血脈の協奏曲(コンチェルト)
広場での死闘から数時間後。
深夜の楽器店には、重苦しい静寂と、微かな消毒薬の匂いが漂っていた。
ヴィクターの自室で、ミリルはロゼアに付き添われて眠りについている。心身ともに深い傷を負った彼女の寝顔は、時折、何かに怯えるように小さく震えていた。
「……ミリル、大丈夫だよ。もう、どこにも行かせないから」
ロゼアはミリルの手を握りしめ、そのまま動けずにいた。その時、階下の練習室から、一度も聴いたことのないような、低く、重いピアノの単音が響いた。
ロゼアは導かれるように階下へ向かう。
そこには、月明かりの中で独りピアノに向かうヴィクターの背中があった。彼は包帯が巻かれたままの手で、鍵盤の一つ一つを確認するように叩いている。
「ヴィクター……」
「……『シャドウリース』のことが知りたいんだろう」
ヴィクターは振り返らずに言った。その声は、広場で見せた激しさが嘘のように冷え切っていた。
「奴らは、音楽を愛する者たちの成れ果てだ。かつて、音楽で世界のすべてを救おうとし……そして、調和の果てにある『完璧な沈黙』こそが救いだと信じ込んだ狂信者たち。レオンは、そのひとりだ」
ヴィクターがピアノの蓋を静かに閉じる。その目は、深い後悔を湛えていた。
「奴らは、人間の『濁り』……つまり、悲しみや迷いをエネルギーに変える。今日のミリルがそうだったように。そして、世界をその濁りで埋め尽くし、すべての音を、命を、停止させようとしている」
「そんなの……放っておけないよ! レオンを止めなきゃ」
ロゼアの真っ直ぐすぎる言葉が、ヴィクターの堪忍袋の緒を切った。
彼はピアノを叩くようにして立ち上がると、感情のまま吐き出した。
「お前に何ができる!! 奴らは……! 奴らは!! ステラの、ステラの命を奪ったんだぞ!!!!」
夜の練習室に、ヴィクターの絶叫が木霊した。
あまりの剣幕にロゼアは息を呑み、金縛りにあったように動けなくなる。深い紫色の瞳は血走り、剥き出しになった感情が、逃げ場を失って荒れ狂っている。
「——っ! どうしてママの、名前……」
「……っ、あ……」
叫びきった後、ヴィクターは自分の失言に気づいたように口元を押さえ、力なく崩れ落ちた。ポツリ、ポツリと、後悔の念が口から漏れ出す。
「……すまない。……いずれ、真実を話そうと思っていた……。だが、お前の振るタクトが……あの人の面影を追えば追うほど、言葉が喉に詰まってな……」
ヴィクターはゆっくりと顔を上げた。そこには、厳格な師匠の面影はなく、ただ一人の、後悔に打ちひしがれた男の瞳があった。
「ステラは私の姉だ。……そして、最高の指揮者だったよ。彼女は、自らの魂を旋律に変えて闇を封印したんだ」
「……っ……」
「お前を弟子にしたのは、姉さんの忘れ形見だからじゃない。……お前の振る音の中に、ステラの光を見たからだ。私は、お前をその運命から遠ざけたかった。叔父として……いや、一人の臆病な調律師としてな」
「ヴィクター……叔父、さん……?」
ロゼアの目から、大粒の涙が溢れ出した。ずっと他人だと思っていた、厳しすぎる師匠。けれど、その裏には、姉を救えなかった後悔と、唯一残された姪を死なせたくないという痛切な願いが隠されていた。
「なんで…なんで!」
ロゼアはヴィクターの胸に拳を叩きつけた。ヴィクターはそれを拒まず、ただ静かに、重い溜息と共に受け止めていた。
「ふざけないでよ……叔父さんなら、もっと早く言ってよ……。あたし、独りだと思ってた。あんたに認められたくて、必死で……っ!」
ロゼアの声は涙で震え、叩く拳からも次第に力が抜けていく。
ヴィクターは、そんな彼女の小さな肩を、震える手で見つめていた。そして、壊れ物に触れるような、あまりにもぎこちない手つきで、彼女の頭をそっと引き寄せた。
「……一度だけでいい。抱きしめさせてくれないか……」
消え入りそうな、祈るような声だった。
ヴィクターはロゼアを、まるで失った姉の面影と、目の前の大切な命を同時に慈しむように、優しく、けれど力強く抱きしめた。
「すまなかった、ロゼア……。お前を一人にさせて。……怖かったんだ。お前まで、音の彼方へ消えてしまうのが……」
「……っ、バカだよ、ヴィクター……。消えるわけないじゃん……あたし、あんたの弟子なんだから……っ」
ヴィクターの胸の奥で、長年凍りついていた何かが、ロゼアの温もりによってゆっくりと溶け出していく。
二人の間に流れていた冷たい師弟の時間は、今、血の通った家族の時間へと書き換えられた。
しばらくして、ヴィクターはゆっくりと腕を解くと、再びいつもの、けれどどこか憑き物が落ちたような顔でロゼアを見た。
「……もう逃げることはできん。レオンはミリルの闇を『鍵』にした。世界を飲み込むための不協和音が、もう始まっている」
二人の視線が交差する。
もはや迷いはない。
「戦おう、ヴィクター。ママが守ったこの世界を、全部あたしたちの音で取り戻すんだ」




