深淵への夜想曲(ノクターン)
その夜。楽器店の練習室には、力なく繰り返されるメトロノームの音と、途切れ途切れのピアノの音だけが響いていた。
「……っ、また、音が濁っちゃった……」
ミリルは鍵盤に突っ伏した。ヴィクターから命じられた倍の基礎練習。指先は痺れ、頭の中では廃遊園地で聞いたあの「悲鳴のようなノイズ」が鳴り止まない。
(自覚しろ、お前の弱さは、他人を殺す武器になるのだと)
ヴィクターの冷徹な言葉が、呪いのようにミリルの心を縛る。自分はロゼアの光を曇らせるだけの存在なのか。そう思い詰めたとき、部屋の空気がにわかに重く沈み込んだ。
「……そんなに自分を責める必要はない。お前の音を理解できない『凡夫』の言葉など、聞き流せばいいのだ」
窓辺に座る人影があった。逆光に紛れ、月明かりを背負って現れた男が、低く心地よい声を響かせる。
「……っ! あなたは、あの時の……」
ミリルの肩が小さく跳ねる。昨日の暗い路地裏、自分でも目を背けていた心の歪みを肯定した、あの不気味な男。
「お前の奏でる音が、あまりに悲しく響いていたのでな。……ミリル。奴は『ノイズを排除しろ』と言ったか? それは、奴がその力の本当の価値を知らぬからだ」
男は音もなく床に降り立つと、震えるミリルの肩にそっと手を置いた。その手からは、体の芯を痺れさせるような、深い重低音の波動が伝わってくる。
「ノイズは弱さではない。それは、誰にも理解されない孤独な魂が放つ、真実の旋律だ。お前の中に眠るその『濁り』を愛してやれ。そうすれば、お前はもう誰かの影で怯える必要などなくなる」
「私の……濁り……」
「そうだ。奴が守ろうとしているのは、お前ではなく、お前の中に投影している『過去の残像』に過ぎん。……忘れるな、ミリル。私だけが、お前の真実を聴き届けよう」
男の指先が、ミリルの頬を伝う涙をそっと拭う。その言葉は、傷ついたミリルの心に、毒のように、しかし甘美な救いのように染み渡っていった。
「私の名はレオン。……もし、奴の旋律に耐えられなくなったときは、いつでも私の元へ来るといい」
レオンは密やかにそう告げると、階段から響く足音を察知したかのように、影へと溶け込み、窓の向こうへ消えていった。
「あ……待って……っ」
思わず手を伸ばしかけた瞬間、部屋のドアが勢いよく開かれた。
「ミリル! まだ練習してたの? もう、ヴィクターの言うことなんて真に受けすぎだってば!」
飛び込んできたロゼアは、部屋に漂う奇妙な冷気と、親友のいつもと違う様子に、ぱたりと足を止めた。
「……ミリル? どうしたの、そんなに真っ青な顔して。窓、開けっぱなしだよ?」
「……ううん。なんでもないの、ロゼアちゃん」
ミリルは伏せ目がちに答え、レオンの指先が触れた頬をそっと抑えた。
彼女の耳の奥では、メトロノームの規則正しい音よりも、レオンが残した深い重低音の方が、ずっと心に響いていた。




