取り返せない間違い
少女に持ち上げられた烏、ディーン・ガローシュという名の青年魔法使い入りであるが、彼はほんの少しだけだがたじろいだ。
否、実はかなりたじろいでいた。
現在の彼は白い烏の姿でしか無いのだが、可愛らしい少女に見上げられる、というシチェーションに、恥ずかしい、という感情を抱いてしまったのだ。
それこそ自分を助けた少女に対して失礼だと思ったが、ついこの間までは人の姿をしていたわけであり、愛人その他が彼の前に跪いて彼を見上げる、それも裸で、という状況は何度と無く体験してもいたのである。
彼は彼の世界においては術者として名の知れた有名人であり、また、彼は自分の外見によって男女問わずに持て囃されてもいたのだ。
つまり、それらの過去記憶を思い出してしまうような、少女の行動であった。
ついでに言えば、彼は烏なのだから、彼の自己認識は全裸状態だ。
「き、君?」
狼狽するディーンに向かって、少女は唇を寄せてきた。
鳥の胸だがそこは私の胸である!
人間にしたら、大胸筋と大胸筋の間という性感帯でもあるそこに、年端のいかない少女の唇が触れるというのか!
女の子だったら、おっぱいの間に顔を埋められるってことだ!
ディーンは自分が完全に狼狽してしまっていることに気が付き、さらに狼狽してしまうという悪循環に陥った。
「ま、ままって。」
艶のある黒髪はザンバラに刈られてしまった哀れなものだが、少女の目鼻立ちはディーンの同胞とは系統が違っても可愛らしいとしか言えないものである。
赤ん坊の様な小さな鼻は人形のようだともいえるし、真っ黒の瞳を輝かせる目元は猫のようでもあるのだ。
「む、むすめよ、待ってくれ!」
娘の可愛らしい唇からピンク色の舌がちょろっと顔を出し、その舌は見た目の可愛らしさなど完全に打ち消す凶悪な動きをして見せた。
ディーンの羽の間に差し込まれたそれは、遊びなれた男が女性の肌に舌を這わすようにして、ディーンの塞がったばかりの傷口を舐めあげたのである。
人の姿をしていなくとも、ディーンをぞくりと震わせた。
それでも彼は魂の呪文を唱えようとくちばしを開いた。
自分を助けた少女。
この少女を自分こそが命を懸けて守らねばらならないだろうと、伴侶の印ともなる血の誓いを持ちかけたのだから、と。
「アガルタベルキ。」
「きゃあ!」
少女はカラスが呟いた途端に全身に衝撃を受け、後ろへと尻餅をついていた。
少女の手から放り出されたディーンは空中で二度三度羽ばたき、少女が用意してくれた自分用のベッドらしい箱の中に舞い降りた。
そこで彼は両手で顔を覆って体を丸めている少女を眺め、彼女の身に起きているだろう事を思って心の中で謝罪を上げていた。
君の世界はもうすぐ私の世界と衝突することだろう。
それは、君の世界に物理的な衝撃を起こすのではなく、魔法世界の理がこの魔法のない世界の法則を変えるという、君達の世界の終焉だ。
ディーンの存在する世界は、以前に一度この世界とニアミスはしていた。
その時に物質世界の化学というものを知って手に入れ、ディーンの世界はさらなる発展を遂げたが、それまでは隷属するだけだった魔法を持たない住人との諍いも起きるようになった。
よってディーンの世界の住人は、自分達の世界が接触した世界が自分達の世界の魔法によって歪な変貌を遂げていないか不安(ディーン達の世界を襲ってくるかもしれない)を抱き、観察する事を自らに義務付けたのである。
その結果、自分達こそあの世界を支配するべきという結論に達した。
「すまないな。娘よ。私はこの世界に我が世界を呼び寄せねばならない。それに抵抗するかっての同胞、以前のニアミス時にこの世界に取り残された仲間は現在の富を失うやもと慌てふためいて抵抗しているが、世界の平穏の為には我々がこの世界をも平定するべきなのだ。」
彼が呟き見つめている中で、少女はメタモルフォーゼを完了させた。
この世界の人間には無い感覚、自然の五要素を体内に取り込み、それを具現化するという器官が彼女の頭頂部から一本突き出していた。
彼の羽と同じ色をした、五センチ足らずの白い突起だ。
ふわさ。
彼女の肩に彼女の失っていたはずの髪が落ちた。
彼の血の力は彼女の体を癒しもしたのである。
少女は驚きで強張った顔をあげ、自分の肩に落ちた髪を右手の指先で掴み、信じられないという眼つきでディーンを見返した。
ディーンは少女の主となるべき、言葉をかけてやろうとくちばしを開いた。
がつっ。
「はうっ。」
ディーンのくちばしから出たのは、首を絞められた生き物があげる悲鳴にもならない声だった。
少女はディーンを睨みつけながら、ディーンの首を右手で掴んでいるのである。
「お前さ、私を元に戻して貰おうか?」
「魔法が使える体は嫌か?」
少女は嘲りの笑み作り、口元を歪めた。
それからディーンの目の前に左手を翳して、薬指と小指をゆっくりと折り込みながら言葉を返して来たのである。
「三ヶ月だ。三ヶ月も私は仕込みで我慢していたんだよ。それで、ようやく今日、私の髪を切り落とすという暴挙に出てくれた。明日からあいつらの人生を破壊できる計画が発動できたというのに、どうしてくれる?元通りになった髪じゃ、傷害で訴える事がまず出来ないじゃないか!あいつらは、家族残らずじわじわいびってだな、殺し合いゲームでもさせてもらおうと思ったのに、延期かよ?」
「え、ええ?」
「で、魔法だと?自分の手で皮膚を切り刻んでこそ、だろう?やっぱりお前は最初に殺しておくべきだったよ。あの傷に手を突っ込んで内臓を取り出してやれば良かった。」
ミシッ。
ディーンは自分の喉がさらに締め付けられる感覚を受けた。
殺される、とディーンは初めて脅えを心に抱いた。
真っ黒い瞳はガラス玉同然の輝きしかなく、彼が彼女を純粋なものと見做した理由がその瞳だったと呆然としながら認めた。
これは純粋な殺人鬼の瞳だった。
赤子の様に純粋に人を殺せる人間の瞳だった、と。
いや、これこそ敵が仕掛けた罠だったのだろうか。
彼が生きるために少女を殺せば、彼は少女に与えたばかりの力もそこで永久に失ってしまう。
たかだか五分の一程度かもしれないが、敵を制圧して彼の世界を召喚する事も出来やしない魔力量となってしまうのだ。
いや、彼の肉体の復活こそ不可能になるやもしれぬ!
「まっ!待て!」
ガッシャーン。
彼は助かった。
彼らを追いかけてきた彼の敵が、少女と彼がいる場所目掛け、単身で乗り込んでくるという暴挙を起こしてくれたのだ。