錆び付いた輪舞曲(ロンド)
「——いいか、今日は『遊び』ではない」
翌朝、楽器店のカウンターには、黒いロングコートに身を包んだヴィクターが立っていた。昨夜のピアノの音色や、消え入りそうな呟きなど幻だったかのように、その瞳はいつもの冷徹な鋭さを取り戻している。
「街の外れにある廃遊園地。そこで、極めて不安定な『記憶の欠片』が観測された。放置すれば周囲の住民の精神に干渉し、悪夢を撒き散らすことになる。日没までに回収するぞ」
「悪夢……。そんなの、あたしたちがサクッと音で包み込んで、消しちゃえばいいんでしょ?」
ロゼアは努めて明るく振る舞い、愛用のタクトを指先で回してみせる。だが、隣に立つミリルの顔色は優れない。昨夜、暗闇の中で聞いたレオンの低音が、今も耳の奥にこびりついて離れないのだ。
「フン、口だけは達者だな。……少しでも迷えば、その闇にお前自身が引きずり込まれるぞ」
ヴィクターの冷ややかな視線がミリルに向けられる。彼は彼女の僅かな動揺を見抜いているかのようだった。
到着した廃遊園地は、錆びついた観覧車が骸骨のようにそびえ立ち、風が吹くたびにキーキーと悲鳴のような音を立てていた。かつて子供たちの笑い声で溢れていたはずの場所は、今や「忘れ去られた記憶」が澱み、重苦しい空気が支配している。
「この場所の音……すごく、寂しくて苦しい」
ミリルが胸を押さえる。彼女の耳には、風の音に混じって、誰にも届かない子供の泣き声のようなノイズが聞こえていた。
「感じるか。それが、この場所に巣食う『未練』という名のノイズだ。ロゼア、お前が全体の旋律を整えろ。ミリル、お前は中心にある欠片の『核』を叩け」
ヴィクターの指揮のもと、二人は楽器を構える。だが、中心部にあるメリーゴーランドへ近づくにつれ、不協和音は激しさを増していった。
(……この音、昨日の路地裏で聞いた音に似てる……)
ミリルの脳裏に、レオンの言葉が蘇る。
『お前の内にあるその不快なノイズこそが、世界を支配する力だ……』
「ミリル! 何を呆けている、早くしろ!」
ヴィクターの怒声が飛ぶ。しかし、ミリルがタクトを振り上げようとしたその時、足元の影からどろりとした闇が這い上がり、彼女の耳を塞ぐように渦巻いた。
「あ……っ、いや……!」
ミリルの奏でるべき「浄化の音」が、迷いによって濁り始める。その瞬間、ヴィクターの顔に、いつもの厳格さとは違う——焦燥と、過去の恐怖が入り混じったような、激しい感情が走った。
「ミリル、手を離せ! その音に呑まれるな!!」
ミリルの奏でる旋律が、闇の不協和音に引きずられ、どろりと濁った瞬間。
ミリルの瞳から光が消えかけ、その指先が闇の核へと吸い寄せられる。それは、かつてヴィクターが最悪の結末と共に目撃した「あの光景」と酷似していた。
「……っ、させるか!!」
ヴィクターの喉から、怒声とも悲鳴ともつかない叫びが上がった。
彼はロゼアが驚愕で見守る中、疾風のような速さでミリルの背後に詰め寄ると、彼女の震える右手を後ろから力任せに掴み取った。
「っ……ヴィクター、さま……?」
ミリルの意識が弾かれたように戻る。
背後から伝わってくるのは、いつもの冷徹な鉄のような感触ではない。自分の手首を握りつぶさんばかりに震える、熱いほどに激しい「拒絶」の鼓動。
ヴィクターの深い紫色の瞳が、かつてないほど鋭く、そして苦痛に歪んでいるのをミリルは間近で見てしまった。
「……二度と、俺の前でその音に手を伸ばすな」
ヴィクターの声は低く、地を這うような威圧感に満ちていたが、その奥底には隠しきれない怯えが混じっていた。彼はミリルの手から強引にタクトを奪い取ると、そのまま彼女を自分の背後へ突き飛ばすようにして隠す。
「下がっていろ。……ロゼア、ミリルを連れて結界の外へ出ろ!」
「え、でもヴィクター、まだ浄化が——」
「いいから行け!!」
これまでに聞いたことのないヴィクターの荒げた声に、ロゼアは言葉を失い、反射的にミリルの手を引いて駆け出した。
一人、暴走する闇のノイズの前に立ち尽くすヴィクター。
彼は自分の右手の震えを止めるように強く指揮棒を握りしめ、憎しみすら込めて闇を睨みつける。
「……壊させはしない。……これ以上、誰一人として」
彼が独り言のように吐き捨てたその言葉は、吹き荒れる不協和音にかき消された。




