表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ペトリコール。

作者: shikanote。
掲載日:2026/01/20

 ペトリコール。ペトリコール。

 実に口滑りの良い言葉じゃないだろうか。


 どんなものを指すのか、私はよく知らない。

 ただ、雨の匂いのことだと聞いた。


 私は意味よりも、この口滑りの良さを気に入っている。

 今降っているこの雨にも、ペトリコールはあるのだろうか。


 急に降られた雨に濡らされまいと、私は喫煙所に寄った。

 煙草を燻らせながら、何の役にも立たないことを案じている。


 そういう時間が大半になるほど、私の人生は空虚だ。


 起床し、歯を磨き、ぬるい飯と味噌汁を胃に入れる。

 三十手前の男の生活としては、珍しくもない。


 この繰り返しの毎日に、少しだけ色が加わる何かを私は待っているのかもしれない。


 食の話であれば、漬物を足すだけで幾許か味気は増す。

 だが、この空虚な毎日に、都合のいい一品を自分で用意することはできないだろう。


 しかし、こうざあざあと降られては、帰路に着く気持ちをごっそり削られる。


 二本目の煙草に火をつけ、咥えた頃。

 喫煙所に人が入ってきた。


 ぷんと香水の匂いが、煙の匂いに混じる。

 夜の街に出ればいくらでも感じる匂いだ。


 香水自体は悪くない。

 だが、煙草の匂いと混ざると、甘ったるい芳香剤の置かれた便所を思い出した。


 私が一歩、喫煙所の奥へ動く。

 香水を漂わせている人は、首だけを動かすように会釈をしてきた。


 煙草を八割方吸い、匂いにも慣れてきたころ。

 気づけば雨足も弱まっていた。


 これくらいなら、帰路についてもひどいことにはならないだろう。


 灰皿で吸いかけの煙草をもみ消す。

 喫煙所から出ようとしたとき、最初に嗅いだ香水の甘さが鼻についた。


 それから何度か、雨の日にこの喫煙所を使うようになった。

 特に理由があるわけではない。

 ただ、雨宿りには向いている。


 喫煙所の灰皿に馴染みを覚え始めたころ。

 すでに煙草を吸っている人がいた。


 一度嗅いだ、何とも言えない匂いがまた鼻をつく。

 私より一回り近くは若いだろうか。

 その人が、遅れて一歩奥へ動いた。


 煙草がじりじりと音を立てる。

 今日の雨はやけに静かだ。

 屋根を雨が伝い落ちる音が聞こえてくる。


 煙草から一つ目の灰が落ちるころ、前を匂いが通り過ぎる。

 その人はまた会釈をして、止みかけの雨に濡れていった。


 雨宿りを繰り返すうち、相手の銘柄を覚える程度には、同じ匂いの中にいる。


「最近は雨が多いですね」


 私がそう話しかけると、


「ええ、そうですね」


 彼女は少し口角をあげながら、こちらに目をやった。

 他愛もない会話と呼べるかも怪しいほどのものだった。


 すっかり慣れた匂いを感じながら、今日は私が先に煙草を消した。


 今日は雨に濡れる心配はない。

 ただ、気まぐれで喫煙所へ寄る。


 今日はやけに匂いがおとなしい。

 物足りなさを感じるほどだ。


 ふと横を見る。

 そこには灰色のコンクリートと、くすんだ銀の灰皿が置いてあるだけだった。


 煙草に火をつけようとした時、間の悪い雨が降り始める。

 雨足が強くなる前に帰らなければならない。


 つけかけた煙草を戻し、帰路につこうと喫煙所を後にする。

 慣れない匂いが鼻についた。


「あゝ、これがペトリコールか」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ