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第十八話「彼女がほんとうに見たかったものは」

 きつい薬品臭が鼻をついた。

医務室にやってきたシンヤ・クロミネは、医師に許可をもらい、目的のベッドへと近づいた。ベッド周りのカーテンは開いていた。そのベッドでイヤホンを片耳にかけて、なにかを聴いていた少女は、足音を聞きつけると、顔を上げてイヤホンを外した。シンヤが名乗るまでもなく、ユイ・オカモトは「クロミネさんですね」と言って、さっきまで聴いていた音楽プレイヤーのスイッチを切った。

「こんにちは」

 ユイの方が先に言った。シンヤもあいさつを返し、適当な椅子をベッドの横に引き寄せて腰かけた。

「体調、良さそうだね」

 シンヤがそう言うと、ユイは小さく頷いた。

「そうですね。今日はいつもより気分がいいです」

「よかった、すぐに全快するよ」

 シンヤは危うく「きっと」と言いそうになった。シンヤは小さなプラスチックのケースをユイに差し出した。

「これ、頼まれてたやつ」

 ユイは受け取りながら、その言葉を聞いて、ぱぁと顔を輝かせた。ケースには点字で「ナオヤ・シガ作 『城ノ崎にて』」と書いてあった。

「わぁ! ありがとうございます、これ、聴きたかったんですよ」

 ユイは音楽プレイヤーからメモリーカードを抜き出し、プラスチックケースの中に入っていたメモリーカードと入れ替えた。イヤホンを片耳だけかけて、再生ボタンを押すと、「城ノ崎にて」の朗読が流れはじめた。シンヤはユイがとても楽しそうにそうするのを見て、なんだか胸が温かくなるような気がした。

「あ――」

 いきなりユイが何かに気づいたような声をあげたので、シンヤはどうしたのか、と声をかけた。するとユイはイヤホンを外し、申し訳なさそうに頭を下げた。

「ごめんなさい、夢中になっちゃって」

 シンヤはそんなことか、と思って笑った。

「喜んでもらえてよかった」

 するとユイはぺこりと頭を下げて、小鳥のように首をかしげた。

「そういえば、クロミネさんは、本を読んだりはしないんですか?」

 ユイが訊いてきたので、シンヤは頷いた。シンヤは堅苦しい文学作品なんてものはほとんど読んだことがなかった。部屋にあるのはもっぱら漫画本か、好きなロック・バンドの載った雑誌くらいのものだった。そして、今のこの状況では、そういったものすら読む気分にはなれなかった。

「漫画くらいしか読まないな」

「少年漫画ですか?」

「オカモトさんはそういうの読まないの?」

「そうですね、あんまり」

 彼女が小首をかしげたのを見て、シンヤは言った。

「俺もたまには読もうかな、小説」

「今までにどんなのを読んだことあるんですか?」

「それがさっぱりなのさ」

 シンヤは苦笑して肩をすくめた。ユイはやや驚いたようだった。

「そんな……ほんとうに、ひとつも?」

「ああ」

 シンヤがうなずいたので、ユイはますます信じられないといった顔をした。シンヤは言った。

「なにかおすすめある? 読んでみるからさ」

「おすすめ、ですか」

 ユイはすこし考えるような仕草をみせた。

「マスジ・イブセの『山椒魚』、なんてどうでしょう。短いですし、きっとクロミネさんによく似合います」

「どんな話?」

 シンヤは身を乗り出した。ユイはいたずらっぽく微笑した。

「あるサンショウウオが、狭い岩戸から出られなくなってしまうんです。その岩戸には一緒にエビも閉じ込められていて、最初はふたりともいがみ合うんですが、最後には固い友情で結ばれて、ともにふたりを岩戸に閉じ込めた魔王を倒そうと立ち上がるんです。ふたりは『生まれた日は違えども、死する日は同じ』という義兄弟の誓いを立て、天竺をめざして旅をしたり、魔法学校に入学して悪の魔法使いと戦ったり、銀河帝国の支配者に追われたり――」

「それ嘘でしょ?」

「はい」

 数秒の沈黙があった。ふたりは必死にこらえていたが、とうとう我慢できなくなって、同時に吹き出し、笑い転げた。あまりにも大声で笑ったので、聞きつけた看護師がふたりを注意した。シンヤとユイは謝って、落ち着くために大きく息を吸った。

 シンヤはユイの言葉が意外だった。彼女が冗談を言ったのを聞いたのは、今のがはじめてだったし、冗談を言ってくれたこと自体が、なんだかとてもうれしかった。シンヤがユイを見ると、彼女は笑いすぎたせいで涙が出たようで、指先でそれを拭っていた。そのとき、彼女の指先が右目の眼帯を持ち上げた。シンヤはその下を垣間見、思わず息をのんだ。ユイはそんなシンヤに気付いて、はっとした様子で眼帯を押さえつけた。

 数分前のものとは異質な沈黙がおりた。シンヤは慌てて視線をそらし「ごめん」と言った。ユイはすこしためらったようだったが、目を閉じ、ゆっくり開くと、シンヤに言った。

「クロミネさん」

 シンヤはふたたびユイの顔を見た。彼女の白く濁った左目には複雑な光があった。

「……見てください」

 静かにそう言って、ユイは眼帯を外した。シンヤは目を背けたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえ、ユイの右目を直視した。

 かつてユイ・オカモトは、右目にはAACVのカメラとつなげるための端子があると言った。シンヤはそれがどんなものか想像したことがあった。しかしそれは漫画で見たサイボーグのようなもので、決して、今、目の前にあるもののように、ひどく痛々しいものではなかった。彼女の右目には目蓋が無かった。目蓋は切除されていた。眼窩の中にあった眼球はそっくり除かれているらしかった。今の彼女の眼窩には、精密機械がぎゅうぎゅうに押し込まれているのがはっきりわかった。本来瞳がある位置には小さな蓋のされた端子が開いていて、メッキを施された金具が金色に光っていた。目の周りには小さな縫い目がいくつかあって、そのうちのひとつはまだ新しいように見えた。メンテナンスのために今でもときどきとり外しているのだということをさとって、シンヤは胸が痛くなった。

「オカモトさん――」

「あわれまないでくださいね」

 シンヤの言葉を遮って、ユイが言った。彼女の左目は悲しげに伏せられていた。

「これは私の選択です。見とどけるために、私がした選択です」

「――そんなこと、思っちゃいないよ」

 シンヤの言葉にユイは疑問の色を浮かべた。シンヤはユイの両目をまっすぐに見すえた。

「俺にもわかったんだよ。オカモトさんが『見とどけたい』ものが」

 ユイは今にも泣きだしそうな表情になった。シンヤはぎゅっと目をつぶった。

 彼女は、AACVに乗っている間だけは、視力を取り戻すことができる。それはつまり、彼女が見ているものは、戦争行為か、その直前直後の兵器とAACVだけだということだ。彼女が見とどけたいものとは、「死」に向かっていく仲間たちと、「死」を乗り越え、また次の「死」に向かっていく仲間たちの姿なのだ。彼女は幽霊屋敷の誰よりも「死」について関心が高いのだ。そして、その理由は――

「クロミネさん……」

 ユイの目からは涙があふれていた。彼女は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。心の底からの涙だった。

「……私……死にたくない……」

――彼女が誰よりも「死」を恐れているからだ。

ユイはうつむいて体を震わせていた。つかんだシーツに涙のシミが広がっていた。シンヤはベッドの上に身を乗り出し、ユイの肩を支えた。彼女は顔を上げると、シンヤの体に腕をまわして、さらに泣いた。シンヤは震えるユイの体をつよく引きよせ、またユイも、シンヤの体をつよく抱きしめた。耳元でユイの嗚咽を聞きながら、シンヤは静かに言った。

「オカモトさん」

 シンヤはユイを抱きしめたまま、落ち着かせるために、彼女の背中を軽くさすった。背骨とあばら骨と肩甲骨のかたちがはっきり分かるほど、彼女は痩せていた。シンヤは、彼女のその体が、彼女の死への恐怖の具現化に思えて、愛おしかった。

「誰だって死からは逃れられない」

 シンヤは諭すように語りかけたが、その相手はユイだけでなく、自分自身でもあった。ユイは無言だった。

「死がおそろしくない人なんていない。俺も怖いし、俺以外のみんなも怖くてしかたないんだ。でも、それでも『死』はやってくるんだ……いつかはわからないけれど」

 シンヤはユイの頭を撫でた。彼女は頷いた。

「だから」

 シンヤはユイの肩をつかんで、彼女の体をひきはがした。ユイの左目は真っ赤に充血し、頬は紅潮していた。前髪が汗と涙で額に貼りついていた。シンヤは彼女の目を見て言った。

「俺たちはなんとしてでも生きなきゃならない。死を恐れたり、くじけている暇なんかないんだ。いつだってヤツは俺たちを狙っているんだ――」

 シンヤは自分の言葉にはっとした。地上の闇の中や、真夜中の廊下の暗がりの向こうからこちらを見ていたあの怪物の正体がわかった気がした。すると、シンヤは急に自分の胸が、負けるものか、という闘志で熱くなったのを感じた。ユイの肩はまだ震えていたが、シンヤのその言葉を聞いて、彼女は笑顔を作った。むりやりな笑顔だった。彼女は言った。

「クロミネさんは……強いんですね」

 シンヤは「そんなことない」と言った。だが彼女は首を振った。

「お願いがあります」

 ユイは震える声で言った。

「顔を、触らせてください」

 シンヤは了承した。ユイはシンヤの手をゆっくりとつかんで、肩からおろした。

 ユイはそれからシンヤの頬をそっと手で包み込んだ。彼女の細い指がシンヤの口元や、鼻、目元に触れた。ユイは目を閉じていた。彼女はぽつりと言った。

「クロミネさんって、こんな顔だったんですね」

「期待外れだったかな」シンヤは苦笑した。

「いいえ、思ったとおりです」

 ユイはシンヤの顔から手を離し、顔を背けた。

「もう、行ってください」

 ユイの言葉にシンヤは素直に従うことにした。椅子から立ち上がり、ベッドに背を向けようとするシンヤに、ユイは最後に言った。

「『城ノ埼にて』、ありがとうございました」

 去り際に見たユイの表情は、なんだか物悲しい笑顔だった。


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