07 襤褸
この物語はフィクションです。
――翌日、俺達は再び早朝からババアの洞窟へと向かう。
ババアは昨日と同じ姿勢のまま寝ているようだ。
「シロ、起こしてやれ」
「らじゃ!」
シロは、胸いっぱいに息を吸い込んでいる。
俺は、次に起こる災害に備えて、両耳を手で塞いだ。
「ババアアアアア!!! おおおはよおおおおおお!!!」
洞窟のみならず、周囲一帯に響き渡った大音声に、驚いた鳥達が一斉に飛び立ったのが目に入った。
至近距離でそれを聴かされたババアは、痙攣を起こしているようだ。
シロは、満足気な様子で胸を張っている。
良し。
今日もシロは朝から元気いっぱいだ。
俺は生暖かい笑顔のままで、ピクピクしているババアの点穴を衝いて気脈を整え、気付けをしてやる。
「はうあ!」
無事に生き返ったらしい。
短期間に何度も同じ相手に点穴を衝くのは初めてかもしれない。
「ババアおはよ」
「おはよう」
「え? ……おはよう……ございます?」
ババアは混乱している。
「今、何か物凄い衝撃を受けたような……?」
「気のせいだ」
「でも、耳がジンジンして耳鳴りが……」
「気のせいだ」
「――それより、体の具合はどうだ?」
俺は強引に話題を変える。
「――体? とても元気で……ハッ!」
ババアは己の手を見て気付いたようだ。
「元がどうなのかは俺達は知らないが、少なくとも老婆ではなくなった」
「手が……体が……戻って……ぅぅ」
ババアは感極まって泣いている。
「シロ、鏡持ってたか?」
「なっしーんぐ」
「……川に行ってみます」
ババアは涙を拭うと立ち上がった。
――俺達はババアがよく行っていたという川の畔に来た。
ババアは川を覗き込み、己の顔を見て再び泣いていた。
「あっ! ババアがいつも川を見てたのって、お顔を見てたんだ!」
シロが納得の顔をしている。
「潜在的に残っていた意識が、そうさせたのかもな」
俺は仮説を口にした。
――しばらくして落ち着いた様子のババアは、急に俺達に向き直って平伏し、深々と頭を下げた。
「私は関玉麗と申します。この度は、お二人とも誠にありがとうございました……この御恩は一生かかっても、とても……返しきれる物ではございません」
ババアは震える声を抑え、息を吸い込む。
「私に出来ることでしたら、何でも致します」
玉麗と名乗ったババアは凛として、決意を述べた。
「そうか。特に必要な物も困っていることも無い」
俺はシロの顔を見る。
「ない! いらない!」
だよな。
「で、ですが! あの様な薬は国中探しても見つかるような物ではないはずです!」
感心した。若いわりによく知っている。
だが正直な所、見返りが欲しくてやったことではないというのは事実だ。
シロの要求に対して俺が応えたに過ぎない。
シロはシロで、特に何も考えていないだろう。
お気に入りが元気になってよかった――と、思っているに違いない。
「ただの在庫処分だ。運がよかったな」
「ババアらっきー!」
玉麗は唖然としている。
「……私は、これからどうしたら?」
「知らん」
俺は玉麗に向き直る。
「……昨日も言ったが、お前はもう妖ではない。そして、人間でもない」
「――好きに生きればいい」
俺が冷たく言い放つと、玉麗は顔を曇らせた。
「……私は、恥ずかしながら狭い世界で生きておりました。一人で生きていく術を持っていません。事情もあり、身内も頼れぬ有り様です」
玉麗は何か覚悟を決めた様子で顔を上げた。
「お助け頂いた命なれど、元の姿を再び取り戻せただけで十分に御座います。どうか、この哀れな女に死を賜りたく存じます」
シロを見ると、玉麗と対照的にこれ以上無いという位に渋い顔をしていた。
まあ、シロはそうなるよな。
俺はため息を吐く。
「……はあ。わかった。わかったよ」
面倒なことになったな。
俺は頭を掻いた。
「取り敢えず、落ち着くまでは俺達の所に来い」
「ッ! あ、ありがとうございます!」
玉麗は、また深々と頭を下げた。
「ババアがお家に来るー!」
シロは喜びのあまり、手足をバタバタさせている。
不本意だが、シロの機嫌が直ったので良しとしよう。
――俺は洞窟を引き払うために玉麗に準備させる。
すると玉麗は、突然はっとなって体を両手で隠した。
「み、見ないでください!」
ああ、これは所謂恥じらいという奴か?
若い女なら当然のことだな。欠片も興味は無いが。
見れば、老婆の時に着ていた襤褸の服は丈が足りておらず、襤褸だけに肌があちこち露になっている。
見るなと言われているし、興味が無い物をわざわざ凝視する必要も無いだろう。
俺が視線を逸らすと、何故か玉麗の機嫌が少し悪くなったようだった。
視線を外すのが遅れたか?
気を付けないとな。
羞恥心が皆無なシロと暮らしているせいで、かなり鈍くなっている自覚はある。
シロは俺達二人を意味がわからないながらも、楽しそうに眺めていた。
―― 玉麗 ――
私は換骨奪胎で気を失っていたらしい。
あれほどの苦行であれば仕方ないと思う。
黒殿が介抱してくれて事情も教えてくれた。
――でも、この耳鳴りと耳が痺れているのは何故だろう?
黒殿が体の調子を聞いてきた時に、私の腕や足が目に入った。
ああ、本当に自分の体を取り戻せるなんて!
二人は気を使って鏡を用意しようとしてくれたけど、無い物は仕方ない。
あの川で確めるしかない。
私は川に着くなり、恐る恐る川面を覗いた。
何度も覗いた川面。
何度見ても老婆だけが映っていた川面。
今はあの醜い老婆ではない。私の、私の顔だ。
……私の……顔だ……。
私は、また泣いた。
二人は私が泣き続ける間も傍でずっと待ってくれていた。
私はどうにか落ち着きを取り戻すと、礼を失していたことに気付き、冷や汗をかく。
名前を告げ、感謝の言葉と恩返しの意志を示した。
だが、彼等にとっては取るに足らぬことという。
そんなはずは無い。
あの薬一つで国が動くと言っても過言ではない。
それでも彼等は固辞する。
返しきれぬ恩を不要と言われる。
そして――好きに生きろ、と。
私は貴族として生まれ、何不自由無く育ち、見初められて後宮入りをした。
好きに生きろと言われた所で、生き方なんて知らない。
実家にも多大な迷惑をかけた。戻ることは論外だ。
私はしばらく考えていたが、たどり着いた答えは一つしかなかった。
頂いた命を絶つ赦しを乞うことだ。
大恩ある身なれど、返さなくていいと言われると、私にはこれ以上はどうすることも出来ない。
俗世に悔いはあれど、既に未練は無い。
私は綺麗な体で幕引きが出来るのなら幸せだと考えた。
そして私はその事を二人に告げた。
当初から、私を救うことに腐心してくれていた"ラン"殿は苦い顔をしている。
当たり前だ。恩を仇で返すに等しいのだから。
黒殿は顔色一つ変えない(といっても編笠でほとんど見えていない)が、ラン殿の様子を見ているようだ。
すると、ため息混じりで渋々という様子ではあったが、しばらくは二人の家で面倒を見てくれるという。
ああ、私はなんという幸せ者なのだろうか。
彼らは聖人君子ではないとはいえ、私を絶望から救い出し、更には一人で立ち上がって歩けるよう計らってくれる。
このような地面に額をつける程度の謝礼では、真に申し訳なく思う。
ラン殿は純粋に喜んでいるようだ。
――自己紹介をしたのに、未だにババア呼びなのは少しだけ気になるが。
いや、大恩人が私をどう呼ぼうと構うものか。
気にしない。そう、気にしないでおこう。
黒殿が洞窟を引き払うので準備をするように、私を促した。
とはいえ、元々ここには何も無い。
私の所持品といえば、何故か手に馴染む無骨な鉈と襤褸の服だけだ。
――襤褸の――服――?
私は改めて自分の姿を見る。
老婆であった頃は体格も違ったし、色々見えていても問題はなかった。妖だから。
でも今は違う!!!
色々と見えてはいけないものが見えてしまっている!!!
それも、とびきりの美丈夫の前で!!!
私は慌てて、手で隠せるだけ隠して黒殿に見ないように嘆願した。
耳まで真っ赤になって、体温が急上昇するのを感じる。
すると黒殿は特に動揺することもなく「ああ、言われてみれば」といった様子で、ぷいとそっぽを向いてしまった。
――私は自分で言うのも何だが、これでも都では美姫として多少なりとも有名だったのだが?
少しくらいは照れてくれてもいいのだが?
――いけない、いけない。
不埒な暴走をしてしまう所だった。
ラン殿の純粋な笑顔が、私の心に突き刺さる……。