月光の帰還曲(リトルネッロ)
「……ぁ……」
黒水晶のタクトが石畳に落ち、高い音を立てて砕け散った。
ミリルの背後にあった禍々しいパイプオルガンの幻影は、陽炎のように揺らめいて消えていく。焦点の合わなかった彼女の瞳に、ゆっくりと、涙とともに光が戻ってきた。
「……ロゼア、ちゃん……?」
「ミリル!!」
ロゼアは自分のタクトを放り出すようにして駆け寄り、崩れ落ちる親友の体を思い切り抱きしめた。
ミリルの体は氷のように冷たかったが、その胸の鼓動は、確かに生きた人間のリズムを刻んでいる。
「……ごめんなさい、私……ひどいことを……。ロゼアちゃんを、傷つけて……っ」
「いいの、もういいんだよ! 帰ってきてくれただけで……っ、あたし、怖かったんだから!」
二人が重なり合って泣く声を、レオンは忌々しげに、冷めた瞳で見下ろしていた。影の中へ一歩下がり、レオンは広場の入り口でピアノに手を置いたまま立ち尽くすヴィクターを一瞥する。
「……フン、『絆』か。実に安っぽい旋律だ。だがヴィクター、覚えておけ。我ら『シャドウリース』が、この世界全体の音を飲み込むその時にな、お前たちはその安らぎを後悔することになるだろう」
そう言い残すと、レオンの姿は夜風に溶けるようにして消え去った。
沈黙が広場を包む。
ようやく呼吸を整えたヴィクターは、ただ静かに、抱き合う少女たちを見つめていた。その指先からはまだ血が滴り、深紅の鍵盤をさらに赤く染めている。
「……ヴィクター」
ロゼアが涙を拭い、ミリルを支えながら彼を呼んだ。
ヴィクターは少しだけ視線を逸らし、いつもの冷徹な仮面を被り直そうとして——けれど、失敗したように小さく溜息をついた。
「……ミリル。貴様の音は、最悪だった。……だが」
ヴィクターはゆっくりと歩み寄り、ミリルの頭に、ぎこちなく手を置いた。
「最後に、その『不安』をロゼアの音に預けたことだけは……評価してやる。……帰るぞ。練習メニューを組み直さねばならん」
「……っ、はい……! ヴィクター、さま……」
ミリルの瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ちる。それは絶望の涙ではなく、ようやく居場所を見つけた安堵の雫だった。
街を覆っていた霧が晴れ、雲の間から柔らかな月光が差し込む。
足元に転がっていたロゼアのタクトを、ヴィクターが黙って拾い上げた。
傷だらけの三人の影が、静かな石畳の上に長く伸びていた。




