8話目
音咲は室内に響いてくる水音で目を醒ました。
カーテンの隙間から日の光が差込んでいる。朝になったのだ。
部屋の中を見回すと、布団に寝かせたはずの夜香の姿が消えている。聞こえてくる水音から、彼女はシャワーを浴びているようだ。
昨夜、音咲は夜香を家に運び、寝かせた後、家に帰らずに見守ることにした。またおかしな気を起こす可能性があるからである。
家の婆ちゃんに一報して、音咲は壁に身を預けて、そのまま眠ってしまった。
体が非常にだるい。温かい格好で寝なかったために、一晩中寒気に晒されていたのが不味かったようである。
音咲はのろのろと起き上がり、カーテンを開けて、日光を部屋一杯に招き入れた。
背伸びをすると、体中の間接が小気味好い音を発する。
「おはよう」
挨拶に振り返ると夜香が立っていた。いつの間にか水音は止んでいる。シャワーを終えて風呂場から出てきたばかりのようだ。
夜香はバスタオルを一枚、体に巻きつけているだけであった。濡れた黒髪と、細やかな白い肌が実に婀娜っぽい。
「おはようございます」
音咲は一瞬、見蕩れてしまったが、慌てて挨拶を返す。勿論、脳内ギャラリーに夜香の濡れ姿を収めておくことに抜かりはない。
夜香は腰を下ろし正座した。三つ指付いて頭を下げる。生徒会室の時と同様、土下座であった。
「ごめんなさい、また私、我を忘れてとんでもないことをしてしまったわ。本当にごめんなさい。お詫びとして、君が床に吐いた唾液を舐めろと言えば、喜んで舐めさせてもらうわ」
唐突にマゾっぽいことを言い出すので、また音咲のサドッ気が騒ぎ出してしまう。もしかしたら昨夜のことでMに転向してくれたのかもしれない。
しかし今日は学校がある日なので、このまま色事をおっ始めるわけにもいかない。
音咲は理性で欲望を押さえ込む。
「顔を上げてください、我を忘れて、酷いことをしたのはお互い様ですから」
「違うわね、音咲君のあれは、我を忘れたんじゃない。本性が出たんだわ。君は『心やさしきドS』よ」
身を起こした夜香は真顔でそう言った。
その後、夜香に勧められて音咲もシャワーを浴びた。さっぱりとして出てくると食卓に朝食が準備されていた。
焼き魚に味噌汁に漬物、そしてご飯、中でも焼き魚は絶品であった。
干物を焼いたものであるのだが、肉厚で身がたっぷり詰っており油が乗っている。干物とは思えないほどジューシーであった。
結構な高級品らしい、夜香が詫びの一環として音咲に振舞ったのであった。
食事を終えると、二人は一緒に登校した。付き合い始めてから一度も二人で登下校をしたことがなかったので、新鮮であった。
途中で夜香が例の能力に関して音咲に質問した。
「音咲君はこの力に関して知識があるようね。よかったら教えてくれないかしら」
「詳しいとまでは言えないのですが、自分の知る限りでよければ」
音咲と夜香が備えている力は、簡単に言ってしまうと超能力、常人には無い能力である。
夜香が使えるのは『サイコキネシス』、物理手段を用いず、念じるだけで物体に影響を及ぼす能力である。
「ネタばらししちゃいますけど、自分の能力はこの目です。『観察眼』て名付けています。そのまんまのネーミングです」
音咲の能力は、一見しただけで物事の様相を見極め、そこにある事情を把握してしまうというものであった。
「なるほど、私の見えない攻撃を避けることが出来たのは、その目のおかげなのね」
夜香は衝撃を放つ時に、目標に対して意識を集中させる。
音咲は観察眼によって、夜香の微妙な仕草から攻撃の兆候と照準を正確に読み取って回避していたのである。
夜香を罠に嵌めた時、床板の脆い場所を見抜いたのも、この眼の成果であった。
「因みにこの能力は、自分の体を鍛えるのにも使っています」
音咲は観察眼によって、己の身体の研究と強化を行っている。
観察眼によって、肉体の状況を細かく分析し、効率的なトレーニングを行って、無駄な脂肪と筋肉を廃し、必要な部分を鍛えているのである。
このことによって音咲の肉体は類稀なる持久力と瞬発力を兼備えているのである。
夜香に勝てたのは単に観察眼のおかげだけではなく、日頃の鍛錬の賜物でもあった。
また、夜香が言ったように、音咲の体が綺麗と感じられるのは、無用なものを取り除き、実用的に練り上げることによって洗練され、機能美と呼べるものが発現しているからなのである。
「へえ~、そ~なんだ~」
音咲の胸元を触ろうとして伸ばされた夜香の手が、空を切った。音咲が避けたのである。
「なぜ逃げる?」
「いえ、会長の手から如何わしいオーラが出ていたもので、つい」
残念そうに夜香は舌打ちした。
「もしかしたら私たち以外にも能力を持った人がいるのかもしれないわね」
「可能性はあります、どうやらここは昔、特殊な人間を輩出していた土地柄のようです」
音咲がお寺や図書館で、この土地に纏わる古い文献を調べた所、たったの数人で、一万近い敵軍を撃退した英雄譚や、国を滅ぼしかけた一匹の人食い鬼の話などが散見された。
それらの文献は真しやかに書かれていた。これの話は捉え方によって能力者のことを綴っていると言えなくも無い。
さらに、この地では昔から非常識な現象が度々観測されており、『超常の地』などと呼ばれていたりもする。
「能力が覚醒する発端は、精神が極限状態まで追い詰められる事だと、自分は推論しています。実際に自分も能力が使えるようになったのは、二年前に死に掛けた時でしたから」
「何があったの?」
「いえその、若気の至りといいますか、中三の時に夢を追い過ぎまして・・・・」
音咲は口籠る。あまり話したくない内容らしい。
「そう、音咲君の推論は正しいと思うわ。私も能力に目覚めたのは、あの男に苦しめられている時だったから」
夜香の表情が瞬間だけ暗く翳ったが、すぐに平静を取り戻す。
音咲はそれを見逃さなかったが、あえて触れないでおくことにする。
「後、この能力の起源には人の手が加わっていると思います」
「ほう、その根拠は?」
「能力を発動している時の心理状態です」
能力を使用すると心の在り方が歪になるのである。
一部の感情が凍りついていく。
それは情と呼ばれているものだ。思いやり、情け、愛情、それらの美徳的感情が麻痺していく。代わりの増長してくるのが非理性的な欲望と攻撃衝動である。
能力発動中の人間の目付きが異様なものとなるのは、この精神構造の変化に起因している。人格が凶暴なものへと入れ替わってしまうのである。
さらに興が乗ってくると、その心理変化は顕著になり、情は完全に失われて、欲望と衝動に支配される。
そこまで陥ってしまうと、人命への尊厳を無くし、例え親兄弟、愛するわが子であっても、躊躇することなく手に掛けてしまえるのである。
いつもは善良な人間が、殺戮機械と化してしまうのだ。
音咲を襲った時の夜香が、正にその状態であった。
一度そうなってしまうと、元に戻す方法は、事を終らせるか、意識を断ち切るか、強烈な精神的ショックを与えるか、のいずれかである。
「あまりに偏った精神状態、これは明らかに不自然です。作為的にゆがめられたとしか考えられません。おそらく邪術の類が関係しているのではないかと」
「邪術ねぇ、そんな非科学的なものに、これだけの力があるのかしら」
「邪術には、とても長い歴史があります。その効力は公になっていないだけ、ということは十分に考えられます」
「人為的なものか・・・、あまりぞっとしない話。私は超能力という人として外れた力を行使するのだから、中身も人から外れて当然、と思っていたのだけど、これは普通の人間にも当て嵌まることだものね。人道を踏み外せば、人は外道に堕ちる。道理よ。超能力者だから外道になるなんて、我ながらナンセンスな考え方をしていたわ」
「これは飽く迄、自分が調べ、考察して作った推論ですけどね。しかし確かなことが一つだけあります。この力は危険だということです。とりわけ会長のような怨恨絡みで能力を使う人は、人間らしさを失って暴走し易い」
音咲は正面から夜香の目をじっと見据えた。
「ですから約束してください。あの男への復讐はもう止めると、妄執は捨てると」
夜香は目線を逸らし、沈黙してしまう。
肯定してくれなかったが、否定もしなかった。これはこれで夜香の考えが少しだけ穏便な方向に向ったのだと音咲は前向きに解釈する。
「あいつの件は一旦置いておくことにするわ、それよりも急いで確かめなければならないのは、あの子の事よ」
あの子とは夜空のことを指している。
沈痛な面持ちの夜香に、音咲は訝しげに尋ねた。
「確かめるって、一体、夜空ちゃんに何を確かめるのですか?」
「あいつの話を聞いていなかったの?、あの子が例の連続殺人事件に関わっているのかということ」
苦悩を滲ませる夜香の言葉を、音咲は笑い飛ばした。
「あれは菊本の狂言に決まっているじゃないですか、そもそも夜空ちゃんが能力者という話自体が荒唐無稽で・・・」
「使えるのよ」
音咲の発言を、夜香が途中で遮った。目を丸くして、音咲は夜香の方に振り向く。
「今なんと」
「あの子も能力が使えるの。私とまったく同種の力がね。音咲君、君には私たち姉妹とあの男の間で起こった事件の真相を打ち明けておくわ」
「真相って、もう話してくれたじゃないですか」
夜香は申し訳無さそうに、視線を伏せた。
「ごめんなさい、あれにはまだ偽りが含まれているのよ」
昨夜の話では、乱暴を働こうとした菊本を夜香が刺した。そして正当防衛とするために自らを傷つけ、菊本を刑務所送りにしたという内容であった。
「刺したのは私じゃない、刺したのはあの子なのよ」
衝撃的な事実を夜香は口にした。
姉妹で初め能力に覚醒したのは夜香の方であった。
しかし、その力は大変弱く、今のように人を傷つけられるものではなかった。菊本の暴力によって塞込み勝ちの妹を、魔法と称して喜ばせる程度の他愛無い力であった。
事件の時、夜香が菊本に押し倒される場面を目の当たりにして、今度は夜空が覚醒した。
夜香とは違い、夜空の力は覚醒当初からとても強力であった。夜空は力で刃物を操り、菊本の脇腹を深々と抉ったのだ。
「あの男は自分の腹に突き立った刃物の柄を呆然と見詰めていたわ。そしてすぐに気絶したの。昨日の口振りからして、あの子が能力を使えることを最近知ったばかりのようだったから、あいつは事件の時に、妹の力でやられたってことを、わかっていないようね」
夜空の行為は菊本を単に刺しただけでは終らなかった。
刃物を横にスライドさせて菊本の内臓をぶちまけようとした。一思いにではなく、じわじわじわじわと出来るだけ菊本が苦しむようにして。
「あの子は残忍な衝動に取り付かれていたわ。私は恐ろしくて、心底震え上がった。でもこのままじゃいけないって、あの子を必死で止めたわ。止めなければ確実に殺していた」
我に返った夜空は、自分の仕出かしたことを認識して、姉に抱きつき、怖い怖いと大泣きした。
「私は罪悪感に苛まれたわ。私が不甲斐無いばかりに、幼気なあの子にとんでもないことをさせてしまったと」
それまで夜香は菊本の暴力が夜空に及ばないよう、すべて自分が受けていた。そうすれば夜空は辛い思いをしなくて済むと考えていた。
しかし、それは間違いであった。体は痛まなくても、傷付く姉の姿を見れば心が痛む。
夜空は己の無力さを痛感し、地獄の苦しみを味わっていたのである。能力が覚醒して、そのまま菊本を八つ裂きにしてしまうほどに。
「愚かだったわ、あの子の気持ちを理解してやれなかった。私の愚かさが、あの子に罪を犯させたの。手を汚すのは私の役目だったのに。私はその時誓ったわ、あの子には二度とこんな想いはさせないって」
夜香は妹の体面を守るために偽装工作を行った。菊本を刺したのは自分とし、身を守る為だったと正当防衛を主張する。
そして妹と約束をする。自分も能力を使わないから夜空も二度と使わないようにと。
「約束は守られなかったようね、私も・・・あの子も」
その後、夜香は夜空を騙して一人だけ海凪の家に養子として出した。
これは復讐に来る菊本から遠ざけるという意味合い以外に、今度は夜香一人で菊本を始末するという決意の表れでもあったのだ。
「音咲君は、あの子についてどんなイメージを持っているのかしら?」
唐突な話題の転換に、音咲は面食らってしまう。
「えっと、・・・そうですね。夜空ちゃんは素直で大人しく朗らかで、とてもいい子だと思います」
「大正解!。でもそれだけではないの。あの子は苛烈よ、自分を省みないで事を成す覚悟を持った人間だわ」
だからこそ、菊本の証言は有り得るのだ。菊本の動向に関して目を光らせていたのは、夜香だけではない。夜空も注意していたはずである。
よって菊本の脱獄は夜空も把握しているとみて間違いない。そして夜香が何をしようとしていたのか、夜空は見抜いている可能性がある。
となれば、夜空はどのような行動に出るだろうか。推測するのはさほど難しくは無い。夜香と同じように菊本を始末しようと動くはずである。
姉の身を守るため、姉一人に災いを押し付けないようにするため。
そして、それを終らせれば、姉妹の仲が必ず元に戻ると信じて。
夜空は菊本の姿を求めて街を徘徊する。そして運悪くギャングに襲われてしまう。撃退するため仕方なく能力を使用、暴走して相手を殺めてしまう。夜香と同じ流れである。
夜香は音咲のおかげで、殺人を犯さずに済んだ。しかし夜空は、誰も止めてくれる者が無く、一線を越えてしまったのだとしたら。
連続殺人のターゲットになっているのは主にギャングだと聞いている。このあたりのギャングは、どいつもこいつも凶悪な連中ばかりである。
菊本に苦しめられたことによって、夜香と同様に夜空も悪人に対しての憎しみは人一倍強い。ゆえに能力の影響でギャングという悪漢を殺すことに味を占め、そして、それを繰り返すようになってしまったのだとすれば。
今、人々を震え上がらせている連続殺人鬼の正体は夜空であるという推測が成り立ってしまうのである。
夜香は、己の考えを最後まで言葉にして音咲に告げなかった。
これは飽く迄、推測である。学校に行って本人に問い質せば、すべてが明白となるのだから、それまで余計なことを言うべきではないはずである。
「では、自分は教室へ行きますんで」
学校へ到着すると、音咲は夜香と分かれて自分のクラスへ向おうとした。
体がだるいので授業が始まる前に少しでも睡眠を取ろうと思ったのである。
しかし夜香が音咲の腕をがっしりと掴み、一緒に夜空の教室まで来てくれるように頼む。
「自分がいたって意味ないでしょうに。姉妹水入らずで語り合ってくださいよ」
「無理だわ、あの子と二人きりになって上手く会話する自信がないの。お願いよ、私一人じゃ出来ない、怖い」
「怖いって・・・・なんで自分の妹に会いに行くだけで、そんな及び腰になるんですか」
渋る音咲を夜香が力尽くで引張り、夜空の教室前まで連行していく。
そして出入り口の横に二人で立ち、じっと夜空が来るのを待った。
八重高のトップ2が、凝然と待ち構えているので、登校してきた一年生は、誰かシメられるのではないかとびくびくして、視線を合わせないようにしながら教室に入っていく。
朝のホームルーム数分前になったが、夜空は姿を現さなかった。教室内の夜空の席は、空のままである。
担任が来たので夜空はどうしたのかと尋ねると、体調不良で遅れるとのことであった。
その後、夜香は休み時間になる度に、夜空の教室を訪れた。毎回音咲は同伴させられた。
おかげで音咲は、休憩時間の間に睡眠を取ることが出来ず、授業中にうつらうつらと船を漕いで、教師から怒られてしまった。
昼休みになると、早速夜香が現れて、音咲と連れ立とうとする。
夜香に半ば引きずられながら、空腹であった音咲は、先に昼飯を購入させて欲しいと願い出る。
八重高の売店の昼食は人気が高く、出遅れるとすぐに売り切れとなってしまうのだ。
「パンを買わせてください。パンが、パンが無くなってしまう」
「パンが無いなら私を食べればいい」
「それだと食欲ではなくて、別の三大欲求が満たされてしまう」
本日五度目となる夜空の教室への来訪であったが、夜空は未だに不在であった。
痺れを切らした音咲は夜空の携帯に直接電話することを提案する。
「会長、番号は分かりますか?」
「あの子が携帯を持っていた事自体が初耳だわ」
「・・・姉妹なんですから、それくらい知っておいてください」
音咲は自分の携帯を取り出してメモリを表示しようとした。しかし液晶が点かない。
電池切れであった。
「えーいくそ、こうなったら適当なクラスメイトに夜空ちゃんの番号を聞いてみましょう」
音咲の提案に夜香は浮かない表情となる。
「あの子の番号を知っている人なんて、いるのかしら。内気でおどおどしているから、友達がいないかもしれない。もしそれでイジメにあっていることが発覚したら、私はどうすればいいの、このクラスを潰せばいいのかしら」
ぶつぶつと呟いている夜香を放置して、音咲は教室に入ろうとしていた俯き加減の女子に声を掛ける。
「ひっ!」
すると、なぜかその女子は悲鳴を喉に詰らせて、怯えた表情をした。
「許してください!、気に食わない所があったのなら、私すぐに直します。髪型ですか?、それとも服装ですか?。そうだ、お年玉をずっと貯金してきて、お金なら少しだけあるんです。全部差し上げますから、それで勘弁してください。だから痛いのだけは止めて・・・・」
「・・・・」
どうやらこの女子は、伝統である体育館裏でのシメが、我が身に降りかかってきたと思ったようであった。
以前、音咲は洒落で現生徒会を悪の組織に例えたことがあったのだが、一部の生徒からは本気でそのように認識されているのかもしれない。
戦々恐々とする女子を、危害を加えるつもりは無いと宥めて、話が出来るように落ち着かせる。
誤解とわかって、安堵しているその女子に、夜空の番号を知っているかと尋ねると、もちろんです、と屈託の無い返事がきた。
聞けば、ほとんどクラスの全員と夜空は交流があり、電話番号を交換しているとのこと。
クラスでの夜空は明るく活発で、とても親しまれているそうだ。
他のクラスにまで友人がいるらしく、流石は本堂会長の妹さんと言われているとのことであった。
番号を教えてくれないかと頼むと
「普通は勝手に教えちゃいけないんですけど、会長と副会長なら問題ないと思いますし、いいですよ」
そう言って、メモに書いてくれた。
「あの子、人気者だったのね。何で私の前ではああなのかしら」
受け取ったメモをしげしげと見ながら、夜香が感慨深げに呟く。
「そんなの決まっているじゃないですか、毎回会長がビビらせて、突っ撥ねるもんだから、夜空ちゃんが萎縮しちゃうんですよ。では番号も手に入ったことですし、電話してみますか」
「・・・わかったわ」
夜香は自分の携帯を取り出して、メモを見ながらゆっくりと番号キーを押していく。
最後のキーを押すときに、少しだけ指の動きが鈍かった。
緊張しているのか、夜香の喉がコクリと鳴る。
一回目のコール音が鳴り止む前に、電話は繋がった。
〝姉さんですか!?〟
最初に声を掛けてきたのは夜空の方であった。興奮しているのか、少し声量が大きい。
夜香は、すぐに電話が繋がってしまったため、不意を突かれるような形になり、まごついている。音咲が、話して話して、と夜香にジェスチャーを送る。
夜香は一度受話器から口元を離して咳払いをし、気持ちを落ち着ける。
「もしもし、そうよ、私よ。なぜわかったの?」
〝姉さんの番号、以前音咲先輩から教えてもらったんです。急に姉さんの名前で着信したからビックリしちゃいました〟
夜香は音咲を非難がましい目で睨んだ。なに勝手に教えているのだと。
睨み付けられた音咲は満足そうに微笑んでいる。
番号がお互いに伝わり、姉妹初の携帯による通話が実現した。その程度の出来事であったのだが、姉妹仲が僅かに前進したと言え、音咲にとっては喜ばしいことであった。
〝姉さんから電話をもらえるなんて信じられないです。あっ!、えっと、今のは決して悪い意味ではないですよ〟
夜空はややテンパっているようであった。
無理も無いことである。いつもなら話しかけてさえくれない姉が、自ら電話をしてきたのであるから。
夜香は視界から音咲を外し、電話に集中する。
「体調を崩したそうじゃない、大丈夫なの?」
〝えっ、ああ、私が学校に行ってないのをご存知なんですね。朝から少し熱っぽくて、横になっていればすぐ良くなると思ったんですけど、どうも思わしくなくて〟
「休めるのなら休んだ方がいいわ、無理をして悪化させてしまっては元も子もないわよ」
〝・・・心配してくれるんですか〟
「当たり前じゃないの」
〝姉さんに気遣ってもらえるなんて・・・私、うれしいです〟
そのしみじみとした言葉を夜空は心の底から言っているようであった。
夜香は胸中がちくちくと痛むのを感じた。この程度のやさしさで夜空は喜んでいる。
それは言い換えれば、これまで夜香は夜空に対して、この程度のやさしささえも、与えてこなかったということである。
会話が途絶えてしまった。
夜香としては本題に入る前に、肩慣らしとして、もう少し雑談でもしたかったのだが話題が見つからない。
電話口から夜空の困っている気配が伝わってきている。向こうも何を話してよいかわからず、弱っているようだ。
止む得ず夜香は本題に入ることにする。
「今日電話したのは、あなたに聞きたいことがあったからなの」
〝何でしょうか?〟
「あなた最近、夜、頻繁に、外出しているそうね」
〝えっ!?・・・何のことですか?。私、そんなことしていません〟
やや驚きを含んだ夜空の返答、意外なことを言われて戸惑っているようだが、動揺している様子はない。嘘を吐いているようでは無さそうだ。
夜香は、このまま電話を切ってしまいたかった。
夜空が、夜な夜な人を殺しているなどという菊本の証言は偽りだったと、この時点で判断してしまいたかった。
しかし夜香は、その気持ちをぐっと抑えて、もう一手、攻めてみることにした。
「海凪さんから連絡があったの、あなたが夜、無断で出掛けるのだけど、私の家に来ているのかって。これっておかしいわよね、さっきのあなたの答えと矛盾するわ」
海凪とは夜空を引き取った養父母のことである。
「友達の家にも行ってないようだから、もう私の家しか考えられないって言っていた。でもあなたは私の家にも来ていないわ。これはどういうことなの?」
これは夜香の鎌かけであった。
これで夜空が、全く訳が解らないという反応をすれば、彼女は嘘を言っていないということになる。しかし違う反応をしたなら・・・・。
夜空からの答えは返ってこない。沈黙をしている。己の心痛を紛らわすようにして、夜行はさらに畳み掛ける。
「海凪さん、こうも言っていたわ。帰ってきたあなたの服に血のような跡が残っていたことがあったって。危ないことをしているんじゃないかって、心配してた。あなたは一体どこで何をしているの?」
血痕というあまりにベタなキーワード、しかし心当たりが無いのであれば、即座に否定できるキーワードでもある。
夜空の沈黙は続いている。受話器の向こうからは不気味なほど何の気配も感じられない。
まさに『無』である。
それが、夜香の不安感を一層掻き立てていく。気持ちを静めようと、胸元を空いている方の手で鷲摑みにした。
〝・・・・そうですか。放っておいてくれれば、よかったのに。やはり一つ屋根の下で暮らしていては、隠し切れないものです〟
夜香は息を呑む。夜空の回答はもっとも聞きたくなかった類のものであった。
夜空の声音に変化は無い。しかし夜香は、これまでの夜空とは違う、まったく別人と話をしているような錯覚に襲われた。
高鳴る動悸を夜香は必死で押さえ込む。
結論を急いではいけない。夜空が嘘を吐いたということが、そのまま連続殺人に繋がるという訳ではないのだ。単に夜遊びをしているだけかもしれない。
落ち着いて、夜空との話を続けなければ。
「正直に答えてちょうだい。あなた、まさか・・・」
〝姉さん〟
話の流れを断ち切るように、強い口調の呼びかけが、夜空からなされる。
夜香の前ではおずおずとしてしまう、いつもの夜空からは考え難い対応であった。
〝今、姉さんの近くに誰かいますか?〟
「ええと、音咲君がいるけれど」
音咲は夜香の傍にいたが、通話を聞き取れるほど近い距離ではない。
〝これから私たちが話をする内容は、決して他の人に聞かれていいようなものではないです。それが例え先輩であっても。いいえ、先輩だからこそ聞かれたくないです。それに、電話で済ませていいことでもないと思います。姉さん、直接会ってお話したいです〟
夜空からは死刑判決を下すような、不吉で冷然とした意思が伝わってくる。
夜香は瞼をぎゅっと閉じ、沈痛な表情となる。その様子は陰になって、音咲には見えなかった。
これは自分も最悪の結末を想定して、腹を括らねばならないと、夜香は覚悟を決める。
「そのようね、じゃあ何時がいい?」
〝出来ればすぐがいいです、今日にでも会いたいです〟
「けれど体調が悪いのでは・・・・」
〝大丈夫です、もう直りました〟
「では今日の夜にしましょう。場所の希望はある?」
〝二人きりで話せる場所がいいです〟
「わかったわ、なら・・・・」
場所は夜香が指定した。
静かで、誰にも邪魔されず二人だけになれて、そして何かあっても他人を巻き込まずに住む場所を。
夜香はそっと携帯を切る。音咲が期待に満ちた表情で近づいてくる。
「どうでしたか?、姉妹の和解は成立しましたか?」
異変に気付かれないよう、夜香は表情を取り繕う。
「今日、会って話すことにしたわ。場所は旧校舎の中庭」
「えっ、あんなところでですか?。会長も随分と旧校舎が好きなんですねぇ。確かに静かですけど、外なら蜘蛛に襲われる心配もないでしょうし。でも、どうせなら、もっとまったり出来る場所で会えばいいのに。ファミレスとか、公園とか。で、自分はどうしましょうか?、会長がお望みとあらば、お供しますが」
思案することも無く、俯き加減で夜香は首を左右に振る。
「いいわ、二人だけで会ってくる」
「そうですか、では腹を割って、思う存分、話し合ってきてください。きっとよい結果になりますよ」
晴れ晴れとした様子の音咲に対して、夜香は苦笑いを返すことしか出来なかった。




