10話目
「ちくしょう・・・、ちくしょう・・・、どうしてこうなる・・・・あんまりだ。何で俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ。せっかく・・・せっかく・・・」
恨みつらみを吐き捨てながら、菊本は必死に逃げている。
菊本の姿は非常に惨めであった。髪は乱れ、高級品であった衣服は汚れてボロボロとなり、見る影も無い。
顔には裂傷と、殴打された痕跡が残っていた。歩き方もぎこちない。菊本が負傷しているのは誰の目にも明らかであった。
菊本は今、警察に追われ、包囲されつつある。
しかし、彼が恐れ、逃れようとしているのは、警察ではなく、別の者であった。
整備された河辺まで来た菊本は目に付いた高架下へと向かい、その暗がりに転がり込む。
人気は無い。当然である。
警察からの警告により、一般市民は皆、自分の家で縮こまっている。
コンクリート塀に寄り掛かり、菊本は息を殺して呼吸を整えようとする。
しかし煮えくり返る腸を、抑えることが出来ず、奇声を上げてコンクリート塀を殴る。
刑務所から脱獄し、この街に戻ってきて、しばらくの間は順調であった。だが、あの姉妹への復讐を開始してから、すべてが有り得ない方向へ狂い出したのである。
昔も今も、元凶はあの姉妹であった。
憎くて憎くて堪らない。絶対に許さない。
あの姉妹を、人としての自我を失うまで陵辱し、人の形を失うまで痛め付け、地べたに這い蹲らせて、殺してください、と哀願させてやりたい。
暗い妄想に浸りながら、菊本は何度も何度も破片を飛び散らせながら、コンクリート塀を殴り続けた。
しばらくして、動きを止める。暴れたことで、少し気が静まった菊本は、この街から逃亡する算段を立て始めた。
復讐を果たせなかったのは口惜しいが、今回は我が身を守るためにも諦めるべきである。
しかし粘着質である菊本に復讐自体を放棄するつもりは無い。
必ずこの街に戻ってきて、自分を苦しめた奴らに報復するつもりである。
どんなに強力な能力を持っていても不意を突けば、いちころのはずだ。直接、手を下さなくても、間接的にじわりじわりと精神的に追い詰めてやるという手段もあるのだ。
菊本は、ここで体の痛みが取れるのを待つことにした。
回復したら河を渡り、車を盗んで、出来るだけ遠くまで行こう。
菊本は腰を下ろして足を投げ出そうとした。
高架下に光源は無い。外から街灯の明かりが僅かに差し込んでいるだけである。
その明かりの中に影が伸びてきた。菊本は硬直する。生じた影の元を辿るようにして視線を這わせていく。
そして彼は見た。
背後から照らされることによって、黒いシルエットになっている人影を。
人影は、目の部分だけが爛爛と狂乱の炎と灯して輝いていた。
「ひぃっ!」
振り切ったと思っていた人物を目の前にして、菊本は一瞬で恐慌状態に陥った。
彼は人影のいない反対側へ逃げようとする。立ち上がることも忘れ、手足をばたつかせて、後ろ向きに這って、虫を彷彿させる見苦しい動きで逃げようとした。
しかし、菊本の背中は何かぶつかって、それ以上、下がれなくなる。
菊本は、背後を振り返ろうとした。そこで彼の意識は途絶えてしまった。
音咲は菊本に当身を食らわせて、あっさり昏倒させてしまった。
地に伏した菊本が先ほどまで、慄然とした視線を送っていた方を、音咲は見遣り、そして声をかけた。
「よう、ようやく会えたな、荒城」
人影は微動だにしない、禍々しい気配も纏ったまま、高架下の闇の中にいる。
「ん?、どうした?、黙ったままで」
反応が無くても音咲は、気さくに声をかけ続ける。菊本を跨いで、音咲は前へと出た。
人影もまた、瞳を底光りさせたまま、明かりの元へ進み出る。
人影は見慣れた姿を露にし、そして聞き慣れた声で語った。
「どうした、はこっちのセリフだ。顔が強張っているぞ、音咲。学校で会う時とは随分様子が違うじゃないか」
「今の荒城が、いつもの荒城と違うからだよ。力を使っている状態で会うのは、あの夜以来だ」
人を生きたまま引き裂くという惨劇を披露した相手、そして自分を殺しかけた相手、危険も顧みず毎夜彷徨って捜し求めた相手。
音咲は終に能力発動中の、荒城秋との再会を果たしたのである。
一度だけ、消えた夜香を捜索している時に、遭遇したことがあったのだが、あの時の荒城は普通の状態だった。
音咲も夜香の事で手一杯だったので、放っておこうかとも考えたが、しかし犯行を犯させてしまう危険性は看過できなかった。
故に争いに巻き込んでしまう可能性があったのだが、止む無く連れて行き、そして大人しく家に帰るよう約束させたのである。
「音咲は本当に自他共に認める変人だよ。俺のやった、あの残忍な行為を目撃しておきながら、翌朝、何事も無かったようにして近づいてくるんだもの。面食らって、一瞬思考が飛んだぜ」
「まあな。それはそれ、これはこれ、だから」
音咲は夜香の時と同様の回答を返す。
「なるほど、音咲らしい」
理由になっていない理由を、荒城は当然のように受け入れ、そして納得する。
音咲と荒城だからこそ、成り立つ遣り取りであった。
「で、音咲。なぜここにいるんだ?」
「決まっているだろ、荒城に会うためさ。そして荒城が、俺の予想通りのことをしているようなら、それを止めに来たんだけど、正にビンゴだったようだな」
音咲は背後に倒れる菊本を一瞥し、肩を竦めてみせる。
「人情に厚い荒城の事だ。旧校舎で会長の話を聞いて、自分が代わりに菊本を殺そうと考えたんだろ。荒城の思考なんて、俺には丸分かりさ」
言うまでも無く、荒城は生徒会の一員であり、夜香とはとても親しい間柄である。
夜香に罪を背負わせたくない、その想いは音咲だけでなく荒城も同じであった。
音咲は辛いが耐えようと夜香に訴えた。対して荒城は、自分が代わって事を成そうと考えたのであった。既に自分は人殺しを行っているのだからと。
「殺人なんて止めようぜ。一人殺せば、後は何人殺しても一緒とかいう陳腐な理屈は捏ねるなよ。もう高校生なんだからな。それにしても最近多いなぁ、俺の周りで人殺そうとしている奴」
音咲の呼び掛けに、荒城は怪訝な表情を浮かべる。
「音咲、お前はさっきから殺人殺人と言っているが、俺に人を殺しているつもりはないんだがね」
荒城は、しれっと言い放つ。
「お前に目撃されたあの時も、俺が殺したのは人じゃない。人によく似た形をした、全く別の生き物さ」
荒城の言わんとする事が理解できず、音咲は首を傾げる。
「やはり分かりづらいか。だったらあの生き物が何であったのか詳しく説明してやるよ」
荒城秋は、あの夜、自らの手にかけた男・中路二郎との因縁を語り始めた。
何年も昔、荒城家は四人家族で、父母、秋、そして妹がいた。
ある日、荒城家で家族旅行が行われた。
父が仕事の関係で参加できず、旅行は母と妹と秋の三人で行われた。日帰りの小規模なものであったが一家は楽しい時を過ごした。
自家用車での帰り道、一家は公道を違法占拠したギャングのカーレースに巻き込まれてしまった。
一家の車は、レース中の車と正面衝突した。ギャングの車は、カーブでドリフトを行おうとして失敗し、猛スピードで反対車線に飛び出してしまったのである。
一家の車は大破し、丸めた紙屑のように潰れてしまった。
しかし、それでも三人は辛うじて生きていた。だが、ひしゃげた車体に挟まれて三人とも身動きが出来ない。
一家の中で朦朧としていたが、秋だけが意識があった。
彼はガソリンの匂いを嗅いだ。大破した車体から漏れ出していたのである。火災が起これば、動けない三人は焼け死ぬことになる。
秋は助けを求めた。その時、秋の視界はある人物を捉えた。それはぶつかってきた車の運転手であった。
彼は携帯で通話をしていた。秋は救急車を呼んでいるのだと思った。
しかし、違った。
現れたのは救急車ではなく、運転手の仲間であった。
運転手は仲間と何か話を始めた。話の内容は分からなかった。秋はその時、事故の衝撃で鼓膜が破れており、耳が聞こえなくなっていたのだ。
重傷を負い、呻いている一家のことを気に止めることも無く、運転手は工具を持ち出して、自分の車のナンバープレートを取り外し、そしてなんと火を放った。
証拠隠滅を行ったのである。
作業を終えると運転手は、一家を放置して仲間の車で去っていった。
運転手が放った火が、一家の車から流れ出ているガソリンに引火しそうになる。
その時、秋は自力で折れ曲がった鉄を押し退けて脱出を果たした。これが、荒城秋が始めて能力に覚醒した瞬間であった。
秋はどうにか妹も助け出すことに成功した。しかし、そこで時間切れとなる。
ガソリンに火が燃え移り、そこからはあっという間であった。
母親は車と一緒に燃えてしまった。
数日後、あの運転手は逮捕された。運転手は、車は盗まれて勝手に使われたのだと主張したが、秋が彼の顔を記憶に焼き付けていたので、言い逃れできなかった。
逮捕された男の名を中路二郎といった。
「事故の時は、鼓膜が破れていて助かったよ、焼け死んでいく母親の絶叫を聞かずに済んだからね」
荒城は笑みを浮かべるが、目は全く笑っていない。
この悲惨な話が、これで終わりでないことを音咲は予感した。
なぜなら、音咲は荒城に妹がいるという事を聞いたことが無く、また会ったこともなかったから。そしてその予感は的中する。
重傷を負った妹は生死の境を彷徨ったが、どうにか一命はとりとめた。
順調に回復していき、病院を無事退院したのだが、その直後、再び悲劇に見舞われた。
突如、突っ込んできた車と壁の間に挟まれて、事故死してしまったのだ。
車の運転手は覚醒剤中毒者であり、運転中に錯乱状態に陥っていた。折角助かった妹の命は、あっけなく失われたしまった。
妹の遺体は目を背けたくなるほどの惨状であった。業者が手を尽くしてくれたが、元には戻らなかった。
「潰れた妹を見てから、俺の記憶にある彼女の姿は全部潰れてしまっているんだ。不思議なんだよ。元気だった頃の妹の顔が、まったく思い出せないんだ」
頭の中を探るように、荒城は遠くを見詰めている。
父親は妻と娘を失ったショックを紛らわすため、仕事に没頭するようになり家に帰ってこなくなった。
誰もいなくなった家で、秋は一人だけ取り残された。
時が経過し、荒城秋が高校二年生となった時、一人の人物が尋ねてきた。
それは妹を殺した、あの中毒者であった。
中毒者は薬を抜く治療を受け、刑期を終えて出所したのである。
元中毒者となったその男は、秋に深く詫び、そしてあの事故の驚くべき真相を涙ながらに語った。
あれは事故ではなく、故意に狙ってやったのだと。
当時、男は薬が切れて禁断症状に喘いでいた。覚醒剤がほしくても金が無い。男はいつも覚醒剤を回して貰っているギャングに泣き付いた。
ギャングは只でやる代わりに、ある仕事をやってもらいたいと言った。男は内容も聞かずに仕事を引き受け、薬を得た。
その仕事こそが妹の殺害だったのである。
妹を殺害する目的は何であったのか、それは報復であった。
大事なレースの邪魔をされ、そして秋の証言によって刑務所送りにされてしまったある人物が逆恨みして、仕返しを企てたのだ。
その人物の名は中路二郎。
服役中であった彼は仲間に指示を出し、適当な中毒者を利用して報復を行ったのである。
真実を知った秋は、いても立ってもいられず、中路二郎を捜し求めた。
彼も既に刑務所から出所していた。
中路を見つけるのは簡単であった。以前、中路が所属していたギャングを張っていたら、あっさりと姿を現したのである。
中路はギャングの元締めに昇格しており、さらにギャングを支援する暴力団の一員となっていた。
秋は中路と接触し、妹の件を問い詰めた。
中路の反応は荒城を虚仮にするような態度を取り、知らねぇ、の一点張りであった。
中路は秋本人が誰なのかすらも、分からないようであった。
秋は、母を失った事故と妹の事件をぶちまけるようにして語った。それで中路はようやく思い出したようであった。
「あ~、なんかそんなことあったような気がするなぁ。でもよく思い出せねぇ。昔は星の数ほど無茶したからよ、いちいち覚えてらんねぇっての」
中路は、自分の犯した罪を本当に忘れ去っていた。秋から母と妹を奪い、二度も絶望を与えたことは、中路にとって一時の憂さ晴らしでしかなかったのである。
「とりあえず、もう水に流してやっからよ、とっとと失せろや。俺の気が変わらないうちにな」
中路から、自省の念は微塵も感じられなかった。
その時、荒城秋は決心した。
この低脳は自分の犯した罪の重さを理解することさえ出来ていない。だったら、教えてやろうではないか。馬鹿でも分かるように単純な手段を以ってして。
荒城は、中路に己の罪の重大さを、相応の痛みに変換して味あわせてやることにした。
生きたまま中路の体を引き裂いた時、その様子から荒城は確信した。
この方法は大正解であったと。中路は、自分がこれほど惨たらしい目に合わされるほどの事を仕出かしたのだと、身をもって思い知ったであろう。
「人を人たらしめている要因は何か。人から生まれ、二足歩行し、人語を話せば人間か?。否!。人道を通って、始めて人として認められるのではないか。自己満足を優先し、他者を害して何も感じず、いかなる非道も己のためなら平然とやってのけ、悔いる事も無い。これはもはや人ではない。全く別の、とても有害な生き物だ。中路二郎はそういった類の生き物だった」
長い述懐を終えた荒城は一つ嘆息し、音咲を見据える。
「俺は中路二郎を殺した。けれど奴は人では無かった。だから俺は殺人なんて、そんな恐ろしいことはしていないよ」
「・・・・」
音咲は言葉を返せなかった。荒城の身に起こったことは、あまりに過酷であった。
「その菊本という男も同じだ。人じゃない、だから殺してしまっても、これは殺人じゃない。わかったかい?、わかったなら、そこを退いてくれ、音咲」
音咲は荒城の主張を理解した、その境遇にも同情した。それでも彼は退かなかった。
「・・・会長の時と同じか、あの時の持論を俺にも当てはめようというのかい?」
荒城は呆れ果てている。
「殺される側ではなく、殺そうとしている側のために止める。会長に言ったお前の考えは、確かそんな内容だったよな。如何なる理由があろうとも殺人は罪。殺した側が、必ずその罪の意識で苦しむことになるからと」
さも面白くなさそうな笑い声を荒城は立てる。
「その論理、俺には通じないぜ。さっき言ったように俺はその男を人間として認識していないからな。それに実際、俺は中路を殺して、まったく罪悪感というものを感じていない。やるべきことをやった、俺のおかげで、今後、奴に苦しめられる人達が減ったと、誇らしく思えているくらいさ」
荒城は自分の心を偽っていない。今の言葉は彼の本心であった。
自分の持論を完璧に否定されてしまった音咲であったが、彼の毅然とした姿勢は揺るがなかった。
「ならば荒城の為ではなくて、会長と夜空ちゃんの為に、阻止することにする」
「・・・・なんだと?」
「自分たちの代わりに荒城が、この男を殺したことを知ったら、あの姉妹はどう思うか?。間違いなく他人に押し付けてしまったと、自分を責めるに違いない。善い人間は他人を咎めることが出来ないから、結局己自身を非難するしかなくなる」
荒城は、ハッと鼻で笑った。
「だったら俺がやったという事実を、音咲が内緒にしてくれればいい。誰がやったのか、判らなければ彼女たちの負担にはならないだろう」
荒城の案に、音咲は、ポンと手を打ち鳴らした。
「その手があったか!。流石は荒城・・・・ってコラッ!。あぶねぇあぶねぇ、危うくいつものように乗せられるところだったぜ」
音咲は出てもいない脂汗を拭う仕草をする。
「それに理由はもう一つ、俺自身のためにも、荒城、お前を阻止するぜ。つまらんことをしようとしている友人を見過ごすと、自分までつまらない人間になってしまうからな。それは実に面白くない。面白くないのは許せない性分なのだ」
「・・・・あ~あ、そうか、つまらんことか。音咲、お前はさっき、俺の思考が丸分かりだと言ったが、それは勘違いだよ。会長の為だけじゃない。他に、歴とした理由があるんだが・・・・でも、もういいや」
荒城は呻き、腰に手を当てて空を仰いだ。
「わかった、わかったよ音咲。お前はどうしても俺の邪魔をするんだな。俺はがんばった、根気よく説得した。けど仕方ない、もう諦めるよ、俺はお前を諦めるよ」
会話の間中、荒城の目付きは剣呑でギラついたままであった。
ずっと能力を発動しており、荒城の心から友人への情は消えていた。悪人を滅することへの妄執に、完全に取り憑かれている。
「何が何でも、俺はその生き物を始末したい。それが世の為人の為さ。だから障害はぶっ飛ばして駆逐するのみ」
荒城は、全身に力を漲らせ、攻撃態勢に入る。
「今の荒城に、俺の言葉は届かないか。・・・・よかろう、かかってくるがいい。オラ、強い奴に会うとワクワクするんだ!」
音咲は脱力して、余計な力を体から抜く。そして己の能力である観察眼を発動させた。
荒城の能力は『怪力』である。常人とは比較にならないほどの筋力を発揮する力だ。
肉体が強化されるに伴って、その強度も上がっており、並の攻撃では荒城にダメージを与えることは出来ない。音咲も鍛えてはいるが、その身体戦力差は圧倒的であった。
正面から挑んで勝てる相手ではない。しかし気絶している菊本の傍から離れられないので、正面から戦うしかない。
もし離れたなら、即座に菊本は八つ裂きとされてしまうだろう。
音咲は荒城を観察する。
荒城の視線、構え、微細な体の揺れ、皮膚の動き、そしてその下にある筋肉の動きを具に観察して、攻撃動作を予測する。
荒城の体が僅かに沈んだ。それが攻撃合図であった。
音咲の視界の中で、荒城の動きは滑らかな動画でなく、急にコマ送りとなる。
速度が速すぎるために、一コマ一コマで、まるで瞬間移動でもしているように距離が縮まっていく。三コマ目には、既に荒城は音咲の間近にいて、右拳を振りかぶっている。
高速度の攻撃であったが、その軌道は音咲の予測した通りであった。故に音咲の体も反応し、既に行動を開始している。
相手の速度に対応するため、関節と筋肉を一切無駄なく稼動させ、時間短縮に務める。
踏ん張りの利く、極限まで地を滑って足幅を開き、腰を捩り倒して頭部も限界まで傾け、音咲は自分の身長を半分にまで折畳む。
一瞬前まで音咲の胸元辺りが存在していた場所を烈風が駆け抜けた。
荒城の一撃が通過したのだ。
急に左耳がキーンと鳴ったので、音咲は耳が飛ばされたのではないかと心配になる。
音咲は初撃の回避には成功した。
しかし直に二撃目が来る。二撃目をかわすのは不可能であると音咲は判断している。よって二撃目が来る前に、荒城を無力化しなければならない。
一見して音咲の体制は完全に崩れており、とても反撃できる状態ではなかった。
しかし、両足は地面にしっかりと据えられている。音咲は地を踏み込み、そこから打撃力を発生させる。
生じた力は足首・膝・股関節・腰・背骨・右肩・右肘と伝播し、右手に集束させていく。
能力によって人体を細かく観察し尽した音咲だからこそ、可能な体術であった。
しかし右手に集まった打撃力は、人一人を打倒するにはあまりにも威力が不足していた。
これは失敗ではない、これが限界だったのである。
それでも音咲は右手を放つ。骨折する危険があるので、拳ではなく掌底とする。このまま、一撃しても荒城を倒せないことを、音咲はちゃんと理解していた。
よって倒せるように、更なる工夫しなければならない。
音咲は当てるタイミングを計った。初撃を外した荒城が、二撃目に移ろうとした刹那、彼のたわめられた筋肉が緩むのを、音咲の観察眼は見逃さなかった。
その瞬間に合わせて、音咲は右手で荒城の顎を真横に打ち抜く。
衝撃は一切緩和されることなく、荒城の脳を揺さぶった。脳震盪が誘発し、荒城の意識が途絶される。荒城は動きを止めて、それからゆっくりと前のめり倒れ伏した。
音咲は見事に暴走する荒城を、最小限のダメージで打ち倒したのであった。
勝利した音咲であったが、眉間に皺を寄せて、その場にへたり込んでしまう。
「肩と膝の爆弾が、爆発しやがった。しかも、これは腰に新しい爆弾をこさえたかも」
四苦八苦しながら音咲は立とうとしたが、うまくいかない。
そうこうしている内に、うつ伏せに倒れていた荒城が、呻きながらゆっくりと身を起こした。
彼の目付きは、普段の状態に戻っている。意識を断ち切られたことによって、能力が自動的に解けたのである。
「よう、正気に戻ったか」
音咲が気さくに声をかける。荒城はしばらくぼんやりとしていた。何が起こったのか、未だに理解できていないようである。
「俺が・・・・倒されたのか・・・・ああ、そうなのか・・・・・・よかった」
安堵の溜め息を漏らすと同時に、荒城は泣き出しそうになる。涙が出るギリギリで荒城は堪え、顔を上げて憔悴し切った笑みを音咲に向けた。
「音咲は強いんだな」
「昔、世界最強を目指していたからな。男に生まれると誰だって一度は抱く夢だろ?。俺は中三まで順調だったんだ。そこら辺にいる熊・虎・猛牛・地デジカなら楽勝だった。けれど、夏休みに、地上最強の生物と遭遇してな。その時に肩と膝に爆弾を抱えて、夢を諦めざるを得なくなった」
「そこら辺に、そんな猛獣はいないと思うが」
起き上がった荒城は、音咲の前に座り込んだ。
「音咲、俺はまたお前を殺そうとしてしまった。最初にあいつを殺した時から、俺は歯止めが利かなくなってきている。会長のためなどと言い訳しながら、単に次の獲物を求めていただけなのかもしれない。俺もまた無差別の殺人狂に成り果ててしまったようだ」
「おいおい、まさか、だから死ぬ、なんていうつもりじゃないだろうな。死ねばすべての苦痛から解放されるなんて保障はどこにも無いんだぞ。もっと確実な選択をしろよ。心臓は自分の意思で動いている訳ではない。自分の意思で動いていないものを、自分の意思で止めてはいかんのだよ。自己が制御出来ないなんて、それくらい精神力でどうにかしろ」
「それが出来なかったから、俺はお前を殺しかけてしまったんだぞ」
「今は出来なくても、鍛錬して出来るようになればいいんだ。克服しろ。力と名の付くものは、すべて鍛えることができる。精神力然り、知力、体力、筋力、脳力、精力、性欲」
「最後のは力じゃなくて、欲望だ」
自分を殺そうとした相手に対し、音咲はいつもと何ら変わらぬ調子でおどけ、ふざけ、戯れ、そして軽口をたたき続けた。
おかげで荒城は、友人を手にかけようとしておきながら、なんて身勝手な!、と自覚し、苛まれながらも、少しだけ救われた気がした。
そんな荒城が唐突に音咲に飛び掛った。あまりに急であったため、流石の音咲も反応が出来ない。
激痛が走り、音咲は吹っ飛ばされる。吹っ飛ばされたのは、音咲だけでなく荒城もであった。十メートル以上飛ばされて地を転げる。
体の痛みに呻きながらも音咲は顔を上げ、何が起こったのかを知るために周囲を窺った。
音咲の視線が捉えたのは、残忍な笑みを浮かべて立つ菊本の姿であった。
「やった!、やったぞ!、ざまあみろってんだ」
菊本は哄笑し、唾を飛ばしながら歓喜の声を上げていた。いつの間にか意識を取り戻したようである。
音咲の手前には荒城が倒れていた。内蔵を損傷したようで吐血している。
攻撃してきたのは間違いなく菊本であった。荒城は、身を挺して音咲を菊本の攻撃から守ったのである。
しかし今の打撃は尋常でない。人間二人をまとめて数メートル弾き飛ばすなど、並みの人間に出来ることではない。
「おいおい・・・まさか」
音咲は観察眼を使い、菊本の肉体を調査した。
そしてある一つの衝撃的な結論を導き出す。
「なんてこった・・・・奴も『怪力』の能力者だったなんて」
菊本はゆっくりとこちらに向って歩いてくる。
「せっかく素晴らしい力を手に入れて、刑務所を脱獄したっていうのに。すべてが俺の思い通りなると思ったのに。この街に戻ってきて復讐を始めた途端、俺よりも凄いやつが次々と出てきやがって、本当に頭に来たぜ。でもこれで一人処分だ。いずれあの姉妹もぶっ殺してやる。さて、散々俺を追い回し、甚振ってくれた落とし前、どうつけさせてもらおうか。そうだ、目を抉って、視神経をじわじわと引き千切ってやろう、きっと痛くて気が狂うぞ」
報復行為への喜悦に、表情を歪ませた菊本の手が、荒城の頭部へと伸びる。
阻止しようと音咲は、未だにダメージから立ち直っていない体に鞭打って、立ち上がろうとした。
菊本の手が荒城に届きそうになった途端、肘関節が逆方向に曲がった。
菊本は不思議そうに折れて垂れ下がった自分の腕を眺めていた。彼自身、状況が飲み込めていないようである。
ワンテンポ遅れて、襲ってきた痛み菊本は苦悶の叫びを上げ、折れた腕を、もう片方の手で支えようとした。
しかしその腕も逆に折れた。両腕を、まるで踊っているようにぶらぶらとさせながら、悶える菊本の両膝が、縺れるようにして、腕と同じ運命を辿る。
地面に崩れた菊本は白目を剥いて、泡を噴いていた。一遍に襲ってきた激痛に耐えられなかったようである。
その異様な光景に音咲は、唖然としていたが、背中に寒気を覚えて振り返る。
そこにいたのは夜香と夜空であった。
二人の目付きは、能力発動中であることを明示している。彼女たちが菊本の手足を圧し折ったのであった。
「いや~、助かりました。この男が能力者だなんて思ってもみませんでしたから。油断しちゃいました。会長は、この事をご存知だったんですか?」
「いいえ、知らなかったわ」
「でも、会長。こいつと旧校舎で戦っていましたよね?」
「あの時は、初めから強烈なのを喰らわせて、すぐ戦闘不能にしてやったから、戦いと呼べるものはなかったの」
姉妹は気絶している菊本の傍まで近づき、ぞっとする雰囲気を纏って見下ろしている。
「あの~、会長?、夜空ちゃん?、その~」
これは不味いと感じた音咲は、濃厚な殺気に気圧されながらも、掣肘を加えようとした。
「解っているわ、音咲君。私たち姉妹のために奔走してくれた、お節介な彼氏に免じて命だけは取らないであげる。言われた通り我慢するわ」
音咲は胸を撫で下ろしたが、姉妹は発言とは裏腹に殺気を膨張させている。
「けれどね、安全策だけは講じさせてもらうわ」
妹が姉を見て、楽しげに凄絶な笑みを作る。
「姉さんがやりますか?、それとも私がやりますか?」
姉の方は身の毛もよだつような笑顔を浮かべている。
「姉妹仲良く、半分こにしましょう。夜空は右側、私は左側ね」
姉妹が会話を交わした直後、ズシン、という重くて鈍い音が響いた。
倒れ伏す菊本の周囲に四つのクレーターが出来上がっていた。姉妹が能力で衝撃を放ったのである。
クレーターの出来た場所には菊本の右腕・左腕・右足・左足があった。当然ながら、それらはぐしゃりと潰れ、破裂していた。
菊本は、大の男とは思えないほど甲高く、裏返った声で絶叫し、再び気を失ってしまった。あそこまで四肢を破壊されてしまっては完治不能であり、一生自由に動くことはできないだろう。
これで姉妹への復讐は、ほぼ不可能となった。また、菊本は能力で看守を殺害し、脱獄した前科があったが、これでもう同様の犯行に及ぶことも出来ない。
その後、警察が到着して菊本は逮捕、連行された。警察官はあまりに酷い菊本の有様に、仰天していた。
負傷した荒城は、音咲の呼んだ救急車で病院へと運ばれていった。
後日、世間を戦慄させていた連続猟奇殺人事件の犯人を逮捕した、と警察から発表があった。
犯人の名前は『菊本祥二』。
被害者から盗まれていた金品を、すべて菊本が所持していたのと、彼の体と衣服に被害者の血液が付着していたのが決め手の証拠となった。
脱獄囚にも関わらず、いい身形をしていたのは殺人強盗を行っていたからであったのだ。
被害者が一般市民より、主にギャング等中心だったことに関しては、菊本が正義のヒーローだったからなどという訳では当然なく、単に警察の警告を無視して、夜、人気の無い場所を徘徊するのがギャングぐらいであったため、それで襲われ易かったというだけの話であった。
被害者の体を著しく破損させる犯行方法の部分は、まだ明確にされておらず、目下捜査中との事である。
音咲は、荒城が犯人であると思っていたので大きな間違いをしていたこととなり、姉妹に、自分は犯人を知っている、と断言してしまった手前、非常にばつの悪い思いをした。
親友を連続殺人犯と誤解しておきながら、相手を信じろ、なんてセリフを、よくも夜香と夜空に言えたものだと、音咲は自分で自分が恥ずかしかった。
因みに、誰よりも早く真犯人を突き止めたのは、疑われていた荒城であった。
旧校舎で夜香に殺されそうになっていた菊本が、音咲に助けられ、逃げ出した時、捕まえようと追いかけた荒城は菊本が能力を使うのを目撃したそうである。
菊本は人間業とは思えぬ跳躍力で民家の屋根に飛び乗り、逃げたそうだ。その様子から、荒城は菊本が自分と同じ『怪力』の能力者であることを知った。
そして、そこから菊本を連続猟奇殺人と結びつけ、犯人と推測するのは難しいことではなかった。
荒城が菊本を追跡し痛めつけた、あの夜、彼は事件が自分の犯行であることを白状したそうである。
荒城が音咲と立ち会う前に言っていた、会長の為以外の理由とはこのことであった。
突き止めた危険な連続殺人犯を自らの手で始末する、それこそが荒城の、もう一つの目的だったのである。
警察は中路二郎の事件も菊本の犯行であるとしていた。
このままにしておけば、すべてを菊本が被り、荒城は罪に問われずに済むのだが、音咲が病院へお見舞いに行った時、彼は言った。
「自分のやったことを無しにしてしまったら、あいつと同じになっちまう。音咲にしてしまったような過ちを二度と繰り返さないためにも、自分を戒めておかないと」
真摯な態度の荒城に音咲は肩を竦めてみせる。
「荒城はマジメだな」
「音咲がそれを言うなよ。今回の件でもっとも堅気に徹していたのは、お前じゃないか」
音咲は眉間に皺を寄せて、ムッとした。音咲は、意外にマジメな奴、と評されるのが大嫌いであった。
「っ!、なんてことを!。それは言わない約束だぞ」
「ああ、そうだったな。悪い悪い、言い直すよ。音咲はマジメにふざけている」
「・・・・まあ、その程度の表現なら、許そう」
お見舞いの品を置いて、音咲が辞した数時間後、荒城は警察に自首をした。




