遺された未完成曲(アンフィニ)
ミリルが走り去った後の訓練室には、メトロノームの規則正しい刻み音だけが虚しく響いていた。
「……追いかけないの? ヴィクター」
ロゼアの声には、震えるような怒りと不安が混じっていた。いつもなら「呼び捨てにするな」と返すはずのヴィクターは、指揮棒を握ったまま、彫像のように動かない。
「……あの子、本当にいなくなっちゃうよ。あんなにボロボロにして、突き放して……。あんた、本当はミリルを助けようとしてたんじゃないの!?」
ヴィクターはゆっくりと顔を上げ、氷のように冷たく、それでいて今にも砕けそうな瞳をロゼアに向けた。
「……私は、正しいことをした。不確かな『不安』を抱えたまま旋律を奏でれば、待っているのは破滅だけだ。あいつが自ら去ったのなら、それまでの器だったということだ」
「嘘ばっかり!!」
ロゼアの叫びが、広い室内に反響する。
「あんたの手、まだ震えてるじゃない。……そんなに怖いなら、どうしてあの子にちゃんと向き合わなかったの? 自分の過去をあの子に重ねて、怯えてただけでしょ!」
「黙れ……!」
ヴィクターの鋭い一喝に、ロゼアは唇を噛み締め、涙を溜めた瞳で彼を睨み返した。
「……いいよ。ヴィクターが動かないなら、あたしが一人で探す。ミリルは、あたしの最高の相棒なんだから」
ロゼアは自分のタクトケースを乱暴に掴むと、ヴィクターを置き去りにして部屋を飛び出した。
一人残されたヴィクターは、膝をつくようにしてピアノの椅子に崩れ落ちた。
震える右手を左手で押さえつけ、彼は誰にも聞こえないほど小さな声で、呪詛のように呟く。
「……ステラ、私はまた……間違えたのか」
その名は、今のロゼアさえ知らない、彼の魂に刻まれた禁忌の記憶。
窓の外では、不吉なほど赤い夕陽が街を飲み込もうとしていた。
その頃、街の反対側にある、打ち捨てられた大聖堂。
ステンドグラスから差し込む血のような光の中で、ミリルはレオンの隣で、生まれて初めて「自分の内側から溢れ出す音」に身を委ねていた。
彼女が奏でる旋律は、清らかだった以前のそれとは異なり、聴く者の心を掻き乱す、毒を孕んだ重低音へと変貌しつつあった。




