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課外授業の次の日、ニナがエリスのいる一般教養科の教室にやってきた。何とも珍しい来客に生徒の視線が集まる。気にせずに大声で叫ぶニナ。
「クライスクライスー、どこー!」
「……ニナ?」
エリスが返事をすると窓際の席に座る彼女を見つけたニナがとてとて歩いてきた。
「どうしたの?」
ニナは後ろにやっていた両手を前に差し出す。その手には素朴な花束。
「助けてくれたお礼」
「え、あ、ありがとう」
手作りらしい花束は抱えると少し独特で清涼な香りがする。何処かで嗅いだことのかる気がした。
──あら、これは……。
「これ、もしかして薬草かしら」
エリスはこの香りに覚えがあった。母が病に倒れた時、外国から取り寄せた薬にこれの香りに近い粉薬があったことを思い出す。
「やくそう? なんか綺麗な花だから摘んできたけど」
ニナは特に知らずに摘んできたらしい。
「これはどこで摘んだの?」
「んー、何か花とか草とかいっぱいあるところ」
ニナはこの学年の敷地から出る事は基本的に禁止で、他学年と共用の施設には出入りできない。つまりは行ける場所が限られる中で花を摘める場所となると、花壇か各学年の敷地にある主に薬学科が使う植物園。今回の花は薬草なので十中八九植物園から摘んできたのだろう。当然無許可で採取は禁じられている。
だが、どこか褒めて欲しそうにしているニナにこれを指摘するのは心苦しい気がした。困るエリスに気付かずニナは話しかける。
「嬉しい? 嬉しい?」
「えーと、そうね、良い香りね」
ニナがぺかーと輝かしい笑顔になる。屈託のない笑顔。いつも周囲の人間がエリスに向ける第二王子の婚約者という肩書への社交的な笑みとは全く違う種類の笑顔。裏の無い純粋な正の感情。
エリスはここでやっと胸にほんわり広がる何かの正体に気付く。
──そうか、私癒されてるのだわ。
温かい気持ちが胸を満たす。それはエリスにとって久々のこと。懐かしく感じるのも無理はない。母が亡くなってからは縁遠い感覚だった。
エリスの母は生前猫を飼っていた。ルーという名の長毛で灰色の柔らかい猫。人懐っこい性格で、エリスの膝でお昼寝するのが日課。自分の膝でゴロゴロ喉を鳴らすルーを眺めるとエリスは嫌なことなどすぐ忘れた。残念ながら母が亡くなる一年前に病死したので一緒に居られたのは二年だけだったが、共に過ごした日々はエリスにとって大切な思い出だ。
特にニナがルーに似ているという訳では無いが、彼女の笑顔を見て和む気持ちはルーに癒されていた時の気持ちと似ていた。
「ありがとう、ニナ」
「えへへー」
「それと、クライスではなくエリスと呼んで貰えるかしら」
「いいのかー、じゃあエリスー」
ニナには名前で呼んで欲しいと、何故かそう思った。名を呼ばれると自然と笑みが零れた。すると、周囲がざわつく。
エリスは滅多に笑わないことと、普段の落ち着いた言動、加えて近寄りがたいほどの整った美貌から『氷花の君』と陰で呼ばれていた。必要な時に微笑みを浮かべる時はあるが、目が笑っていないどころか虚無さえ湛えた目だった為にそれは『絶対零度の微笑』と評されている。
「嘘だろ……クライス様があんな表情を」
「氷が溶けた……」
「しかもあの問題児に向けて?」
そんな生徒の小声は二人に届かなかった。
□
放課後、薬草園。
「先生! 今朝やっと開花した例の薬草が根こそぎ摘まれています……!」
報告を受けた教師が急いで確認する。本当に摘まれているのを見て膝をつく。
「な……何故……鍵は……」
摘まれている薬草は外国から取り寄せた珍しいものだった。種が少量しか手に入らなかったので、薬草園の奥の鍵を掛けれる場所に植えていた。取り扱いが難しく、育ったのは植えた数の半分だった。その貴重な薬草が盗まれた。
生徒が壊れた鍵を教師に見せる。それは粉々で、大きな欠片に残された装飾でやっと鍵だと判断できた。
「こ、これは破壊魔法……!?」
「おそらく……」
この学年で破壊魔法と言えばニナである。破壊魔法は攻撃魔法の最上級。一年で他に使える者がいるとは聞いたことが無い。
「まさか、シェンテが? だが何故……」
「売るつもりかもしれません。シェンテはいつも金欠らしいです」
薬草を盗まれて気が動転している二人はニナが学園に外に出れないのを忘れて、犯人だと断定した。外に出なければ売りにも行けないというのに。
「取り返しましょう……!」
「いや、例の薬草は根から切り離された瞬間から薬効が失われていく。採取時に保存魔法を掛けていなければ……」
ニナはおそらく鍵を掛けられているから高いのだと思って摘んだだけだろう。その性質を知っていて保存魔法を掛けて摘んだとは考えにくい。教師と生徒はそれを察して一言も発せずにただ俯いて落ち込む。
その沈黙を破るものが現れた。
「あの、先生。これはここの薬草園の物だと思うのですが」
花束を抱えて、少し申し訳なさそうにしているエリスだった。
「クライス! お前、それは……」
花束が例の薬草で出来ていると気づいた教師は驚愕する。
「知人からいただいたのですが、香りからして薬草だと思い、返しに参りました」
「それは、いつ受け取った?」
「昼休憩です」
それを聞いて教師と生徒は諦めた。昼に摘んで放課後まで放置したのであれば、もう薬効は失われているだろう。
どん底な気分で花束を受け取った教師は、花が先ほど摘まれたばかりのようにみずみずしいことに気付く。
「保存魔法が掛けられているのか!?」
「ええ、受け取った時に貴重な薬草では無いかと気付いて、保存魔法を掛けておきました」
教師と生徒は再び驚愕する。
「クライス、お前が?」
「ええ」
「そうか、ありがとう……!」
「ありがとうございます、クライス様……!」
教師と生徒にはエリスの背から光が差しているように見えた。二人は感謝を込めた眼差しをエリスに送る。その視線が熱すぎて居心地が悪くなったエリスは、たいしたことでは無いと言ってその場を去った。
しかし、教師と生徒の間でエリスは救いの女神だと密かに崇められることとなった。
□
あれ以降、特に接触は無かったが、ニナはエリスを見かけると笑顔で手を振るようになった。エリスも微笑んで手を振り返す。時々短く雑談もする。友達未満顔見知り以上といった関係だった。
ある日、いつものようにニナが遠くにエリスを見つけてブンブン手を振って挨拶していると、横から後ろから教師と騎士に囲まれた。少し反応が遅れたニナは捕まってしまった。
「ぴぎゃーーーー!」
エリスは心配そうに様子を伺う。よく教師に追いかけられているニナだが、捕まったのは初めて目撃した。簀巻きにされて運ばれるニナ。その目は「助けて」と訴えていた。
小走りに近寄ってエリスが教師に問う。
「ニナが何かしたのですか?」
「何かしたんじゃ無い。してないのが問題だ。こいつは嫌な授業は受けないんだ」
教師が騎士に荷物のように抱えられたニナの額を小突いて答える。
「びゃー! わかんない授業受けても意味ないじゃん! できないんだから! 数学きらい!」
簀巻き状態でうごうご抵抗しながらニナが叫ぶ。
「そうね、確かに、わからないまま受けても意味がないわね……」
「しかし、授業をうけてもらわねば単位をやれん。こいつは何としても卒業させろと上からの指示だ」
そこでエリスは閃いた。
「ねえ、ニナ。わかるようになったら授業受けるかしら」
「んー、どうだろ」
「私は数学が得意なの。良かったら貴方に教えてあげるわ」
ニナが「んー」となにか考え込む表情。教師が口を挟む。
「クライス、お前がそこまでしてやる理由が無いぞ」
「理由はあります。人に何かを教えてあげるということを一度してみたかったのです。教えるという行為は教える側も得るものが多いと聞いたことがあります。それに……、私は彼女と友達になれたらいいなと思っていたので、良い機会です」
ポカンとして口を開けるニナ。
「そこまで言うのなら試してみると良い。だが、このことは学園上層部に報告しなければならないだろうな……」
第一王子派閥が重要視している存在であるニナに、第二王子の婚約者であるエリスが近づくのは他に目的があると見做されても仕方がない。この教師が報告せずとも、エリスがニナと過ごせば誰かが報告するだろう。
「何もやましいことはありませんので、どうぞご自由に。私はこの学園では駒としてで無く只のエリスとして過ごしているのですから」
エリスにとって学園生活が人生最後の自由であるというのは、貴族ならだれでも察せられることだ。教師もそれは理解している。少し気まずくなった教師は咳ばらいをする。
「まあ、その、なんだ。変人とも付き合ってみるのも貴重な経験になるだろうからな。楽しむと良い」
「ありがとうございます」
ニナは会話について行けずに、ずっと口を開けたままポカンとしていた。
□
そして数日後の放課後から、空き教室の使用する許可を貰って勉強会が始まった。
「さて、ニナはどこがわからないのかしら」
「うー、全部」
流石に全部は無いだろうと詳しく聞くと、生活する上で必要最低限程度しかできないことが判明した。
「本当に入学してから一度も数学の授業を受けていないのね……」
「うー、だってもともと苦手だもん」
唇を尖らせて不機嫌なニナ。エリスは苦笑して、持参した鞄からあるものを取り出す。
「そうよね、苦手なものを無理強いされるのは辛い。だから頑張ったらご褒美をあげるわ」
「ごほうび!?」
取り出した箱の蓋をちらりとずらして中をみせる。そこには様々な種類のクッキー。
「クッキーだ!」
以前ニナは甘い物が好きと言っていたので、エリスは安直にお菓子を用意したのだった。
「王都の有名店から取り寄せたの」
「わーい」
「今日の勉強が終わったら好きなだけ食べていいから、頑張りましょうね」
「うん!」
それからニナへ入学後すぐの内容を教え始めた。最初はもたついたが、ゆっくり何回か似た問題を解かせると、ニナはすんなりと覚えた。
そもそもニナの頭の基本性能はそれなりにいいはずなのだ。無詠唱魔法はバカでは扱えない。ニナは少し呑み込みが遅い分、一度覚えたら忘れないタイプらしかった。生徒の考える力を養うことを重点に置いた学園の授業はニナにとって少し覚えにくい教え方のようだ。
一生懸命勉強するニナを見るとエリスは微笑ましい気持ちになった。同時に教えるという行為の難しさを痛感した。授業で覚えた内容を教えるには、ただ試験の為に覚える程度の理解では難しく、更に深く理解してやっとできるのだと初めて知った。
「さて、今日の勉強会は終了です。よく頑張りました」
「ごほうび!」
「ええ、どうぞ」
エリスが微笑んで箱を手渡す。受け取ってうきうき蓋を開けて、食べるかと思いきやニナ、固まる。
「どうしたの?」
「罠が仕込まれてる……」
まさか毒が、とエリスが青褪める。
「…………ハーブはいってりゅ……」
「え?」
しょんもり項垂れるニナ。エリスが確認すると確かに少しハーブの香りがする。
「ハーブは少量のようだけど……」
「無理ー……異物混入異物混入ー……」
「そう、なら仕方が無いわね。今度は違うものを持ってくるわ」
箱を片付けながら、ふと思い聞いてみる。
「ニナ、他に苦手なお菓子はある?」
「果物とかナッツとか入ってるのも無理ー」
「ええ!?」
この国のお菓子は果物を使ったものが殆どだ。庶民派は小麦と砂糖が主な原料の素朴なお菓子を食べるのだが、貴族が利用するような店にそれは販売されていない。
貴族御用達の店は学園に配達してくれるが、庶民の店はそうもいかない。学園は使用人を連れてこれないので、入手するには自分で買いに行くしかないのだが、生徒の外出には基本的に騎士が同伴しなければいけないので事前に申請する必要がある。それに何回もは許可されない。
「困ったわ、ご褒美をどう用意すればいいのかしら」
「お菓子じゃなくて白いパンでいいよー」
白いパンは寮の食事で毎日出てくる。食堂でも頼めば個別に販売してくれるだろう。
「それでいいの?」
「ぱんすき」
「そうなの……」
──でも、ニナは頑張って勉強しているのに、ご褒美がいつものパンだなんて。
どうにかしてあげたいと思うエリスだった。
□
エリスは食堂に来ていた。食堂の調理師に頼んで庶民のお菓子を作ってもらおうと考えたのだ。
厨房を覗いて、手の空いていそうな調理人を手招きする。
「どうかしましたか、ご令嬢」
「あの、お願いしたいことが……」
「食に関するご要望でしたら、無理です」
言いたいことを予想され断られる。
「そんな……」
「一々、貴族の子息令嬢の要望を聞いていたら仕事になりませんから。やれ質素すぎるだの、実家のシェフの味を再現しろだの、聞いていられません」
溜息を吐く調理人にエリスは用意していた金貨を数枚取り出す。
「金を出されても無理なものは無理ですよ」
明らかに不機嫌になる調理人にエリスは頭を下げて懇願する。
「お願いします。どうしても必要なのです。小麦粉と砂糖だけの、庶民のお菓子が……」
「はい?」
エリスは軽く理由を話した。すると調理人は元平民のニナが懐かしい味を食べたがっているのだと解釈し、とても同情した。
「同じ平民だったよしみだ。毎日では無いけど、僕らがまかないで作ってるおやつでよければ分けて差し上げます」
「ありがとうございます……!」
エリスはニナの喜ぶ顔を想像して嬉しくなった。ニナに向けるような穏やかな笑顔で調理人に礼を言う。
「……」
調理人の顔がみるみるうちに赤くなった。何も答えない彼を不思議に思いエリスが「どうしました?」と問うと調理人はハッと意識を取り戻した。
「え、あ、いや何でも無いです。ええと、まかないのお菓子は毎日僕が届けます。お名前を伺っても?」
「エリス・クライスです」
「えっ、クライス侯爵家の……」
その後何故か少し沈んでしまった調理人に何度も礼を言ってエリスはその場を後にした。
エリスが去ってから調理人は肩を落とす。
「くっそー、男爵家のご令嬢とかならギリいけるかと思ったけど、侯爵家は無理か―……」
一部始終見ていた同僚が笑いながら出てきた。
「いや、あのレベルの美人さんが男爵令嬢なわけないだろう」
「それもそうか、まさか氷花の君とはなー……」
「初見ですげえ美人と思ったが、笑うとガラッと印象が変わるな。何か年相応の可愛さっつーか、ギャップがすごいな」
「そのギャップに見事やられたわ……あー、第二王子が羨ましい」
「不仲らしいけどな」
「マジかよ。第二王子妃の愛人目指すか」
「やめとけやめとけ」
そんな会話をしながら仕事に戻っていった。