03 山姥
この物語はフィクションです。
飲酒表現等が含まれています。
――震山の朝。山々に声が響き渡る。
「いってきまーす!」
朝から元気いっぱいのシロとは対照的に、黒は薬草畑に置いた長椅子に寝転びながら、気だるそうに返事をする。
「いってら」
その手元には酒瓶と黒い湯呑みが置いてある。
シロはその様子を特に気にすることもなく、黒に笑顔を向けて全力で手を振る。
黒がゆるく手を振り返すのを見ると満面の笑顔になり、駆け足で出発した。
黒は寝転んだまま、走り去るシロをぼんやりと眺めながら酒をちびりと飲む。
「――あいつ、何処へ行ったんだ?」
再び酒を口につけて、ふと昨夜の話を思い返す。
「ババア……? まあいいか」
寝転びながら、空になった湯呑みに酒を器用に注ぎ直す。
雑草の手入れはされているものの、肝心の薬草が伸び放題の畑を眺めて同じ言葉を繰り返す。
「……まあ、いいか」
シロは普通の人間であれば丸一日はかかる距離を半時ほどで移動している。
彼女の前では山も谷もお構いなしだ。
道を無視して常に最短距離を飛び、駆け抜け――難なく目的の場所へとたどり着いた。
シロは見晴らしの良い高木の上から「ん-」と唸りながら目を凝らす。
「見つけた!」
ほどなくして目的の『人物』を発見したシロは樹上から嬉しそうに声をあげる。
視線の先には、岩がごろごろしている川岸から川の水面を覗きこむ老婆の姿があった。
「ババア発見! かくほ!」
老婆の背後に降り立ちながら、シロはまるでかくれんぼを楽しんでいたかのように、標的を見つけた喜びを爆発させる。
一方の老婆は突然現れた異形の少女に、ただただ驚きを隠せない様子だ。
老婆――山姥は、そう呼ばれることが相応しいと納得するほど醜悪な姿である。
老婆の白髪はシロの美しい銀髪と異なり、薄汚れて伸び放題、何かしらの汚物でも浴びたのか、変色してべったりとした塊になってしまっている。
その背中は曲がり、襤褸を纏い、所々に見える地肌は痩せこけてシミと痣だらけで、全身泥と埃にまみれている。
腰に差した武骨な鉈には血が乾いたような黒ずみまでついている。
「何見てたのー?」
シロは山姥の容姿等には一切、目もくれない。
興味があるのは山姥の行動だけだ。
山姥が覗き込んでいた川面を、同じようにして隣から覗き込む。
しかし、静かな川面に映るのは、不思議そうな顔をした自分の姿だけだ。
「あっ、ボクの名前はランだよ!」
シロは山姥に向き直り、いつもの名前で自己紹介する。
山姥は、そこでようやく正気に戻ったのか、シロへの敵意をむき出しにして獣のような唸り声を出して、強く威嚇した。
「うわ! 機嫌悪い!」
山姥に言葉が通じる様子は無く、獰猛な野獣の如き咆哮をあげる。
そして、腰に差した鉈を抜き放つと――問答無用でシロへと斬りかかってきた。
特筆すべきは、その速度。
とても痩せた老婆とは思えないほど俊敏な動きだ。
「わー! 元気いっぱいだー!」
シロは山姥の鋭い斬撃を避けながら、能天気な科白を言う。
「わはっ。すごい! ババアすごい!」
山姥の攻撃は凄まじく、風を切り裂く鉈の音は途切れることがない。
「わははーい!」
しかし、シロは軽く体を動かすだけで、その全てを難無く避けてしまう。
楽しそうなシロとは対照的に、山姥の表情はどんどん険しくなっていく。
何故なら、既に数十どころではない回数を振っているせいだ。
しばらく笑顔で回避を続けた後、シロは突如として何かを思い付いたと確信を得たような顔をする。
「わかった! お腹が空いてるんだ!」
山姥の激しい攻撃は続いていたが、シロは一向に意に介した様子がない。
「それで川を覗いてたんだ。お魚見てたんだよね?」
やがて山姥の連続攻撃は限界を迎える。
今は辛うじて握っている鉈を雑に振りながら、肩で息をしている状態だ。
「そうだったかー」
「お腹が空くと怒りっぽくなるんだっけ?」
一人で納得しているシロに対し、山姥はとうとう鉈を振ることも出来なくなってしまい、膝に手をつき、ぜいぜいと息を整えるのに必死である。
ついには敵わぬと判断したのか、山姥はふらふらと森へと逃げ込み、何処かへと消え去った。
シロはそれに気付くことなく、うんうんと頷いている。
「――じゃあ、ボクがお魚獲ってあげる! ……あれ?」
シロは名案といった様子で振り向いたが、其処に山姥の姿はなかった。
山姥は森を、ひたすらに逃げた。
この辺りでは自分よりも素早く動ける者は居なかった。
何時からか、気付いた時には既に持っていた鉈は、獲物を黙らせる最良の道具だった。
一度、森に紛れ込めば、自分を見つけ出せるような追跡者も存在しなかった。
恐らく自分を狩りに来たのであろう人間の集団も返り討ちにした。
森や山の中では頂点に居た、はずだった。
山姥は恐怖を感じていた。
あの人間の子供は一体何なのか。
あんな人間は居ない。
人間の姿をしただけの怪異なのだ。
きっとそうだ、と思い込むことにした。
「此処に居たんだ! 探したよ!」
どうにか住処にしている洞窟へとたどり着き、漸く一息ついていた山姥は、入り口に現れたシロの姿を見て、この世の終わりと言わんばかりの絶望の表情を見せる。
「これ! お魚! いっぱい食べてね!」
シロはそう言って、十匹ほどの川魚が通してある笹を見せると、洞窟の入り口にそっと置いた。
そして山姥が何かを言う暇も与えない。
「じゃあね! ババア!」
シロは用は済んだと満足した顔で、来た時と同様に、去る時も突風のように立ち去った。
後に残された山姥は、ただ呆然と魚の束を見つめるのであった。
―― 山姥 ――
「ババア! 元気?」
――ああ、また来た。
「今日もお魚持って来たよ!」
この変な白い人間の子供(の姿をした何か)は、出会ったあの日から毎日やって来ては魚を置いて行く。
住処がバレてしまったため、別の場所に移動したのだが、何故かまた見つかってしまった。
もう一度移動したが、これも直ぐに見つかったため、何処へ行っても同じなら最初の洞窟でいいという結論に達した。
そしてこのランとかいう奴は、毎日洞窟に魚を持って遊びに来ている。
甚だ迷惑だ。
とはいえ戦っても勝てないし、威嚇にも怯まない。
結果、無視することにした。
だが、このランは、無視していても構うことなく一方的に干渉して来る。
そしてこちらが会話出来ないにも関わらず、一方的に喋りかけてくるのである。
今日も押し付けられた魚を食べていると、興味深く見つめてくる。
食べ辛いこと、この上ない。
「ねえ! ババアは何処から来たの?」
どうでもいい質問にフンと鼻を鳴らす。
妖が何処から来るのかなんて知る訳が無い。
『違う』
「ババアのお名前は何ていうの?」
(そんなものはない)
『違う』
「ババアはどうしてババアなの?」
(意味がわからない)
『違う』
「ババア? どうかしたの?」
ランに語りかけられる度に心がざわつく。
己を否定する声が心に木霊する。
どうしたというのだ。
このようなことは初めてだ。
わからない……わからない……わからない。
自分が何に戸惑っているのかが――わからない。
(……帰ってくれ)
ランを追い払うように手を振る。
「わかった! ババアまたねー!」
(…………)
『違う』
ランが去った後も内なる声が心の奥に響き続ける。
誰かの記憶 知らない場所。
(あの人間の子供に関わってから、まるで頭に何かが入り込んだようだ)
『それは本当の記憶』
(違う。自分はただの妖だ)
「何処から来たの?」
あれはこの世で最も華やかな場所。
都の皇城……「私」は後宮にいた。
(違う。自分はただの妖だ)
「お名前は何ていうの?」
私は皇帝陛下の側妃の一人。
玉麗。それが私の名前だ。
(違う。妖に名前等無い!)
「どうしてババアなの?」
あの日、私は罠に陥れられた。
皇帝陛下の寵愛を受けていた私は、他の側妃から恨まれていた。
(やめろ!)
悪意に晒されるのは後宮では日常茶飯事だ。
だが、私は本当の悪意には気付くことが出来なかった。
(違う。これは己の記憶ではない……)
「玉麗様、ご一緒にお茶でも如何かしら?」
そしてあの日から、私は全てを失った。