追憶の小夜曲(セレナーデ)
楽器店の一階は、木の匂いと、時が止まったような静寂に満ちていた。ヴィクターが不在の間、二人は店番と、古い楽器の手入れを任されていた。
「ミリル、このバイオリン、すっごくいい音がするよ! 魔法をかけてないのに、触るだけでドキドキする……」
ロゼアは棚に並んだ古い木製楽器を、柔らかな布で丁寧に拭きながら目を輝かせている。
「人間界の人は、こうやって一つひとつの楽器を大切にして、自分の『音』を作っていくんだね……。あ、このピアノも、鍵盤を叩くと優しい音がするよ」
ミリルもまた、埃を被ったピアノをそっと撫でる。魔界の魔法楽器とは違い、奏でる人の心を映し出すような不完全で温かな響き。二人は、人間界の音楽が持つ不思議な魅力に、すっかり夢中になっていた。
その時、カランコロンとドアのベルが鳴った。
「こんにちは。……あら、今日は可愛い店員さんたちがいるのね」
入ってきたのは、先日プリンをくれたお隣のおばあさんだった。その手には、色褪せた小さな木製のオルゴールが握られている。
「これ、ずっと昔に主人からもらった大切なものなんだけど……。急に音が鳴らなくなっちゃって。もし直せそうなら、お願いできないかしら?」
おばあさんが寂しそうに微笑む。ミリルはそのオルゴールを受け取ると、中に溜まった「悲しい沈黙」を感じ取った。
「……やってみます。大切にお預かりしますね」
おばさんが帰った後、二人は作業台にオルゴールを置いた。蓋を開けても、ゼンマイを巻いても、一音も響かない。
「ねえロゼアちゃん。これ、機械が壊れてるんじゃなくて、オルゴールの中にあった『想い出の音』が眠っちゃってるみたい」
「そっか……。ただ直すんじゃなくて、あたしたちが『呼び起こして』あげなきゃいけないんだね」
二人は顔を見合わせ、そっとタクトを構えた。
「ミリル、準備はいい? あの時みたいに、一緒に奏でよう!」
「……うん。ロゼアちゃんと一緒なら、出来る気がする」
二人のタクトが、小さなオルゴールを包み込むように重なる。
「「目覚めよ、追憶の小夜曲!」」
赤と銀の光が、止まった歯車に吸い込まれていく。ミリルが歯車の軋みを優しくなだめる音を紡ぎ、ロゼアがそこに温かな光の旋律を吹き込んだ。
すると、止まっていた銀の円筒がゆっくりと回り始める。
——ポーン、ポロロン……。
澄んだ一音が響いた瞬間、二人の脳裏に、知らないはずの光景が溢れ出した。
それは、雨宿りをする若い男女の照れくさそうな笑顔。
不器用そうに手渡される、リボンのついた小さな箱。
やがて、シワの刻まれた二つの手が、このオルゴールを真ん中にして重なり合う穏やかな午後。
何十年という月日の中に積み重なった、ささやかで、けれどかけがえのない「愛されている記憶」が、温かな旋律となって二人の心を震わせた。
「……っ、これ……」
ミリルは思わず胸元を押さえた。流れ込んできた記憶があまりに温かくて、目尻が熱くなる。
「すごいね、ミリル。この小さな箱の中に、こんなにたくさんの『大好き』が詰まってたんだ……」
ロゼアもまた、奏でられる音色を愛おしそうに聴き入っていた。
翌日、直ったオルゴールを受け取ったおばあさんは、蓋から流れる音を聞いた瞬間に、顔を覆って泣き出してしまった。
「ありがとう……。あの方と一緒にいるみたいな、本当に優しい音。……不思議ね、忘れていたはずの若い頃の記憶まで、全部思い出せそうだわ」
おばあさんを見送った後、ミリルは自分の銀色のタクトをじっと見つめた。
「……ロゼアちゃん。人間界の『音』って、こんなに温かくて、深いんだね。魔法なんかより、ずっと強い想いがこもってる……」
「そうだね! あたしたちも、あんな風に誰かの心を温められる音を、もっとたくさん集めていこうよ!」
誇らしげに笑うロゼアの横顔を見ながら、ミリルは強く心に誓った。
この温かな世界を守りたい。ロゼアと一緒に、ずっとこの優しいアンサンブルの中にいたい、と。
この時の二人はまだ、そんな純粋な願いが、やがて残酷な不協和音へと変わっていくことを、知る由もなかった。




