ふたりの蒼が互いを知る
夕暮れの街は、木々がオレンジや赤に染まり、肌寒い風が吹き始めていた10月の終わり頃。
その日は、北山 蒼は幼なじみで親友の大平 翔に誘われ、とあるライブのアルバイトをするためにイベント会場を訪れていた。
一度はアルバイトの誘いを断っていたが、あることをきっかけに金欠に陥っていた蒼は翔の誘いを受けていた。
ふたりはイベント会場の裏で、機材を運んだり雑用をしていた。
「やっと、休憩だ〜!!」
「機材って想像以上に重いんだな。明日は筋肉質かも」
あれこれ作業をしているうちに休憩時間がやってきた。ふたりは自販機の前で休んでいた。
「蒼はアイドルに会ったか?」
「会ってないよ。翔は?」
「俺も会ってないー。やっぱり会えないのかな〜」
翔はアイドルに会えるチャンスと思い、このアルバイトに参加していたが、結局会えていない。
「まあ、そもそも会えたらラッキーくらいで参加してんだから」
「それもそうだよな……。やっぱりバイトにはそんな機会ないか〜」
翔はため息をついて、明らかにショックを受けていた。
「仕方ねえな、飲み物買ってやるから元気出せって」
「え! いいのか?!」
「これで元気出るのかよ」
蒼は頬を緩ませ、翔に飲み物を奢ってあげた。そんなことをして休んでいるとあっという間に時間が過ぎ、休憩時間が終わりになっていた。
「あと、もうひと踏ん張り。頑張ろ!」
「ああ、そうだな」
蒼が励ましの言葉をかけると翔は気合いを入れ直した。ふたりは作業に戻り、ライブの準備をしながらライブ開始を待っていた。
その頃、ミィーティングを終えて楽屋に戻り始めていたアイドルたち。その中に──藤川 蒼衣がいた。
彼女はまだデビュー間もなく、しかも初めてのライブで体が強張っていた。ミィーティング中からずっと緊張していて、話もろくに頭に入っていない。
「大丈夫、大丈夫…」
小さな声で自分に言い聞かせながらも、足取りはぎこちない。
そんな蒼衣を見て、先輩の篠原 華が蒼衣に話しかけに来た。
「蒼衣ちゃん」
「は、はい?!」
華が蒼衣の肩をポンポンと叩くと蒼衣は素っ頓狂な声で返事をした。
「蒼衣ちゃん、すごく緊張してるけど大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です…」
「それならいいんだけど……、そんなに緊張しないでリラックスしてね」
華はそれだけ言うと楽屋に戻って行った。蒼衣も震えている足で楽屋に戻って行った。
楽屋でも緊張が収まることは無く、むしろ本番が近づくにつれて緊張がどんどん高まっていった。喉も乾き、置いてあるペットボトルの水を次々の飲んでいた。
本番直前。スタッフが準備をするように呼びかけていた。蒼衣も準備を始めていたが、水が無くなっていることに気がつくとステージ裏の給水所に小走りで向かう。緊張や焦りから足元のケーブルに気づかず──
「きゃっ…!」
バランスを崩した。
瞬間、近くにいた蒼が咄嗟に手を伸ばす。
「危ない!」
強い腕が蒼衣を支え、転ぶ寸前で抱きとめられた。
至近距離で目が合う。
蒼衣の大きな瞳は怯えと驚きで揺れていた。
蒼もまた、ふいに心臓が跳ねるのを感じた。
「だ、大丈夫?」
「……っ、はい…すみません」
頬を赤くして小さく頭を下げる蒼衣。
その声は震えていたが、どこか透明で、耳に心地よく残った。
蒼は笑って肩を軽く叩く。
「気をつけて。ここ、段差あるからさ」
「……あ、ありがとうございます」
ほんの短いやり取り。
けれど、その瞬間に蒼衣は胸が熱くなるのを覚えた。誰かに優しくされたこと自体は初めてじゃない。
でも、彼の声や表情は、不思議と心に深く残った。
「なにか用でもあった?」
「その…水が欲しくて……」
「水ね、はい。まだ開けてないやつ」
蒼は自分が飲む予定だった水を取り出し、蒼衣に渡した。
「あ、ありがとうございます……」
蒼衣はぺこりと頭を下げ、お礼を言うと小走りで楽屋に戻って行った。
(綺麗な人だな……)
蒼はふと心の中で思ったのであった。
(かっこいい……人だったな)
蒼衣も楽屋に戻ると心の中でそんなことを思っていた。緊張とはまた違うドキドキが蒼衣を襲っていた。
ライブ開始時刻となり、ライブが始まった。蒼衣は緊張の中、精一杯踊った。
緊張は消えなかったけれど、あの時の緊張はしていなかった。緊張ではなくドキドキ。そのドキドキは蒼衣の心を暖かくしていた。
あっという間にライブは終了した。大盛り上がりでライブが終了し観客たちが続々と帰っていく。
観客はいなくなり、片付けのために続々と作業員たちが入ってくる。その中に蒼と翔の姿もあった。
片付けも順調に進み、予定した時間より早く片付けが終わった。
一方、アイドルたちは楽屋に戻り一度休憩を取るとファンとの交流会へと向かっていた。
蒼衣はというと、交流会にこそ参加していたがグループでは新加入であり、あまり人気はなかった。だが、何人かのファンが交流してきてくれた。
「蒼衣ちゃんだよね。ライブ良かったよ!!」
「ありがとうございます!」
「まだ入ってきて間もないのにすごいね」
「は、はい……」
「これからも応援するね」
ファンとの初めての交流。緊張であまり話せていなかったが、自分なりに対応していた。
そんな時間が終わると、楽屋に戻り今回の反省をしていた。
(はぁ......。やっぱり緊張したな……)
楽屋でひとりため息をついていた。ライブとしては大成功。ミスも無く、練習通りにできていたが、やはり緊張のせいかどこか不安がよぎる。
スマホを見て、今回のライブの意見を見る。
そこに自分のことが書いてあるとは思っていないが、少しでも参考になればと。
一つ一つ目を通していると、自分のことが書いてあった。
新しく入った藤川 蒼衣について。
藤川 蒼衣は、全てにおいてミスもなく初めてのライブとは思えないほどの出来だったと思う。
だが、個人的には表情が少し硬いと思った。初めてという緊張もあるだろうが、これからに期待したいと思う人だった。
コメントを見て、まずは一安心。だが、表情が硬いと書かれていて、蒼衣は鏡を見つめた。
(表情か......)
指で口角を上げ、笑ってみせる。それでも、真に笑えているとは言えなかった。
(そんなに笑えていなかったのかな......)
緊張でライブのことはあまり覚えていない。自分が笑えていたかどうかも分からない。とりあえずの課題とだけ、頭に残し外の空気を吸いに楽屋を出ていった。
(ふぅ......。やっぱり外の風は気持ちいいな)
外は暗いなって、星が見え始めていた。少し肌寒いがライブ終わりの体には調度良いくらいの涼しさだった。
(初めてのライブ……。私が憧れ続けていたアイドル……)
ライブを終えて、様々な感情が溢れ出してくる。
数分外にいると徐々に寒さを感じるようになってきた。寒さを感じると蒼衣は楽屋へと戻ろうとした。
楽屋に蒼衣が戻ろうとしている時、蒼と蒼衣は再びすれ違う。
(あ、あの時の子だ)
蒼は蒼衣の顔を見るとふと彼女のことを思い出した。それは蒼衣も同じだったようで――、
「あ、あの時はありがとうございました」
「いや、俺は何も。無事でよかった」
にこっと笑い、蒼衣のことを見る。蒼衣も蒼の顔は見れないが、蒼の前に立ちつくしてしまう。
「……」
「……」
ほんの少しの沈黙。
気まずい雰囲気を漂わせているが、蒼と蒼衣の目が合う。蒼はにこっと笑い、蒼衣は顔を逸らしてしまう。
「じゃあ、俺はここら辺で……」
「あ、はい」
さすがに気まずくなり蒼がこの場から立ち去ろうとする。蒼衣も恥ずかしくなり、この場を去ろうとしていた。
ふたりが離れていく。
そんな時、深呼吸をして――
「あの!」
「ん?」
蒼衣が声を出して蒼を止める。
「あの……本当に今日はありがとうごさいました。私……藤川 蒼衣っていいます……。まだ、新人もいい所なんですけど、もし良かったら、私のこと……推してくれませんか!」
蒼衣が頭を下げてお願いしてきた。その様子に蒼は驚き、声も出せずにいた。
「もちろん、いいよ!」
「ほ、本当ですか!!」
「うん。これからも頑張ってね」
「ありがとうございます!」
蒼衣は満面の笑みで蒼の顔を見つめた。
その表情に蒼は思わず、見とれてしまった。
最初はただの口約束。あまり本気にしようと思っていなかったが、本当に彼女を推してしまえるほどに見とれてしまっていた。
これが蒼と蒼衣が互いを認識した日だった。