと、以前にも増して大きくなった身体への負担から回復しようと、自室のベッドで寝ころんでいたが、通信機のアラームで叩き起こされた。不機嫌なままミーティングルームに向かうと、部屋にはすでに大勢の人間が集まっていた。彼らの前では、アヤカ・コンドウが机の傍らに立っていたが、シンヤは彼女自身よりも、机の上に置いてあるものの方に目がいった。机の上には、リボンでかわいらしく飾り付けられたプレゼントのような箱があったのだった。彼女はシンヤが部屋に入ってきたことをみとめると、部屋の扉を閉めるように指示した。

「全員揃ったな」

 アヤカはいつもの、よく通る声で言った。どうやらシンヤが最後だったらしかった。少しばつの悪い思いをしながら、空いている席を探すが、なかったので、シンヤは扉のそばに立つことにした。そして何の気なしにふと横を見て、驚いた。

 数人の人間を挟んだ先に、杖を携えて立っていたのはユイ・オカモトだった。彼女はすっかり回復したようで、肌の血色はよくなっていた。立ち姿にも活力が感じられた。シンヤはなんだかうれしくなって、彼女に声をかけようと思ったが、最初の言葉を発する前に、アヤカの声に遮られてしまった。

「今回集まってもらったのは他でもない、例のハヤタ・ツカサキに関することだ」

 シンヤは口をつぐんだ。

「今から一時間前、北米生存同盟のものと思われるAACVが、領空内に侵入し、コンテナを落としていった」

 自分が発見したあれだ、とシンヤは思った。

「回収したその中に入っていたのが、これだ」

 アヤカは机の上の箱を示した。

「中身は今見せる……」

 そうしてアヤカ・コンドウは手でリボンを払い、箱の蓋を両手で持ち上げ、中のものを取り出し、外箱をわきに押しやると、中のものを机の上に置いた。

 それは奇妙な機械だった。大きなデジタル時計が中央にあって、頑丈そうなフレームに固定されている。フレーム内には電子回路や、赤や白の配線がぎっしりと詰まっているのが見えた。全体はアクリルでできた立方体の箱に収められていたが、スピーカーとおぼしき部分が接する面にのみ、細かい穴がいくつも空いていた。

「一緒についていたカードにはこう書いてあった。『本日現地時間昼十二時零分に、世界中の皆様に重要なお知らせがあります。ハヤタ・ツカサキより』おそらく、この箱からメッセージでも流れるのだろう。トラップ等がないことは事前に確認してあるので、皆で時間を待とう」

 アヤカの言葉を受け、その場のすべての視線が一斉にデジタル時計に集まった。示されている時刻は、十一時時五十五分だった。

 それからは誰も何も喋らなかった。皆みじろぎもせず、胸にわき上がる疑問を押し留め、これから流れるであろう裏切り者の言葉を待っていた。

 長い五分間だった。

 ――時間になる。

 最初に箱から飛び出したのは、軽い調子の電子音だった。部屋中の人間はそれに反応して、箱を注視した。部屋の空気が一気に緊張した。

「ハロー、皆さん聞こえてますかー」

 そのすぐ後に飛び出た声には重みが無く、完全にふざけているような声だった。なんだかおちょくられているような感じがして、シンヤは不愉快な気分になった。

「こちらはハヤタ・ツカサキでーす。この放送は、ちゃんと見つけてくれているなら、全世界同時に流れてまーす。見つけられなかった国は残念賞っ」

 アヤカの眉間に力がこもるのをシンヤは見た。

「今日は皆さんに重要なお知らせがありまーす」

 部屋の空気が張りつめた。

「歩行要塞に居た人間は、全員死にましたっ!」

 誰もが耳を疑った。

「いやー細菌兵器ってマジ便利だねー、なんで禁止されてんのコレ?」

 アヤカが小さく「あのときに持ち去ったものだな」と言った。

「生き残ったのは俺たちアンデッド、三十人だけ。っつーことで、現在、歩行要塞は俺の手のひらの中って言ってもいいんじゃないかな」

 アヤカは無表情のまま、次の言葉を待った。

「さらに俺の手の中にはすでに、あなたたちが欲してやまない小惑星のコアもある。しかも、まだ所有の表示がされていないんだぜ! 法的には『コア』はまだ、誰のものでもない」

 誰かが唾を飲み込んだ音が聞こえた。それほどに部屋の中は静まりかえっていた。

「そこで全世界のミナサマへ要求する。素直に従えばコアと歩行要塞は引き渡す」

 ツカサキの口調が真剣なものへと変わった。

「俺たちアンデッドは、致死率九十九%を生き残り、P物質への完全なる耐性を獲得した、いわば『適合者』だ。俺たちは、ギフテッド能力からも分かるように、総じてお前たちより『優れて』いる。しかし、アンデッドになれなかった人間は身体を患い、最終的に死に至る。……この構造、何かに似てないか?」

 シンヤにはわからなかった。

「『進化』だよ。突然変異と自然淘汰の構造そのものだ。P物質起因性障害を患った人間は、進化に失敗した、生物として誤ったものなんだ」

 部屋の空気が揺らいだ。みな困惑しているのだ。

「P物質の生じる波動は、生物の遺伝子に干渉し、構造を変化させる。これが障害の正体だってことはみんなも知っているだろう。P物質は生物の進化を促すものだ。そしてアンデッドたちは、その進化に成功した、お前たち『劣等種』とは違う『優良種』なんだよ」

 シンヤの胸が、不安と怒りにざわついた。

「そこでお前たちに要求する」

 ツカサキの声はさらに力強くなった。

「世界中の全ての地下都市に住む、全ての人間に、P物質の波動を当てろ。現在の世界の総人口は約十七億人……充分だ。九十九パーセントが死んでも一千七百万人残る。そこにあるのはアンデッドのみの世界だ」

「なっ……!」

 衝撃のあまり、誰かが悲鳴にも似た声をあげた。

「『劣等種』を一掃し『優良種』のみの世界を作ること。それが俺たちアンデッドの目的だ」

 ばかげてる。それがシンヤの素直な感想だった。しかし同時に、こんな馬鹿げたことを大真面目に語るツカサキの異常性に恐怖した。

「タイムリミットは五日以内。それまでに俺たちの要求の実現に向けた何らかの行動を起こさない国が一国でもあれば、俺たちは、コアを破壊する」

 何が楽しいのか、彼はそこで大きく笑った。げらげらとした下品な笑いだった。

「あーでもそうなってもいいかもなぁ、かつての悲劇の再来だ! 地上は今度こそ再生不可能になって、しかも希望が残らない! マジ最高だなー、それ」

 ケケケ、という声がした。シンヤは困惑と怒りで頭がどうにかなりそうだった。

「つまりはそういうこと。各国の皆さんはガンバってくださいよー。そんじゃ、スタート!」

 唐突にスピーカーからホイッスルの音が響き、機械が停止した。同時に動き出したのは、アヤカ・コンドウだった。彼女は素早くその場の全員に、解散と警戒態勢につくことを指示し、それから通信機を取り出して、どこか様々なところと次々に連絡をとり始めた。その合間に、彼女はタケル・ヤマモトを大声で呼びつけた。

 車いすで駆け寄った彼に、アヤカが鋭い口調で言った。

「ヤマモトくん、例の作戦を行うわ」

 そう言われたタケルは驚いて彼女を見上げた。

「まさか、冗談では?」

「これは千載一遇のチャンスよ、逃す手はない」

「成功率が低すぎます」

「実行しなければゼロのままよ」

「しかしパイロットは?」

「俺にやらせてください!」

 シンヤがふたりの会話に口をはさんだ。アヤカとタケルは同時にシンヤを見た。シンヤはアヤカの顔をまっすぐに見ていた。アヤカは一瞬眉をひそめたが、すぐにシンヤに訊いた。

「きみは作戦の内容を知っているの?」

「いいえ。だけどきっと歩行要塞を倒す作戦なんでしょう、違いますか?」

 するとアヤカはほんの少しだけ微笑んだ。

「その通りよ、志願理由は訊かないわ。それに、どうせ君に頼むつもりだったし」

「それはどっちですか」タケルが強い口調で訊いた。

「心配しなくても、必要な人材はもう全部見つけてあるわ。きみは『おろち』を旗艦として、陸上戦艦たちの指揮をとってくれればそれでいい。必要な戦力はなんとしてでもそろえるから」

 アヤカはそう言ってタケルから完全に顔を背けた。タケルは口元をぎゅっと結んで、なおもアヤカを睨んでいた。アヤカはシンヤに言った。

「出発は二時間後で、目的地は『グラウンド・ゼロ』になる。集合場所は陸上戦艦のドックだけど、今回はスピード勝負だから、なるべく急いでちょうだいね」

「『スピード勝負』?」シンヤは訊きかえした。

「コアは歩行要塞にあり、しかもその中にいるのは、アンデッドと名乗るテロリストたちのみ。しかもあの箱の音声が、彼の言う通り世界中同時に流れたのだとしたなら、動き出すのも皆同時。となれば、『一番先にこの歩行要塞におけるテロを鎮圧したものが、コアの所有を宣言することができるということになる』、この状況は、はっきり言って好都合よ」

 アヤカはそう言った。シンヤはなるほど、と思った。

「きみには歩行要塞を無力化する、作戦のかなめとも言える役割をお願いするわ。きみの両肩に、この国の全国民の命運をあずけさせてもらう」

「……はい」

 シンヤはアヤカの言葉を聞いて、下腹にぐっと力がこもった。彼女はシンヤの肩をポンと叩いて「お願いね」と言って歩き出した。アヤカは、あとを追うタケルとともに部屋を出ていった。ふと周囲を見ると、部屋中にひしめいていたはずのほかの人々も、いつのまにかいなくなっていることにシンヤは気づいた。誰もいない部屋の中は静かだった。シンヤは小さく「よし」と言って気合をいれると、部屋を出ようと扉を開けた。そして廊下に出た直後、いきなり、片手を誰かに掴まれた。

シンヤがおどろいて相手を見ると、それはユイ・オカモトだった。彼女はうつむいていて、シンヤからはその表情はうかがえなかった。シンヤがおそるおそる声をかけると、彼女は顔をあげてにっこり笑った。そして、今しがたシンヤが出てきた部屋に、彼を引き込んだ。シンヤはわけがわからずに彼女に従った。ユイは、シンヤの腕から手をはなすと、部屋のドアを閉めた。シンヤは彼女のその様子が、なんだかみょうな感じがして、不安な気持ちになった。

「やっぱり、クロミネさんになったんですね」

 ユイはシンヤに向きなおって、そう言った。シンヤが「なにが?」と訊き返すと、「作戦に出るAACVです」と彼女は言った。

「さっきのアヤカさんとの話を聞いてたの?」

 シンヤの言葉に、ユイは頷いた。彼女はシンヤに近づいた。シンヤはなんだか落ち着かない気持ちになったが、どういうわけか彼女から目をそらすことはできなかった。

「クロミネさん、ひとつ、伝えたいことがあります」

 ユイは静かにそう言った。シンヤは彼女の質問の内容がなんとなくわかっているような気がしたが、黙っていた。

「こんな大変なときに、不謹慎かもしれませんが……その……」

 彼女はまたうつむいて、杖の上に置いた両手の指をせわしなくからませていた。シンヤは彼女が次の言葉を言うまで黙っていた。しばらくのあいだ、部屋の壁にかかった時計の針の音だけが聞こえていた。シンヤはのどが渇いているのを感じた。とうとう、ユイは意を決したようにふたたび顔を上げた。その表情は真剣なものだった。

「クロミネさん、私、あなたが好きです」

 また、部屋に沈黙がおりた。そのあいだ、ユイはずっとシンヤを見つめていて、シンヤもユイを見つめていた。シンヤの頭の中では、ユイの言葉が反響していた。それから、その意味をやっと理解すると、急に顔が熱くなった。

「え、えっと、あの……」

 シンヤの声はうわずっていた。その様子を見て、ユイの頬もぽっと紅くなった。彼女は小さく頭を下げた。

「や、やっぱりこのタイミングはいきなりすぎましたよね! ごめんなさい!」

「い、いや、そんなことない! そんなことないから!」

 身を縮めるユイを見て、シンヤはあせり、手をばたばたとさせてうろたえた。それからシンヤは頭の後ろをかきながら、恥ずかしさのあまり、顔を背けて言った。

「お、俺も、オカモトさんのこと、好きだ」

 シンヤのその言葉を聞いて、ユイはばっと顔を上げた。その目は大きく見開かれていて、うるんでいた。直後、彼女が床に崩れ落ちたのを見て、シンヤは彼女に駆け寄り、そばにしゃがみこんだ。ユイは両手で口元を覆って泣いていた。どこか痛いのか、とシンヤが訊くと、彼女は頭を振った。

「いえ……ただ、うれしくて……」

 そう言って、ユイは泣きながら笑顔を浮かべた。シンヤはその表情を見て、胸が痛くなるほど切ない気持ちになって、思わず彼女を抱きしめた。ユイはシンヤの胸にぐっと頭を押しつけた。

 それから数十分ものあいだ、ふたりはただ抱き合っていた。シンヤはユイの体温を、腕と体で感じ、ユイはシンヤの心臓の鼓動を聴いていた。やがて、ユイがポツリと言った。

「クロミネさん、お渡ししたいものがあります」

 彼女はシンヤから離れた。そしてポケットから、彼女が愛用している音楽プレイヤーをとりだすと、それをシンヤに差し出した。

「この音楽プレイヤーは、イヤホンがささっていないと、本体のスピーカーから音が出るんです。これならAACVの中でも聴けます」

 シンヤはわけもわからずそれを受け取った。刺さっているメモリーカードのラベルには、なにも書かれていなかった。シンヤが内容を訊ねると、ユイはまた微笑んで「聴いてからのお楽しみです」と言った。

「それを聴くときは」ユイはさらに言った。

「ほかのだれも聞いていないところで、ひとりで聴いてください。絶対に、ほかの誰にも、内容を聞かれないでください」

「それはなぜ?」

 シンヤが訊くと、彼女は目を反らし、また少し耳を赤くした。

「だって、恥ずかしいから……」

 シンヤは音楽プレイヤーをポケットにしまった。それからもう一度ユイの肩をやさしく抱いた。するとユイはすこしだけ顎をあげた。シンヤはすこしだけ顎を引いた。ふたりは、ごく自然に、控えめなキスをした。 


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