第十二話「やたがらすとアンデッド」
「おろち」がドックを這い出ていく。無限軌道が固い床を進むときの、やかましい音に耳を塞ぎたくなりつつも、シンヤはその巨体を画面越しに見送っていた。またその姿を見られることを心から願いつつ、彼はモニターから目を逸らした。
シンヤはラウンジに居た。
シンヤは椅子に腰かけ、ラウンジ中央にあるディスプレイの映像を見ていた。映像は「おろち」の姿が見えなくなると、ドック内の様子から、自動的にジオ・ジャパンの国営放送に戻った。ちょうどニュースの時間だった。ニュースの内容は、去年の年間自殺者数が、おととしを大きく上回ったことについて、あらたな相談窓口が設置されたというものだった。シンヤは大きく舌打ちして、テーブルに頬杖をついた。手持ち無沙汰だった。
シンヤは、今後しばらくの間、このブロックの警護にあたれと言われたのだ。理由は分かっているし、誰かに命を脅かされないのはありがたかったが、AACVパイロットとしての自分の能力を否定されたような気がして、おもしろくなかった。シンヤは何となく腕時計を見た。ガラスのひび割れたそれは正確に時を刻んでいて、午前十時を指していた。
シンヤは今日の午後までなにも仕事が無かった。退屈で仕方なかった。溜め息をついた。そのとき、シンヤはリョウゴのことを思い出して、心配になった。どうやら彼は思ったようにAACVを動かせずに苦労しているらしかったし、シンヤとしては、友達が困っているのだから、なんとか力になりたかった。シンヤはもう一度腕時計を見て、もしかしたらまだ模擬線をやっているかもしれない、と思い立ち、様子を見に行くことにした。
シンヤは廊下をしばらく歩いて、テストルームを監視するモニター室にたどり着くと、ノックをして扉を開けた。モニター室にはタクヤが居た。彼は機材に向かって座っていたが、部屋に入ってきたシンヤを見て、笑いかけながら手を上げて挨拶をした。こちらも手を上げて返した。シンヤはタクヤのそばに立ってモニターを見た。
「これ、リョウゴ?」
身をのり出して、画面に映る重装型AACVを指差すと、タクヤは頷いた。
「かなーり苦戦してるぜ。そろそろユイちゃんに勝ってもいいころだと思うんだけどな」
そうしてタクヤはマイクを引き寄せ、おどけた調子で言った。
「リョウゴくーん、だいじょび?」
「るっせぇ!」
いきなりの怒声がスピーカーから返ってきて、シンヤはビクリと身を震わせた。タクヤは苦笑いしながら肩をすくめる。
「さっきからこんな感じよ。冷静さを欠いちまってるから、軌道も単純だし、よく狙わない。負けん気つえぇのは良いんだけどさ。関節に入ったペイント弾掃除すんのめんどくせー」
シンヤはタクヤの言葉を聞いて、マイクを口元に引き寄せた。
「リョウゴ、聞こえるか?」
「シンヤ……!?」
リョウゴの声には動揺の色があった。シンヤは彼を刺激しないように、なるべく軽い調子でアドバイスすることにした。
「お前がんばりすぎだよ。もっと力を抜いてやってみろって」
「なっ……」
「とりあえず深呼吸して落ち着けって。そんなんじゃ勝てるものも勝てないからさ、な?」
リョウゴの返事は無かった。シンヤはマイクから離れ、ディスプレイに視線をやった。重装型AACVは静かに佇んでいた。
タクヤが代わってマイクをとった。
「ハイじゃー次イクぜ? これ終わったら休憩入れるから。ユイちゃんは大丈夫?」
「はい」
ユイのしっかりとした声が聞こえて、シンヤはすこしうれしくなった。彼女の水色の高機動型AACVが、リョウゴの前方に立っているのを、シンヤは見つけた。
「じゃあもう一回、レディ……ゴゥ!」
タクヤの合図で二機は滑り出した。
ユイは機体を小刻みに左右に振りながら、重装型の厚い装甲を貫いて致命傷を与えうる距離まで詰め寄ろうとしていた。対するリョウゴは、重装型専用の、高機動型のそれより大型で威力のあるアサルトライフルを、腰を落としてどっしりと構え、多少の被弾は覚悟した戦法をとっていた。
武器の性能から見て、一発でも当たればリョウゴの勝ちだが、相手は高機動型だ。近距離では重装型が高機動型を捉えるのは難しい。というか、そもそも重装型はAACV同士の近接戦用ではなく、高機動型や中量型が敵のAACVを引き付けている間に敵艦に肉薄し、確実にその息の根を止める一撃を放つため、もしくは、遠距離から動く砲台として大火力火器を撃ち込むための機体だ。だからスピードを犠牲にして装甲を強化し、一撃必殺の巨大な超振動剣を標準装備しているのだった。そんな重装型AACVと、最初からAACV同士の戦いを想定された高機動型は最も相性が悪かった。
(だけどリョウゴなら勝ってくれるはずだ)シンヤは熱いまなざしでモニターを見ていた。
ユイはあっという間にリョウゴを仕留められる距離まで肉薄していた。しかしロックオンを成功させていたリョウゴは、ユイよりも先に引き金を引いた。列をなした弾丸が、目にもとまらぬ速度でユイの機体を襲うが、危険を察知したのか、その直前に素早く方向転換をしていたユイには当たらなかった。ユイはその一瞬の間にもリョウゴを撃った。大半の弾は外れたが、いくつかがリョウゴの胸部装甲に命中し、そこをピンク色に染めた。しかし、あれならまだ致命傷じゃない。それはシンヤにもリョウゴにも分かっていた。
だがユイは見誤った。
彼女は手応えを感じて気が抜けたのか、それとも疲労のためか分からないが、一瞬、機体の動きを止めたのだ。それをリョウゴは逃さなかった。銃を向け、発砲した。ユイの反応がさらに一瞬遅れたのは、リョウゴがアサルトライフルのセンサーを切ったからだろう。しかしそれでもユイは肩スラスターを吹かして空中に飛び、攻撃を紙一重でかわすことに成功した。
――リョウゴの勝ちだ。シンヤは確信した。
この、相手がギリギリかわせる程度の射撃で牽制をかけて、その逃げる先に待ち構え、そして飛び込んできた敵を超振動剣で貫くのは――はたしてリョウゴは予想通りの戦法をとっていた――俺をゲーム内で幾度も撃墜した、リョウゴ得意の戦法だ!
ユイの退路に立ちふさがったリョウゴは、右腕の大剣を展開していた。腋を引き締めて、思いきり、突いた。
ゴム製の大剣が水色のAACVを空中で弾きとばした。ユイの機体はバランスを立て直す暇もなく、背中から床に思い切り叩きつけられた。リョウゴは少し離れたところへ着地した。
タクヤが模擬戦終了を告げた。
勝てた。
俺はついに勝った。
これで地上へ出ることができる。活躍できる。だけど――
俺が勝てたのは、シンヤのアドバイスのおかげだ。素直にそれに従ったから勝てたのだ。
つまり、完全な実力じゃないのだ。
許せない。
手を貸された自分が。手を貸したシンヤが。
なぜ俺があいつに助けられているんだ。俺があいつを助けることはあっても、逆はあってはいけないんだ。なぜなら、俺はあいつに――
操縦席でのリョウゴの呟きは、誰にも聞かれることはなかった。
突然、目の前が明るくなった。思わずつぶった目を開くと、モニターに映るドック内の風景があった。シンヤは、この瞬間だけは何度経験しても慣れそうになかった。シンヤはヘルメットと固定具の隙間から指を入れ、蒸れる首筋を掻いた。
「システムチェック完了、異常無し。ハンガー外してください」
そうマイクに言うと、「声に力が無いぞ、大丈夫か?」と整備員に返された。
苦笑しつつ「大丈夫です」とかえして、ハンガーから外されたAACVの足を持ち上げ、一歩を踏み出した。ドック内を歩いて地上ゲートへ向かう。
ゲートは既に開いていた。そしてその中で、見覚えのある機体がシンヤを待っていた。丸く分厚い装甲と、右手の大剣、平たい頭の無骨なデザイン。リョウゴの乗る重装型AACVだった。シンヤはリョウゴの地上デビューである、哨戒任務の指導役を任じられていたのだった。そのため、いつかのようにAACVの背中にレドームを背負っていた。シンヤは同じような装備でユイとはじめて地上に出たのが、遠い昔のように感じられた。
リフト内にシンヤが入り、リョウゴの横に並ぶと、ゲートが閉まって、リフトが上昇を始めた。地上へ出た。
暗く、冷たく、静かで、灰の降り続く、深海のような世界。シンヤはもうすっかり見慣れてしまって、別段、特別な感想も湧かなくなっていた。リョウゴはどうだろうかと気になって、シンヤは彼に通信機で訊いた。
「極楽浄土には見えないな」というのがリョウゴの返答だった。意味がよくわからなかったので、説明をお願いすると、「空の上にあるのは天国だろ?」と言われ、納得した。シンヤはなんだか皮肉に感じて「どうやら神様は留守らしい」と言った。ふたりは笑った。
シンヤは機体を飛ばして、地上を進みはじめた。リョウゴがそのあとを追う。
灰塵の荒野を、ふたりの巨人が進んでいく。
今日は風が強く、いたるところで灰塵の嵐に巻き込まれた。AACVは地上用に作られているから大丈夫だろうが、関節やスラスターがやられないかと、シンヤは心配になった。
ふと、シンヤは、この灰がやむことはあるのだろうか、と思った。十年後も百年後も変わらず降り続けるこの灰と塵を想像し、シンヤは物悲しい気持ちになった。
シンヤはチラリと後方のリョウゴを見た。彼はもうすっかり機体の扱いに慣れたようで、灰に足をとられても素早く復帰していた。
シンヤは切なくなった。本来なら、俺がこの光景を見ることは無かったはずなのだ。人違いで、巻き込まれて……いったいどういうつもりなのか、とシンヤは神様に問いただしたくなったが、地上のどこを見まわしても、彼の姿は見当たらなかった。
「なぁ、シンヤ」
急にリョウゴが通信機越しに言った。
シンヤは「ん?」と精一杯明るい調子で返事をした。
「俺たちってさ、何で知り合ったんだっけ」
リョウゴはそんな質問をしてきた。
シンヤはすこし考えて、「たしか入学式の時、俺から話しかけて、それからじゃなかった?」と言った。リョウゴは納得しかねるように唸った。
「そうだっけ」
「いきなりどうした?」
「いや、ちょっと……」
リョウゴは少し口ごもった。
「なんか、もっとほかになかったっけ」
「ほかに?」シンヤが訊き返すと、リョウゴは言った。
「ああ。なんつーかさ、その、たしかに知り合ったのは入学式の時だけどさ、それから何かキッカケがあって、一気に親しくなった覚えがあるんだよ。それ、いつだったかなー、と」
「そーだっけ?」
シンヤは首を傾げた。キッカケと言われても、特に思い当たる節はなかった。が、しばらくしてリョウゴが「あ」と声をあげた。
「思い出した、最初の中間テストだ」
「え? あー……言われてみればそんな気もする」
シンヤは頭を掻こうとして、ヘルメットと固定具に阻まれた。
高校に入学して初めての英語のテストで、あまり点が取れなかったシンヤが、たまたま近くにいた満点近いリョウゴと点数を見せ合ってしまい、それから勉強を教えてもらうことになったことがあったが、今思い返すと、それがキッカケだったのかもしれない。
我ながら情けない、とシンヤは苦笑した。
「赤点ギリギリだったなお前」
「るせっ! 忘れろっ!」
ふたりはケラケラと笑いあった。
「……あの頃はこんなことになるなんて、思ってなかったよな」
ぽつりとリョウゴが言った。
「ゴメンな、シンヤ。巻きこんじまって」
それを聞いたシンヤは目を伏せた。
「謝っても、許さねーよ」
シンヤはそう返した。リョウゴは沈黙した。
「どんなに謝っても、リョウゴ、俺がお前を許すわけない。俺の人生はお前のせいでメチャクチャにされたんだ。こんなの、許せるわけねーよ」
「……そう、だよな」
「だから」
シンヤは微笑む。
「お前は生きて、生きて、全力で生きて、俺が、お前が罪の償いを終えたと判断するまで、生きてくれ。俺に対して申し訳ないと思うなら、死ぬまで生きるのが、最高の償いだよ」
「……シンヤ」
リョウゴは落ち着いた調子で言った。
「言ってて恥ずかしくねーの?」
「やめろよそういうの、我慢したのに」
「ははっ」
リョウゴは笑い、スラスターを吹かして機体を浮かせた。シンヤの上を飛び越え、その前に着地する。
シンヤは足を止めた。リョウゴは振り向いた。
数分の間があった。
それはひと言の言葉も、一ミリの動きもなかったが、濃密な数分だった。雄弁な無言だった。
そしてふたりは同時にAACVの片腕をあげ、握りこぶしにして、突き合わせた。ぶつかった時の振動で、シンヤだけは確信した。
コイツは、友達だ。
数週間が経った。
「ほらほら! 早く来いって!」
シンヤはタクヤに急かされながら廊下を歩いていた。
「いったい何なんですか?」
シンヤはさっきから何度もそうたずねていたが、そのたびにタクヤは楽しそうに笑ってごまかすだけだった。そのことからシンヤは、きっと自分にとって嬉しいことが起こったのだろうと予想していたが、タクヤの態度からは、さっぱりその内容はわからなかった。
やがてふたりがたどり着いたのは、AACVドックの扉だった。タクヤが待ちきれない様子で扉を開いた。シンヤはドックに踏み込んで周囲を見渡したが、一見、特に変わった様子は無いように見えた。
シンヤは不思議に思ってタクヤを見たが、そのときにはすでに彼は横に居なかった。彼はさらに先へと行ってしまっていた。シンヤが慌てて追いかけて、AACVの列の足下をかけていくと、タクヤはとある機体の前で立ち止まって、上を見ていた。シンヤが彼に駆け寄ると、タクヤはシンヤをふりむき、歯を見せて笑った。
「ギフテッド認定、おめでとう」
「え?」
タクヤは見上げていた機体を指した。シンヤも恐る恐る見上げた。そこに立っていたのは、シンヤが今まで見たことが無い機体だった。
高機動型AACVをベースに、各部スラスターはさらに大型化、高出力化されていた。それに反比例して腕は小型化していて、二の腕はほぼ消滅していた。その先の腕は銃器と一体化してしまっていて、ライフルの銃身の下に展開式の超高熱ブレードがついていた。脚は、太股までは大型化しているが、その先は細くなり、まるで鳥の足のようだった。背面には鋭角三角形のシルエットを持つ、巨大な追加スラスターユニットが装備されていて、機体印象を猛禽類のような、迫力のあるものにしていた。全体の装甲の色は黒く、まるで大きなカラスのようだ、とシンヤは思った。
「まさか……」
シンヤが言葉を発すると、タクヤが頷いた。
「お前専用機さ。AACV『やたがらす』」
「そんな……」
「この間実用化されたばかりの新型のAACVを、今までの戦闘データから、お前のスタイルに最も適していると思う形に改造しまくったぜ、主に俺が」
「え?」
シンヤが訊き返すと、タクヤが目をキラキラさせて言った。
「最新テクノロジーの塊をいじれるなんて、だからここは最高なんだ! 新型エンジンの回転数の数字見たとき鼻血出たぜ! 関節だって新素材だし、装甲だって薄っぺらく見えるかもだけど、防御力はほとんど落ちていない! 新式フレームが複雑に組み合わさって想像もつかないような動きを見せたときなんか……もう……」
タクヤはいきなり「やたがらす」に駆け寄って、足に抱き付いた。その顔はこれ以上ないほどだらしなく、夢を見ているような目で、涎をたらしていた。
「とにかく、エロい!」
「は、はぁ」
シンヤは一歩後ずさった。タクヤはすっかり興奮しきっていて、呼吸は荒かった。彼はしばらくそうしていたが、やっと「やたがらす」の足から離れると、涎をぬぐって、またいつもの調子にもどった。
「まーでも、細かい調整はこれからだし、超性能気味でお前に操りきれるかは、ちょい微妙だけどな。最高時速はマッハ二で、平均は時速八百くらいだったな、たしか」
シンヤはタクヤの説明を聞きながら「やたがらす」を見上げていた。
複雑な気持ちだった。ギフテッドに認定され、専用機をもらえたということは、幽霊屋敷が自分の功績を認めてくれたことの証だったし、そのことは素直にうれしかった。だがそれは、それだけ多くの人間を殺したということを意味していた。シンヤはいまさらそのことに対してはなにも感じなくなっていた。人を殺すことがいけないことだということは理解していたし、今もそう思っている。だが、相手が自分の命を狙ってくるのに、わざわざ座して死を待つ理由もなかった。シンヤはいつからか、自分に銃口をむける相手には容赦しなくなっていた。この「やたがらす」に乗ることによって、自分はますます効率よく人の命を奪えるだろう、とシンヤは思った。
そしてシンヤが「やたがらす」を見て次に考えたのは、リョウゴのことだった。「やたがらす」は、シンヤがリョウゴよりもパイロットとして有能であることの物的証拠だった。リョウゴはシンヤとともにすでに数回戦闘を経験していたが、ギフテッド認定もされていなかったし、専用機ももらえていなかった。シンヤは、いつだって自分よりも優れていたリョウゴに、明確な差をつけてしまっていることが、なんだかとても悪いことのように感じるとともに、かすかな優越感もまた感じていた。シンヤはそのかすかな優越感すら、友達への裏切りのように思えてしまっていた。
「シンヤ」
声をかけられて、シンヤははっとした。タクヤが心配そうな表情で顔を覗き込んでいた。
「どうかしたのか?」
タクヤの言葉に、シンヤは慌てて首を振った。
「それならいいんだけどさ」
タクヤはシンヤから離れ、歩き出す。
「気を付けてくれよ? お前たちは『鍵』なんだからな」
彼はそう言い捨てて、どこかに行ってしまった。シンヤはタクヤの意味深な言葉よりも、リョウゴは今ごろどうしているだろうか、ということのほうが気にかかった。
意識が戻っても、リョウゴはしばらくぼんやりと天井を眺め続けていた。
見覚えの無い天井だった。清潔感漂う白が、蛍光灯の光を反射して、眩しかった。手のひらで額を押さえようとして、リョウゴは自分がベッドに寝かされていることを知った。上体を起こすと、ずきり、と頭が痛んだ。シャツが肌に貼りついていて、随分と汗をかいていたようだと、他人事のようにリョウゴは思った。リョウゴは周囲を見渡した。ベッドの周りに引かれたカーテンから、リョウゴは、ここは医務室だろうと見当をつけた。そして、ならば何故ここに、と記憶を辿った。
たしか、今朝は朝食をとって、部屋に戻ろうとして、それで――そうだ、急に足から力が抜けて、廊下に倒れたんだった。そういえば、ここ最近ずっと気分が悪い……疲れているのだろうか。
リョウゴがしばらくベッドの上でぼうっとしていると、医師がカーテンから顔を覗かせた。
いくつかの軽い会話をして、リョウゴは自分が貧血で倒れたのだという説明をされた。リョウゴは礼を言った。医師は倒れた拍子に頭を打ったかもしれない、といって簡単な検査をし、それからついでに栄養剤の点滴を射ってくれた。
リョウゴが点滴に繋がれたままじっとしていると、しばらくして、医師が「君が倒れていることを知らせてくれた人が来た」と教えてくれた。リョウゴがぜひ会わせてください、と言うと、その人間はカーテンの向こうから姿を現した。
「なんだ」とリョウゴは見慣れた顔にほっとした。
カーテンの向こうから現れたのは、黒の短髪と白い肌の、白杖を突いた細身の少女だった。
「ありがとう、オカモトさん」
リョウゴは頭を下げた。ユイはすこし恥ずかしそうにはにかんだ。彼女は「いえ、お礼なんて……」と言い、それから「具合はどうですか」と訊ねた。
「まだ少しダルいけど、多分、もうちょい寝れば治るよ。にしても、疲れてたのかな、いきなり倒れるなんて」
ユイは頭を振った。
「いえ、それはきっと――」
「きっと?」
「あ、いえ……何でもありません」
オカモトは何かまずいことでも言いかけたようで、顔を伏せた。リョウゴは眉をひそめた。
「気になるな」
リョウゴの言葉には刺があった。本人には自覚は無かったようだったが、ユイはそれを問い詰められていると受け取って、目を伏せた。
「……わかりました、言います」
顔を上げた彼女をリョウゴは見る。
「『P物質起因性障害』のことを」
「……笑えねー」
それが、オカモトからひと通りの説明を受けたリョウゴの口から、やっとのことでこぼれた言葉だった。
ユイは頷いた。
「笑えない、事実です」
ユイは顔を上げ、リョウゴの考えこむような声を聞いた。彼はまだどこか他人事のように受け止めているのだろう、とユイは思った。それで普通なのだ。ある日突然「あなたの余命は三年です」と言われて、すぐさま自らの死を実感できる人間は少ない。自らの死の実感はじわりじわりと、日々の生活の中で、毒のように全身にまわるのだ。
「なるほど、納得いった」
リョウゴは言った。
「なんかいろいろと妙だな、とは思っていたけど、そういうことだったのか」
「ええ」
「スッキリしたよ、ありがとう」
「……そんなこと、言わないでください」
「ところで、もうひとつ訊いていい?」
ユイは首を傾げた。
「なんでしょう」
「四年後の致死率は?」
言われて、ユイは少し言いづらそうな表情をしたが、すぐに彼女は答えた。
「ゼロです」
「え?」
「四年目以降、P物質起因性障害で死んだ人はいません」
リョウゴはすこし驚いた。
「ってことはつまり、例外が居るんだよな?」
「例外……?」
「三年後も生き残った、一パーセントの人間が」
ユイは頷いた。
「有名な人なら」
「それ、どんなやつか、オカモトさんは知っている?」
ユイは首を振る。しかし彼女は言った。
「私は、名前くらいしか」
「どんな名前?」
「『ハヤタ・ツカサキ』通称『アンデッド』」




