決別の歩速(アンダンテ)
翌朝の訓練室。ヴィクターの指揮棒が、鋭く空気を切り裂いた。
「違う。……三拍節目、音が濁ったぞ。何度言えばわかる、不安を音に乗せるなと。その揺らぎがノイズを招くと言っている」
ヴィクターの叱責は、昨日にも増して苛烈だった。廃遊園地での焦燥が、彼をより一層「完璧な調律」へと駆り立てていた。だが、その厳しさは今のミリルにとって、ただの拒絶でしかなかった。
(……奴が守ろうとしているのは、お前ではなく、お前の中に投影している『過去の残像』に過ぎん)
レオンの言葉が、ヴィクターの厳格な横顔に重なる。
「ヴィクターさま……。私は、私の……」
「お前の主観など、今はまだ必要ない。私が求めているのは、淀みのない純粋な旋律だ。それができないのなら、タクトを置け」
冷徹な断罪。その瞬間、ミリルの心の中で何かが音を立てて崩れた。
ヴィクターが見ているのは、自分ではない。自分の奥に透けて見える「誰か」の幻。不安を消せと言うのは、私がその「誰か」のように完璧ではないからだ。
「……そうですか。そんなに、私の音が邪魔なんですね」
ミリルの声は、これまでにないほど冷たく、静かだった。
隣でハッとしたように顔を上げたロゼアの静止も聞かず、ミリルは床に落ちた自分のタクトを拾い上げると、ヴィクターを一度も振り返らずに訓練室を飛び出した。
「ミリル!!」
ロゼアの呼びかけも、ヴィクターの「待て、ミリル!」という動揺を含んだ怒声も、今の彼女には届かない。
楽器店を飛び出したミリルが向かったのは、あの陽の差さない路地裏だった。
「……来たか。思ったよりも早かったな」
暗がりから、待っていたかのようにレオンが姿を現す。彼は優しく、逃げ場を与えるように両腕を広げた。
「奴の旋律は、お前を壊すだけだ。……さあ、こちらへ。お前のありのままの音を、私が愛してやろう」
ミリルは、震える足で一歩、また一歩とレオンの方へ歩み寄る。
自分の後ろに広がる、ロゼアと過ごした温かな日常や、ヴィクターが時折見せた不器用な背中。それらすべてを振り切るように、ミリルはレオンの手を取った。
「……連れて行ってください。私の音を、聴いてくれる場所へ」
レオンの口角が、勝ち誇ったように吊り上がる。
一方、楽器店では、ヴィクターがミリルのいなくなった扉を見つめたまま、凍りついたように立ち尽くしていた。その手首は、昨夜と同じように、激しく震えていた。




