第三部 第十一章 レバノンへの誘い、第十二章 対決テロリスト
伝言が何かの罠とは考え辛かったが、行動を一部始終観察してテストを行っている可能性がある。
それが何かはわからないが、島のことを調べて連絡してきたのだから用事があるのだろう。
ホテル・リッツには一八〇〇つまりは午後六時に早めに到着し、周囲を探り退路の確認をしてからラウンジへと向かった。
出入り口が見渡せる場所で、背後が壁の席を選んでビールを注文し客を観察する。
フォン=ハウプトマン。由香にコンタクトするためにフランスへ向かう途中に列車で話し掛けられた、完全に行動を察知しての接触だった。
今日のことでもそうだが情報が流出しているのは間違いない。
――一体誰が何の目的で?
フランス行きの列車、フラットの連絡先、除隊の日時それらを知っていたのは第8中隊の将校や担当下士官しかいない。
では目的はと聞かれたらそれはフォン=ハウプトマン退役少佐にあってみなくてはわからない。
時計の針が一九〇〇を指した瞬間にラウンジに見覚えがある男がやってきた。
ドイツ人それも将校は時間の少し前に約束場所付近に行き、数分待ってから時間丁度に現れる。
これがイギリス人ならば少しだけ遅れて現れ、日本人なら少し早まり、イタリア人なら二時間遅れ、アメリカ人なら気が向けばやってくる。
退役少佐が姿に気付いて近付いてきたため起立して敬礼する。
「伝言をいただいたので参りました少佐殿」
「よくきてくれた島軍曹、まあかけたまえ」
促されて席につくとやってきたボーイにチップを渡して、テーブルの傍に客を暫く座らせないようにと頼んだ。
前に会った時より何だか精悍に見えるが気のせいなのかどうか島は困惑した。
「私は人員を求めている、それも指導者をだ。単刀直入に聞こう、島軍曹貴官は今後も軍人を続ける気はあるかね?」
軍へのスカウトが目的と聞かされて島は直感した、少佐へ情報を流したのは曹長だ。
あのファッキンマスターサージはどうやら他人の人生を左右させるのが趣味らしい。
「あります」
外人部隊を除隊はしたが軍自体に嫌気がさしたわけではなかった、むしろ適性を感じていた。
「うむ、改めて自己紹介しよう。ヴァルター・フォン=ハウプトマン、レバノン陸軍中佐だ。元はフランス陸軍外人部隊に所属していた」
――現役に復帰したのか! だから精悍に見えたんだな。
脇に抱えた鞄から書類を取り出しテーブルに置く。
「君を陸軍大尉として私の独立特殊大隊に迎えたい。年俸は二十万ドル、部隊任務はレバノン国防軍の強化訓練の実施だ」
あまりに破格な条件に一瞬聞き違いかと思い確認してしまった。
四階級特進とは穏やかではない、身に余る待遇だとその評価の理由を問う。
「過分な評価を戴きありがたく思いますが、正直自分にそこまで価値があるとは思えませんが」
「外人部隊に入隊し、五年で軍曹になった逸材だ。アルジェリアでの任務を始めとし、エリトリア、チャド、コートジボワールの実戦経験は昨今では珍しいキャリアに他ならない。日本人で無宗教なところもこの際重要なポイントだ、レバノンは宗教が行動を阻害する。無宗教には支援が少ないが妨害を受けないのは極めて高いアドバンテージになる」
確かに日本人は信仰心に薄いと言われ自覚もしている。
今更ながら外人部隊がいかに厳しい集団だったかを説明され、正直そんなものかと納得するのには時間が掛かった。
「中佐殿のお考えに納得しましたので、この話を受けさせていただきます」
書類はフランス語で書かれていた、入隊契約書である。
促されて空白にサインをし、中佐も隣にサインをする。
「結構だ。今から貴官はレバノン陸軍島大尉となった。何か質問はあるかね」
それは儀礼的な問い掛けであったが、思い付いたことを一つ質問した。
「コルシカの外人部隊にロマノフスキー上等兵というのが居ます、彼を私の副官として採用は可能でしょうか? 彼は元ウズベキスタン軍の少尉という経歴の持ち主です」
「大尉が望むのならば手続きをしよう。優秀な人材は何人でも歓迎だよ」
意外なおまけが釣れたとばかりに表情に笑みがこぼれる。
ロマノフスキーは中尉の階級が約束され、二人の着任は三カ月以内にベイルートと決められた。
中佐署名の身分証を渡されて、可能ならばアラビア語を話せるようにしたほうがよいと助言を受ける。
レバノンではアラビア語の他にフランス語と英語が通じるので理解出来ずとも勤務は問題ないらしい、しかし能力を試されているのがわかったため、これから三カ月で集中的に勉強すると誓った。
それから直ぐにロマノフスキーに連絡をつけ話を持ち掛けると、期待していた通りに「ダー」と応えた。
三年契約の途中であったが次の行き先が"元外人部隊の上官"ハウプトマンであるために曹長が大尉に話を通し、同じく元上官との関係であった大尉も除隊を受理した。
何だかんだと言ってもコネとは世界共通で強力なものである。
パリ駅の広場でロマノフスキーを出迎えた島は、彼を見付けて右手を差し出した。
「断られたらどうしようかと思ったよ」
「自分には断る理由がありませんから。何より将校待遇を提示されたら魅力を感じないわけがありませんよ」
ガッチリと握手した二人はタクシーを拾い中心部へと入った。
二人の会話は専らフランス語であるが、雑談をするときには意識的に島はドイツ語、ロマノフスキーはロシア語を織り交ぜるようにしていた。
昼間から開いているバーで契約書にサインをしてもらう。
「改めてよろしく頼むよ中尉」
「何だか照れくさいですね。けれど向こうでは私達の前軍待遇を知らないでしょうから毅然とせねば」
レバノンではアラビア語が必要になる、そのため短期間で可能な限り詰め込むために、アラビア語が出来る者を専属で雇い入れ共に暮らして覚えようと話をまとめた、期間は三カ月後の着任ぎりぎりまでだ。
「だが女性はお断りだな、変な言葉を覚えちまったら大変だ!」
確かに、と二人で杯を傾けながら笑い、将校は武装全てを自前で用意する必要があるのを思い出し、レバノン陸軍で手に入る弾薬の種類などを調べることにした。
フランス国防省の出先機関である大陸軍人調査研究所は誰でも利用することが出来る。
各国軍の制式装備の一覧写真や挿し絵入りで詳しく説明されている。
当然のようにフランス軍のものは無いし、重要な部分は身分証の提示が求められた。
最近の武装は八割がアメリカ製品なのがわかった、残りはイギリスやフランスであり、古いものはソ連の遺産すら現役とのことである。
敵対しているイスラエル軍もアメリカ製品のため、死の商人とアメリカが呼ばれているのがよく理解できた。
「これじゃあ敵にやられたのか味方にやられたのかわかりませんね」
中尉が苦虫を噛んだかのような表情を浮かべる。
東西対立の時には発砲音で敵味方が区別出来たのだが。
「国内でも対立が激しいらしいから、本当にそうなったら参るな」
その他の兵器や装甲車、航空機に至るまでアメリカ色が濃い。
戦闘機を持たずにヘリのみだという特徴もあったが、単に戦闘機を維持管理出来ず費用の問題からだと窺えた。
レバノン、シリア、イスラエルのページをコピーするように依頼し、外人部隊の除隊証明書を提示する。
すんなりと資料を手にして「やはりアラビア語がだな」と呟く。
「そればかりはボタン一つでとはいきませんからね」
他人事ではないだけに彼の言葉尻には先の苦労がにじみ出るようだった。
郷に入れば郷に従え。この言葉が示すように方言を含むだろうアラビア語の教師に雇ったのはレバノン人留学生だった。
言葉だけでなく現地の風習知識を少しでも得るための選択でもある。
パリ・ソルボンヌ大学に留学していたマフート・スレイマンと名乗る二十代前半の若者はベイルート東部の山岳出身とまさにうってつけである。
イスラム教徒ではなくキリスト教徒であったのも幸いした。
「私達と一緒の時には容赦なくアラビア語だけで接してきて欲しい」
そう約束事をすると大学の講義がない間はずっと雨あられと生のアラビア語を聞くことができた。
ある程度の日数を過ぎると当然日常の簡単な会話が出来るようになり、軍事関連の単語を混ぜるようリクエストしてみた。
何故と疑問を発することなく彼は教師の仕事を続けてくれた。
爽やかな青年で男から見ても魅力的な人物であるのが感じられる、カリスマ性があると言うべきだろうか。
島の果たした任務で差し支えないものを話したりしてゆくと、当時の判断に賛意を述べてくれたりした。
「素晴らしい、救出を待つ仲間の為チャドに、それも一人と欠けることなく脱出させた! 島さん、あなたは真の戦士ですね」
「ショクラン」
覚えたばかりのアラビア語でお礼を言う。
注意深く世界ニュースを調べていない限りはそれがフランス外人部隊のものとは結び付けまい。
何度も説明をやり直したために余計に伝わり辛かっただろうが、いやな顔をせずに間違いを指摘し正してくれる。
同じ様にロマノフスキーがエリトリアで戦車と戦ったことを語る。
「あなた方は戦うために産まれてきたような人達ですね、ムジャヒディンいえアスカリです」
ムジャヒディンはイスラム教徒の聖戦に参加する戦士のことだが、宗教が違うためにアスカリと言い換えた、こちらは兵士や戦士の意味らしい。
レバノンではイスラム教徒を持ち上げて応対しておけばよく、キリスト教徒は穏健派が多いようだ。
だがそれも相手次第で、キリスト教徒もヒズボラに対しては厳しい態度をとる。
「出来るだけ国内の状況を教えてもらいたい」
現地人のざっくばらんな感想を求めてみる。
スレイマンがキリスト教徒なのを差し引いて聞かねばなるまい。
「シーア派のヒズボラがイスラエルと諍いを起こすために南レバノンが無政府状態の一歩手前です。マロン派はヒズボラを国内から追放したいけれどイスラム教徒の数が多くて難航しています。むしろマロン派は自国を攻撃するイスラエルと手を組みヒズボラを倒そうと試みているようにすら見えます。スンニ派はヒズボラと話し合える唯一の勢力ですが、中道的な為イスラエルやシリアだけでなく、マロン派、シーア派とも距離を置いているためなかなかまとまりません」
出来るだけ単純化してもらったのだがそれでも複雑な状況である。
宗教がかかわると妥協が出来ない部分が混ざるために始末が悪い。
反対の為の反対は少ないのだが、是か非かのみの答えばかりになるのが混乱を助長している。
これにパレスチナ人を含めた民族問題を追加し、シリアによる東西冷戦の影響を追加する必要があるのがレバノンだと言う。
「仮に自分がレバノン人だとしても解決出来る自信は持てません」
肩をすくめて溜め息をつく。つられて島も二度、三度頷く。
「こればかりは全知全能なるアッラーも解決出来そうにありませんからね」
純粋に任務だけに集中するのが難しそうなのが理解できた。
着任までにアラビア語だけでなく、政治と宗教の勉強もしなければならなそうな空気を感じる二人であった。
ベイルート空港。赴任猶予期間を二日残して二人はレバノン首都・ベイルートの空港へと降り立った。
十字軍が興る前より栄えていた港湾の大都市である。
空港アナウンスは世界共通なのだろうか、アラビア語に次いで英語があり、最後にフランス語で繰り返された。
彫りが深く茶が濃い人間が多くアラブ人国家なのがよくわかる。
入国審査で目的を聞かれると「仕事だ」とフランス語で答える。
詳しく問い質してきたため中佐が発行した証明書を提示すると渋い顔で通過を許可した。
「傭兵なんてどこでも良い顔はされないさ」
ロマノフスキーへ自嘲気味に語りかける。
街並みは発展的であるのだがあちこちに瓦礫がつまれている。
「何故あんなに瓦礫が?」
運転手にフランス語で問い掛ける。
「ありゃイスラエルの空爆のせいでして。酷いもんで全く容赦ない」
首都を続けて空爆していたとは聞いてはいたが、かなりの被害があるようだ。
そりゃそうだとばかりに搭乗時に預けた荷物を回収する。
タクシーを捕まえるとレバノン統合司令部LAFのビルまでと告げ
「イスラエルを攻撃してるのはヒズボラなんだろう、なら首都空爆ではなく直接反撃して欲しいものだな」
運転手の様子を見ながら話を続けてみる。
「お客さんはキリスト教徒かい? 争いなんてしないで平和になってくれたらそれでいいんだがね」
どうやらスンニ派のイスラム教徒だったらしい。
LAFビルに横付けする、高層ビルを見慣れた二人には地方の市庁舎より小さな建物の迫力の無さに、国力の低さを感じた。
入り口には歩哨がおり外国人二人組が入館しようとするのを差し止める。
「この先は許可なくば入れない、観光なら西側の地区だ」
英語で呼び掛けてくる、手にしているのはM16A1、アメリカ製の歩兵ライフルだ。
「レバノン第6特殊独立大隊顧問官島大尉だ、勤務ご苦労」
証明書を提示して歩哨を下がらせる。
東洋人に続くスラヴ人も顧問官の証明書を持った中尉だったので、歩哨らは不思議な顔をして通行を許可した。
受付でハウプトマン中佐の執務室を聞いて進んだ。
擦れ違う者が珍しそうな視線を向けてくる。
角を曲がり長い廊下を行くと執務室の扉が一カ所だけ開け放たれている。
外人部隊の慣例を踏襲しているのがわかった。
足音を響かせながら気付かれるように近付き声をかけて入室する。
「申告します。島大尉、以下一名、只今着任致しました」
「ご苦労、楽にしたまえ。貴官がロマノフスキー中尉だな。フォン=ハウプトマン中佐だ、よろしく頼む」
整理整頓されて清潔さが漂う部屋は中佐の性格を顕している。
他に副官らしき姿が見えない、隣の部屋にでもいるのだろうか。
「遠路はるばる疲れているだろうが、陸軍司令官に面会してもらう。副官が時間を貰えるように出向いているところだ」
「お気遣いありがとうございます。我等はこれからすぐに訓練に出ても問題ありません」
事実移動で体が鈍っていてランニングでもしようかと考えた程であ
る。
そこへ若い中尉が報告のために戻ってきた。
「紹介しよう、副官のハラウィ中尉だ。こちらが島大尉日本人、そちらはロマノフスキー中尉ウズベク人だ」
若い中尉が背筋を伸ばして敬礼し、改めて名乗る。
島も答礼しロマノフスキーが続く。
「まずは着任の報告に行こう。この部隊の直属上級司令部のベイルート軍管区司令官だ、未来の軍務大臣と目されている人物だよ」
そう説明すると何故か中尉が照れ臭そうにした。
更衣室を示されて軍服を支給される、これを着ると心が自然と引き締まる。
上級者の執務室は別棟にあり、一旦渡り廊下を巡ってから階段を登る。
エレベーターは来客用だよと中佐に注意を受ける。
中尉が扉を開けて中へ入ると、壁に十字架がかけられた部屋に壮年の中将らしき人物と、副官の大尉が待っていた。
促されてフランス語で着任を告げる。
「島大尉です。レバノンの地に平和が訪れるよう、軍に忠誠を誓います」
「二十七歳で大尉か、現場組は若い方がよい、期待している」
簡単なやり取りを終えて退室する、その時タイトなスーツを着た女性が擦れ違う。
「あらお兄様」
アラビア語でそう言ったのが聞こえた、中尉が軽く手を振っていたので兄妹なのだろう。
――全員マロン派ということか。
「さて大尉、部隊の者との顔合わせは明日だ。今夜は私の招待でコンチネンタルホテルで食事をしようじゃないか」
「はい中佐、ありがとうございます」
「では中尉、大尉を官舎に案内したまえ」
中佐の配慮で一度落ち着けることになった。
丁寧にフランス語で「ついてきて下さい大尉殿」と二人を先導しビルを出る。
道路脇にハンヴィーと呼ばれるアメリカ製のジープが止められており、アラブ人の兵が待っていた。
と言っても個別の名称ではなく、多機能車両の総称がハンヴィーとして知られている。
それに乗り込み官舎へと向かう、ここでも瓦礫が沢山積まれていて傷痕の大きさがわかる。
「中尉、さっきビルですれ違ったのは君の妹さんかい?
「はい。大尉はアラビア語を喋られるんですね」
指で少しだけと仕草をして苦笑いする。
過大に評価されるよりはあまり理解していないと思われた方が安全だ。
「レバノンでは女性も軍務を?」
「キリスト教徒の女性は働きますが、軍人は居ません。あれは秘書として勤めているんですよ」
イスラム教徒の女性は服装を義務づけられているし、何より男性社会に関わってはならない戒律がある。
「それにしたって中将の秘書とは素晴らしいコネを持っていることになる」
「ええ、まあ……親子ですから」
少し言い辛そうに関係を明らかにする。
――なるほどな中佐は良い駒を握ったわけだ。
車で移動する必要も無いくらいに近い場所で兵が着いたことを知らせてくる。
官舎でも宗教各派ごとにまとめて設置されているようだが、ここにも十字架がかけられている。
「マロン派ではなく少数派のアルメニア正教です」
多数派閥の管轄する宿舎に拠ればやりづらかろうことを見込んでのことだろうが、こうまで宗教が徹底して生活にも根付いているのは大変なものだ。
「ありがとう中尉、後は自分達で出来るよ」
「はっ、それでは後刻お迎えに上がります」
人の好い青年だ軍人よりは会社勤めのほうが格段似合っている。
宿舎の管理人の女性は聞いたこともない宗派の信者で、どうやらここならその他大勢との立場で気楽に寝起き出来そうだと胸をなで下ろした。
最初が肝心だとばかりに部屋の中に盗聴器が仕掛けられていないかを調べる。
共産圏ならば大抵は複数見つかるのだが、ここでは一つとして発見できなかった。
これから長く使うわけだから安心出来るようにしておきたい。
使い古した十ドル札を束にして胸ポケットに入れてある、アメリカの威光が効かない国は地球上に稀にしか存在していない。
レバノンではレバノンポンドが通貨であるのだが、それ以外の通貨でも充分通用するそうだ。
国民の平均収入を日本円にすると四十万円程度になるのだが、税金などを控除した所得額は半分より少し残る位であろう。
そしてこの管理人のような雇われならばさらにその半分、つまり百ドルが月収になる。
「これからよろしく頼みますマダム」
そうフランス語で話かけてすっと紙幣三枚を握らせる。
何かと思い確かめた夫人は満面の笑みで「こちらこそムッシュ!」と応える。
ロマノフスキーも同じように挨拶すると、クリスマスと新年が同時にきたような気持ちになった夫人が、何でもお申し付け下さいと力む。
「私達の部屋は小間使いを入れず、マダムが一切を担当していただきたい。そうして貰えたらきっとお礼が出来るでしょう」
そんなことならばとばかりに承知し「神に誓って!」と言ってから、「お二人は何教徒で?」と問われる。
「実は無宗教でして」
「まあ、ではレバノンの大地に誓いわたくしがお世話させていただきます」
それならばとありがたくお願いして官舎から足を踏み出した。
「地獄の沙汰も金次第ですね大尉」
「ああ、だが変な信念なんかよりよっぽどマシだと思うよ」
この先散々悩むだろうことを考えて、中尉がごもっとも相槌をうつ。
首都だというのに路上では物乞いをしたり、隙あらば荷物を盗もうとしているような目つきの子供がちらほらと見られる。
宗教に拠る都市であってもこれは解消されないものなのだろうか。
逆にこのような状況だからこそ宗教に傾倒するのか、俄かに理解しづらい現実が目の前にある。
軍服は目立つ。没個性の象徴ではあるのだが、異国人ゆえにアンバランスさがある。
この姿のお陰で特段面倒に巻き込まれていないとの恩恵がないわけではない、だからと言って存在を誇示するようなのもどうかと思う。
「いずれ俺達のことは知れ渡る、逃げ隠れしても仕方ないと割り切ろう」
この視線がこれからどんな感情を込められてゆくか、今はまだ本人にもわかりはしなかった。
夜になり中尉がハンヴィーで迎えにきてくれた。
見知らぬ街を夜間に運転しても良いことは少ないだろう。
「オーダーが間に合わなかったからこの軍服のままで失礼するよ」
礼装ではないが正装ではあるため問題はないが断りを入れておく。
「準戦時なのでそのまま大統領に謁見も出来ますよ」
言われてみたらそうかも知れない、戦時であれば敬礼も挨拶も省いてすぐに本題を話しても非礼にあたらない。
昔の言い方ならば、不拝不礼と表すことが出来る。
準戦時、現在は停戦中であり国際法に照らし合わせれば戦時ではないが、いつ停戦が破られるかわからないため警戒して平時宣言を控えているわけだ。
世界各地にあるコンチネンタルホテル。最低でも二つ星と言われるように高級指向のグループである。
当然そこで出される食事も厳選されており、値段も正比例している。
現地価格としては冗談ではない値段でも、外国人にとっては貨幣価値が一割程度のために何でも格安との感覚で利用出来た。
中尉の案内で上階のレストランへと足を運ぶ。
テーブルには既に中佐が席についており、その隣には初めての人物が座っていた。
年の頃は中佐よりやや上だろうか、姿勢や雰囲気から軍人のように見受けられる。
いくら招待を受けたからと目下が後からきてしまい申し訳ないと謝罪すると、中佐は友人と話がしたくて早めにきていただけだ気にするなと言い同席者を紹介する。
「島大尉とロマノフスキー中尉だ。こちらレバノン駐在武官のブリアン中佐だ」
「初めまして、フォン=ハウプトマン中佐の部下で島大尉です。発音し辛いようでシーマと呼ばれていますが」
「フランスの駐在武官、ブリアン空軍中佐だ。君の噂は聞いているよ、チャドで不時着機の乗員を救出してくれたそうじゃないか。私からも礼を言わせて貰おう」
和やかな空気で会食が始められた、ブリアン中佐はレバノンに赴任してもうすぐで三年になるという。
任期までそんなに日数が残されてはいないそうだが、可能な限り助力すると約束してくれた。
「ここに来るまでにあちこちで瓦礫を見たのですが、レバノン空軍は要撃していないのでしょうか?」
少なからず戦闘機や局地要撃機が配備されてはいるのだろうが、やはり首都が空爆されるのはいただけない。
「したくても出来ない、それならばまだ良い方だ。レバノンには戦闘機が一機もないんだよ大尉、つまり空戦は視野に無い」
空軍中佐としては他国のことでも面白くはないだろう。
戦闘機が無いということは制空権を諦める、空挺や空爆、空輸など全て未然に防ぐことが出来なく三次元の戦略が薄っぺらい運用になってしまう。
「友好国や軍事国から供与の話も少なからずあったと思うのですが?」
「あったようだよ、ソ連からMigの無償供与などがね。しかし戦闘機ではなくヘリを運用したいと考えていたみたいでそれらは拒否したそうだ」
タダより高いものはないとは言ったもので、無償供与を受けたら装備のメンテナンスや教導で人員派遣が始まり次々と侵食し始める。
こうなると言いなりになるしか無くなり、徐々に共産化が……とのシナリオだ。
それでアメリカからUHー1イロコイやSA342ガゼルなど、多目的ヘリを購入する運びとしたようである。
アメリカとしては兵器を買ってくれるならば細かくは問わず話を進める、軍需産業が国を支えているからに他ならない。
「アメリカはイスラエルにも兵器を売っている。イスラエルは何とレバノンと交戦するのにも関わらず兵器売る、無論表立ってではなく第三勢力のブローカーを経由してだがね」
ブリアン中佐が指摘する内容をハウプトマン中佐が裏付ける。
「陸軍の装備にもイスラエル製が散見されるからな、片手で握手しながら片手で殴り合いしているようなものだ」
どこにでも抜け道はあるようで、名目も兵器の研究などとして予算を獲ていたりする。
コース料理が運ばれてくる、どれもこれも満足いく出来映えでパリで食べたなら、ゆうにビールケースが一グロスは手にはいるだろう金額を請求される。
それなのに五人で十九万レバノンポンド、一人当たり日本円で二千円程度でしかないと聞かされて驚いた。
「ベイルートの治安が良くなれば、観光客が外貨を落としてゆきます。その為替レートを考えたらレバノンの為に何としても安全を確保せねばなりませんね」
資本の世の中である、正義の大多数はお金で買えるとの世界共通認識を改めて感じた。
近くに誰もいないのを確かめて会話を続ける。
「イスラエルを打倒するのは現実的に無理だ、あちらにはアメリカがついているからな。だからヒズボラをレバノンから追放するのが解決への道だよ大尉」
だが法によりシーア派の議席数が二十議席と規定され、首相はシーア派から選出される慣例が続いている。
法改正をするならばキリスト教議席数が過半なので変えることは可能だ、しかしイスラム教徒の人口がより多く、武力で抵抗されたら国を割っての戦いになりかねない。
そうなれば南レバノンをヒズボラが占領し、そこにイスラエルがまた侵攻してくるのは目に見えている。
マロン派としてはシーア派のヒズボラを上回る戦闘部隊を保持し、話し合いで落としどころを決められる可能性があるスンニ派に第二政党になってもらいたいと考えているようだ。
「明日紹介するが、大隊にはマロン派シーア派スンニ派の中隊長が一人ずつ配属されている。大尉君ならどうする?」
――そこで俺の出番と言うわけか!
説明された内容を吟味して中佐欲している答えを導き出そうとする。
そして更にその先を抑えねば信頼感など出てはこないだろう。
「方法論を無視つもりはありませんが、レバノンの独立性を保ちながらイスラエルとヒズボラを寄せ付けず、シリアの介入を避けるにはアメリカしかないでしょう」
即ち絶対的な力を背景に安定を図る、他力本願と呼ばれてしまいそうな発言である。
「アメリカが正義の心を発揮するためにはかなりの代償が必要だと思うが」
「アメリカが支持するイスラエルとの講和。レバノン内のパレスチナ人の追放。テロ支援国家シリアとの対決。そして親アメリカ政権の発足、その下地としてヒズボラの勢力減少とキリスト教の戦力強化でしょう」
言うは易しだ。誰にそんなことが出来るのだろうか。
「大尉の考えが私と軸を同じくしているようで嬉しい限りだ」
「一つ確認があります。大隊の訓練兵の人数を増やすのは可能でしょうか、それも外国人を」
意図をはかりかねた中佐が政治的な理由や法規的な規約を副官に確認させる。
「はい、訓練査証をベイルート軍管区司令官の名で発行するのが可能のようです。もっとも予算は大隊からとのことですが」
大隊の契約書となるのだろうか、特殊規約による取り決めを調べて回答する。
「レバノン軍の軍事予算を概算し、独立大隊に割り当てられた予算は推計ですが五十万ドルあたりではないでしょうか?」
大隊を六百人前後と見込み、陸軍所属の将兵の給与は除き、運営資金としての予算を推察してみる。
「当たらずとも遠からずだな。大尉と中尉の契約金は補正してもらっているからな」
言われて自分に一番予算を割かれているのを思い出した。
ロマノフスキーにも十万ドルは使っているだろう。
「訓練との名目で軍事体験ツアーを大隊で主催し、主に日本からの客を見込んではいかがでしょうか」
ハワイなどの射撃場でのプランもあったりするが、使える火器や場所が厳しく制限されているために、観光ついでにとの色合いが濃い。
その点レバノンならば種類も豊富で割安なツアーが開催出来る、その上で査証を発行出来るならば利用もしやすいだろう。
「そんなものに人が集まるのかね。それに一人当たり五百ドル位では?」
銃が身近にある国で育ち、その環境のまま今に至る者達には感覚がわからないでいるようだ。
「一般的な観光客でも一人三千ドルは余裕でしょう。警備会社との団体契約ならば訓練つきで一万ドルでも自信があります。旅行会社にマージンを取らせるならば煩わしい事務も代行させられますし」
「警備会社の訓練か。十人単位で月に一組だとしても百二十万ドルか!」
「観光客ならば三日に一組で週に二回、十人できたならば双方で年間四百万ドルは見込めますよ」
あまりの額の大きさに暫し沈黙してしまう。
無理なことではないが、客がくるのかどうかである。
「失敗しても別段損はありませんよ。手続きの労力くらいでしょうか」
テーブルの上を指でトントントンと叩き考える。
――あの仕草は……
「中尉、明日司令官と話して許可が得られるか確認したまえ」
実行の決断を下したようだ。
もし成功したならば、大隊には予算面でとてつもない融通が可能になる。
「中佐、ことの要は司令官の承認次第です。この発案は中尉がしたものとして進めてはいかがでしょうか」
外国人が勝手にあれこれ始めるのを良く思わないだろう、しかし自分の息子の功績になるならば、成功のために有形無形の援助をしてくることすら考えられる。
「勝負所を抑えているようだな大尉は。よかろう、起草は中尉の名で行え、私が計画案に署名する。だが実行は大尉だ」
皆が頷いて一つの計画案がまとまる。
ゴーサインが出たならば一度日本へ足を運ぶ必要が出てくるだろう。
「ヒズボラとの対決については明日の顔合わせをしてから考えましょう」
何ヶ月と訓練を重ねてゆく間に出せたらよい答えを急がない。
今日や明日に問題が解決するとは誰も思ってはいない。
「結構だ。レバノンの未来を祝福して、バランタインの三十年物を入れよう」
「赤字になったと言われないよう努力します」
軽い冗談で場を和ませ、ソムリエールがテーブルで封を切ると、どうしてなかなか芳醇な薫りがあたりを支配した。
ヤセル駐屯地。ベイルートの東部十数キロに中規模の兵営が設置されている。
支援部隊や予備補充、特殊大隊などの司令官直轄軍の駐屯地である。
その東数カ所に堡塁が設けられており、シリアからの侵略がある時の防衛ラインを担当する拠点としても組み込まれていた。
第6特殊独立大隊の兵舎もここに設置されており、普段は小隊毎に訓練が行われている。
通常は宗派をまとめての部隊が運用されるが、この大隊は教官育成の為に集められたので各派が混在している。
生活スタイルが違う団体が同じところに集まること自体に無理がある。
生じた不都合は時間と労力の浪費により調整された。
軍とは機能的でなければならない。
戦場での無駄は命と交換になるからである
広場に三つの中隊が整列し、それに向かい合う形で中佐と島ら四人が立つ。
「中佐殿に敬礼!」
副官の声が響くと統一された動きで敬意を表した、それに中佐が応える。
――これだけ見たら悪くないぞ。
「諸君にこの二名を紹介する。軍事顧問官として部隊に連なることになった島大尉とロマノフスキー中尉だ。階級が同じものは先任であっても顧問官の機関的優位をもって上官とする」
中佐が部隊での立場を明確に宣言する、独立大隊に佐官は中佐しか存在しない。つまり島大尉は大隊のナンバーツーに据えられたことを意味する。
「島大尉だ。中佐殿はこの大隊を国防軍全体の指導的立場に宛てるための訓練を自分に命じられた。レバノンの為にだ。それ以外の理由を俺は認めん、方針に異議がある奴は立ち去って構わん」
敢えてフランス語で所信演説を行う。
アラビア語にはハラウィ中尉が翻訳する。
気に入らないと当然態度にあらわれる、フランス語をほぼ全員理解しているのもわかった。
何せまゆをひそめるのが早かった、無反応な兵は五人に一人いるかいないか。
ざわつきはしたがすぐに部隊の軍曹らに睨まれて無言になる。
下士官の立場はレバノンでも変わらない。
予定していた通りに中尉が「質問があればどうぞ」と中隊長である大尉らに代表させる。
「我等には我等の戒律がある。そこは認めてもらいたい」
シーア派の大尉がわざとアラビア語で質問する。
島はそれを聞いても全くの無反応で中尉が翻訳すのるのを待つ。
その間に皆の表情を見たり答えを考えたりする。
「軍人は軍に忠誠を誓うものだ。俺は言ったはずだ、レバノンの為以外の理由は認めん、どうしても譲れないことがあるならば立ち去れと」
ハラウィ中尉が渋々翻訳する、イスラム教徒の顔がみるみる険しくなってゆく。
スンニ派の大尉が発言を求める。
「軍務規定にイスラム教の戒律を尊重するとあります。納得出来る部分があれば受け入れて貰えますか?」
――スンニ派を談合の軸に据えるために受け入れるべきだな!
これを拒否したら本当に立ち去り兼ねない目つきのものがちらほらと混ざっている。
「もちろんだ大尉、訓練中以外の生活に干渉しないし、目的ははっきりと貴官らへの軍事技術の提供と断言出来る。純粋に強くなってもらうために他ならない」
胸を張って即答する、それによって反感が少し薄れた。
面従腹背の輩が多い国よりはまだやりやすいと言える。
返答に反論がないため了承したと見なす、中佐に視線を流して軽く頷き主導権を渡す。
「以後訓練指導は島大尉に一任する。以上、解散」
兵が軍曹らに怒鳴られて去ってゆく、やはりその動き自体は決して悪いものではなかった。
その姿を見た感想を述べる。
「悪くない連中です。訓練次第では良い結果が望めるでしょう。アラブ人は戦いの素質がある」
「大尉にそう言って貰えて安心だよ。私は陸軍司令部に行ってくる、反政府武装組織への対応の意見を求められていてな」
島とロマノフスキーは中佐を見送り、駐屯地の司令部へと向かった。
独立大隊司令部付の将校が出迎えてくれる。
命令は全て彼らを通して発せられるためによくよく人物を知っておかねばならない。
司令デスクに座り用意されている人物評価リストに目を通す。
中佐がまとめた内容なので大枠に疑いは持たないが、詳細は自身で確かめ補強してゆく。
特徴はやはり宗派ごとに中隊がまとめられていることで、様々な部署が三分割されている。
これが統合されるだけでも遥かに効率がよくなるのがわかる。
「混ぜるな危険、か」
「アフリカンの部族編成よりはまだ安心でしょう、やつら少数派を虐殺しますからね」
アフリカはまだまだ部族社会で、多数派と少数派になれば少数派を迫害し、少数派ばかりだとまとまらず、圧倒的多数派があると少数派を殺してしまう。
このため軍の運用が極めて難しい地域として知られている。
丹念に資料を頭に叩き込み最後の一枚、すると様相が一転して全く関係のない南レバノン軍管区のものらしい紙が混ざっていた。
読むべきか迷ったが中佐が意図して残した可能性を考え読み始めた。
――これは南レバノン軍の資料だ!
なにが違うか、それは過去に南レバノン軍管区に配属された少佐が軍を率いて独立、南レバノン共和国を興した時のものである。
南レバノンはイスラエルの侵略を受けていたため、少佐はバラバラになった軍を統合し、国家として独立を果たしてしまった人物である。
少佐はキリスト教徒であったが軍にはイスラム教徒も多数混ざっていた。
それなのにまとめあげることが出来たのはイスラエルが裏にいたからである。
イスラエルの傀儡として南レバノン共和国を作り上げ、統率がとれたところでレバノンへと統合してしまった曲者で、イスラエルを利用するだけしてこの世を去ったのだ。
――これが置いてあった意味を正しく理解する必要があるな!
「中尉もこれに目を通した方が良い、それとだ最後は破棄しておいてくれ」
資料を手渡して謎かけのような言い回しに怪訝な表情を見せる。
一瞥して最後だけが異質な内容と気付き頷く。
「こうまで複雑だと夢か現実かの境界線すら迷ってしまいそうですね」
訓練が目的とはよくぞ言ったものである。
だがより一層の要求に対して、二人は信頼の証と解釈することにした。
イスラエル北方司令部。ユダヤ人国家として中東に確固たる地位を築いたのは最近のことである。
そこにたどり着くまでに苦難の連続があり、老人層としては現状に大した不満はない。
しかし壮年より若いものにとってはこれからだとの気持ちが強い。
バックボーンの最たるものはアメリカ移民のユダヤ人で、彼らの血がにじむような努力と才覚で蓄えられた資金がアメリカ議会に流れ込んでいる。
これにより超大国の強力な支援が直接的、また世論を含めた間接的な形でフィードバックしている。
その割合は驚くべきもので、イスラエルへの支援だけで他の中小国家の軍事予算を越えてしまう額が使われている。
その国でパレスチナのエルサレム聖地問題と同じだけ注目されているのがレバノン紛争である。
昨今何十年と不安定な状態を続けており、国境付近では頻繁に戦闘が繰り返されていた。
レバノンとの国境は北部方面軍が管轄し、地区の直接的トップはバラケ大佐である。
彼は金の力で地位を手に入れたようなもので、生粋の軍人とは言い難い。
そこへ一人の男が訪れる、ネタニヤフ少佐、能力的に芳しくない大佐の代わりに実務を処理している。
「大佐、モサッドからの情報です。レバノン陸軍は三人の軍事顧問を雇用しました。オーストリア人の中佐に、日本人の大尉、ウズベク人の中尉です」
モサッドとはイスラエルの諜報機関で世界で最も優秀と評価されている。
日本でも有名であり、こちらではモサドと表されていた。
「随分とバラバラの地域からではないか。傭兵の類かね」
三カ国共通の組織を考えてみたが特に思い浮かばなかった。
「フランス外人部隊出身のようです。しかも除隊直前の原隊が落下傘連隊です」
「してフランスでの階級は?」
大佐も外人部隊の精強さは聞き及んでいるようだ。
外人部隊の中でも歩兵連隊より落下傘連隊、その中でも第2外人落下傘連隊が一番手強い。
「オーストリア人が少佐、日本人が軍曹、ウズベク人が上等兵でした」
モサッドの凄いところは機密になっているはずの除隊階級を難なく調べ上げたことだ。
特に海外に作戦することが多い外人部隊の機密は堅く守られているのに。
「では事実上はその中佐しか役にたたなそうだな」
大佐が見識の低さを露呈する、少佐は粘り強く説明を続けた。
「外人部隊の伍長は戦時に小隊長を勤められるように鍛えられています。軍曹ならば中隊長に匹敵する猛者とご理解下さい。彼らは年次で昇進してゆく一般的な軍隊とは内容を異にした訓練を積んできています」
事実アフリカ諸国や南米の小国家に軍事顧問として入り込んだ伍長らは、その国の主力軍の顧問官として信頼を得ている。
軍が信頼すのるのは一も二も能力である。
「ふむ、それでその顧問を君はどうするつもりなのだね」
自身の意見があるわけではないため全てこのように少佐に丸投げをしてきた、これからもそうするだろう。
「彼等の政治的動向を把握し、殺害するかどうかの判断をします。よろしいでしょうか大佐」
うーんと暫く考えるふりをして回答を引き伸ばし、さも納得したかのように了承した。
それで充分と少佐は割り切っている。
ネタニヤフ元首相と同じ名を持つ彼には、イスラエルさえ良くなるならば多少の不遇や不適切な人事など小さなことなのだ。
司令室を後にすると大佐の副官であるバルフム大尉とすれ違う。
彼はもの静かな人物で黙々と職務をこなすタイプで表情をあまりあらわさない。
そんな大尉を大佐はあまり好んではいないようだが、何より居なくなれば大佐自身の仕事が処理できなくなるために側に置いている。
有能な歯車と考え少佐は彼に友好的に接している。
それを知ってか知らずか司令部に入る秘密情報を少佐にリークすることがままある。
そのため少佐も大尉の為にアイデアを与えたりと持ちつ持たれつ付き合っている。
大佐が問題地域を解任されないのは比較的納得行く形で物事が収まっているからであり、結果としてこの三人の関係はプラスに作用していると上層部では認識しているようだ。
「大尉、ヒズボラの動きはどうだ」
「相変わらず我が国への攻撃をやめません。中央の統制から離れているのは事実でしょう」
南レバノン軍管区はシーア派の拠点だけに、当然司令官もシーア派で地域にはヒズボラが勢力の根を張っている。
レバノンとしては軍にテロ組織の制止拘束どころか殲滅命令を出しているのだが、司令官は鋭意努力中と返し全く従うつもりはない。
ヒズボラに武器を横流ししたり、訓練場所を提供するなどお手の物である。
「ならばまた南レバノンとベイルートに空爆を加えて代償が高くつくことを教えてやるとしよう」
イスラエルからレバノン政府への圧力は、その度が過ぎて暴力へと移行している。
レバノン政府もやりたくて攻撃をしているのではなく、ヒズボラが勝手にしているのだから始末が悪い。
ここに島らが雇われた要因が見受けられる。
「それですが総司令部よりレバノンを内部分裂させるようにと極秘指令が出ております」
そうか、とだけ答えて立ち話を終えることにした。
次に大佐から呼び出されるときにはこの指令をどのように遂行するかの相談だろう。
――あの軍事顧問らを上手く使えないだろうか?
次なる手のきっかけとして頭の隅にひっかけておくことにした。
◇
季節は秋後半を迎えていた。レバノンではまだまだ肌寒いなどということはなく、一部国土を縦断する山脈でそれらしい風景になってきた程度である。
心配していた派閥問題も、訓練に限っては特に不都合も見られなかった。
しかし連携した作戦を行えるとは全く思えず、小規模な任務内容のみしか演習を行えていない。
個人の資質は睨んだ通りに満足いくレベルを示している。
まだ他人にそれを伝えるまでには至ってはいないが、一年も続けたならば中核で兵を動かせる班長には育つだろう。
型がそれなりについてきた軍事訓練をロマノフスキーに任せ、島はもう一つの仕事の段取りを始めていた。
例のツアー企画である。司令官のハラウィ中将が乗り気で全面的な支援を約束してくれたのは福音である。
事務員それに司令部との調整役になる人物について副官のハラウィ中尉に尋ねたところ、スラヤがその係にあたると返事があった。
つまりはこちらの話は司令官へと遮られることなくしっかり届くパイプを得られたも同然である。
主たる仕事の訓練に目処がついたために日本へ交渉に出掛けることにした。
兵から二名適切な者を選び成果を説明するために同行させることにし、事務方から日本語を喋ることが出来る者を派遣してもらうよう中尉に依頼する。
「日本語を喋る事務員なら、スラヤを連れて行くのではダメなのでしょうか?」
「なにっ、スラヤは日本語を喋るのか!?」
島は心底驚いた。これまでそんな素振りは一度も見せなかったからである。
「ええ父が外国語を何か一つ覚えた方がよいからと。自分はスペイン語を選択しましたが」
――ハラウィ中将中々の食わせ者だな!
「ならば決まりだ、スラヤと兵二名を連れて日本に飛ぶ」
上手く意味が伝わるかどうかの心配をしていたが、スラヤが供になるならば問題ない。
意志の疎通にはやはりいくら長く一緒にいて話を交わしたかに正比例する。
最近島は語学に興味を持ち始めた。
中尉がスペイン語を喋ると聞いたときにそれを理解したいと強く感じた。
「中尉、唐突で悪いが今度私にスペイン語を教えてはくれないだろうか?」
ものを頼む側のため丁寧に伝える。
「大尉の頼みならば喜んで! 言ってもらえたら自分が時間を合わせます」
「いや私が中尉に合わせるべきだろう」
社交辞令ではなく単純にそれがよいと思い申し出てくれたのがわかったのが嬉しい。
「それは違います。大尉が可能な限り自由に行動出来るのがレバノンの為、ひいては自分の為ですから」
そうまで言われたならと、拒む理由もないので了承したのであった。
ベイルートから東京への直行便は無い。そのため一旦タイのバンコクを経由して日本へ向かうことにした。
二人の兵はイスラム教とキリスト教から一人ずつ選んだ。
出国に際しては三枚目の身分証であるレバノン発行の物を使用している、目的が目的のため履歴が信用の一部になるためだ。
スラヤは褐色の肌に焦げ茶色でストレートの髪を流し、黒を基調とした引き締まった印象を与える服装を選んだ。
経費の支払いなども全て彼女が受け持つことになっている。
税関を通るときに島の身分証を怪訝な顔で見つめ英語で目的を質問してきた。
ビジネスだと英語で返答するも納得しないのか、更に詳しく内容を聞いてくる。
「旅行の誘致だよ観光客が減ってきていてね、政府のプランだ」
確かにレバノン政府、首都ベイルートのどこかの役所の印鑑が押してある。
不満があったようだが咎めるべき理由もないために入国を許可された。
日本、それも東京は大都会である。
普段は何ら感情を明確にしないスラヤも目を見開いて息をのむ。
拠点となるホテルは予算の都合から中級以下を最初選ぼうと言われたが、交渉時に甘くみられるためにしっかりとした場所を使うことに変更させた。
チェックインでシングルを二部屋とツインを一部屋にしたのも、少しでも費用を節約しようとの試みである。
移動の疲れを癒すために一日は休養に充てることにした。
随伴の兵らの所作も交渉の一部と認識しての配慮である。
島は関係各所と日時の最終確認を電話で行った。
兵にはホテルから出ないように命令し、必要なものがあればフロントに注文するようにさせた。
部屋の扉をノックする音が聞こえた、スラヤのようだ。
「何かあったのか?」
「少しお話をしたくて。お邪魔かしら?」
「まさか、喜んで。ラウンジに行きましょう」
そう告げて部屋から出ようとするとスラヤが遮る。
「部屋でお話が」
事情があるのだと察して招き入れる。
部屋に爽やかな香りが漂う、スラヤの香水だ。
ルームサーヴィスでコーヒーを運んでもらう、レバノンではアラブ風の濃いものしか出なかったため、アメリカンをひとつとエスプレッソをひとつだ。
「計画の交渉以外にも指示をもらっていますの。日本の電子機器は高性能で優秀だから集めてきて欲しいと」
差し出された小さな何かを手にする、それは盗聴器だった。
情報戦の初歩で活躍するアイテムで、上手く使えば様々な場面を彩ってくれる。
「これなら軍が発注して集められるんじゃないか?」
だがスラヤは頭を左右に振りそれではダメだと言う。
――軍ではなくハラウィ中将が求めているわけか!
「わかった幾つ必要なんだ。予算もあるだろうし」
「千五百万レバノンポンドあります」
頭の中で大体換算してみる、五百個ぐらいならば買えるだろう。
「領収書は発行されても困るな」
笑いながら可能だろうとの答えを示す。
「ええそれは必要ありませんわ」
手荷物で持ち出せば問題ないだろう、片手の鞄に納まる。
スラヤがエスプレッソを傾ける、臥せ目がちに島を流しみる。
――やれやれ同伴の指示は他にもありそうだな。
ちょっと失礼とバスルームへと消える。
褐色の肌は艶やかで腰のくびれが素晴らしい曲線を作り出していた、黄金比というやつだろうか。
世界で一番見事な体つきがアラブ人といわれている。
◇
八畳程の応接室に人が集まっている。
警備会社の責任者に現場主任、旅行会社の支店長、それに島たちである。
兵は部屋の外に立たせて待機させておいた。
男達の自己紹介が終わり最後にスラヤを紹介する。
最後になるほどに重要人物になるのが日本流だと説明を付け加える。
「ミズ、スラヤ・ハラウィ。彼女の父はレバノン首都ベイルートの司令官で、次の軍事相となる方です」
外国の要人であることをアピールする。
支店長が気を利かせて英語で挨拶をする。
「皆様初めまして、今後良いお付き合いが出来ることを切に願っております」
日本語で丁寧に返答すると驚きの声があがる。
「レバノン政府は日本に強い関心を持っており、次の世代を見据えた教育を進めております」
外交官のような言い回しをして内心自分で笑ってしまった。
しかししきりに頷く男達を見てこれなら上手く行きそうだと感じて早速本題を切り出した。
「彼女は上級責任者で本件は私が担当します。無論芳しくない結果がもたらされたとしても、全ての責は私が至らないものだとご理解下さい」
日本人とはより上位にある者には厳しく接することが少ない民族である。
責任と権限は別物だと信じているのだ。
「そのようなこと無きように、私が全力で仲介させていただきます」
支店長がここぞとばかりにアピールしてくる。
新規のルートは不安定で危険が伴うが、その分見返りも大きく期待できた。
「条件については問題ありません。内容についてうちの現場担当から細かい質問がありまして。主任」
そうして実際にツアーに参加するだろう人物へと主導権が移る。
「島さんに伺いたい。軍事訓練と言われますが、アメリカか他の国の民間軍事会社に頼むのと貴国軍に教わるのとではどのような違いがあるのでしょう?」
一番重要なポイントだけに真っ先に抑えにきた。
かなりまで考え方がはっきりしている証拠だろう。
「民間軍事会社と現役軍隊を同じに考えられては困ります。同じプロフェッショナルでもその背景規模が訓練の幅に厚みを持たせます。民間に八万人もの現役を抱え、国土を自由に訓練場所に使える軍事会社はあるでしょうか」
確かに規模で違いを説明されたら反論も出来ない、事実少数で出来る訓練と多数で出来る訓練の内容は異なる。
「なるほど、しかし我らは多くても数十人単位の警備を想定しています。場所を選ばないのは魅力的ですが。もう一つ、訓練はレバノン軍の兵が直接担当を?」
「日常訓練はそうです。しかし特別訓練は下士官や将校が担当することもあります、無論この私もそれを考えています」
日焼けしてスーツを着ていても日本人は顔が若く見えるため、島も二十七歳の年齢ながら大学新卒者位に見られている。
「失礼ですが島さんは私よりも年下と思われますが、あなたが技術教官のトップですか?」
年齢で全てを判断するわけでは無いのだろうが、想像する範囲から外れた現実を知らないのは仕方ないことである。
実戦を経験した者は数年の訓練より勝る何かを感じ取ることができる。
「はい技術教官だけでく、戦略戦術の顧問官です。そして将校でもあります」
顧問官は昔でいう軍師に近い、将軍であろうとも丁寧に応対するし、正しい判断を助言し続けるうちは票決権限を持たない幹部として最高会議に列席することもある。
「それでは実力の一端をお見せ頂きたく思います。うちの警備員を待たせているので、社の訓練場へおいでいただけますか?」
こうなるのは想定済みである、そのために一日休養を挟んだのだ。
「結構でしょう。それで主任が納得いただけたら成約ということでよいでしょうか代表」
「異存ない。主任、判断は君に任せる」
無味乾燥といった表情で流れを黙って見守っているスラヤが席を立ち移動を始める。
待機していた兵がそれに従い訓練場へと向かった。
訓練場には四人の警備員が整列し代表らを迎えいれる。
「我が社の若手社員らです。この中から次の私の後継者を考えています」
主任が自信を持って育てた人物らしいのがよくわかる。
かなり屈強で体格が抜きんでているのが二人と、癖はありそうだが技術的に何かを感じさせる雰囲気が二人。
兵二人がテニスコート位の場所に進み出る、警備員から屈強な二人が前へでた。
兵がアラビア語で要求をする。
「警備主任、うちの兵が二人はダメだと言っています」
勝ち誇ったように口元を釣り上げて答える。
「自信がないと? ならば後ろの二人と交代させましょう」
体格差がありすぎる為に同程度の警備員を指名する。
「いえそうではなく、二人では勝負にならないから四人で相手をしろと言っています」
これには警備主任が自尊心を傷つけられようで顔を赤くして「今更元には戻せませんよ」と強気にでる。
「この兵は私が四ヶ月に渡り訓練した者達です、手加減は無用です警備主任。それよりそちらの警備員が怪我をした場合ですが、保険には入っておられますか?」
無用な心配とばかりに四人を並べる、代表が責任は当社で持つと宣言してくれた。
「では代表が開始の合図を。戦闘継続不能と判断されたら終了、または代表のご判断でも」
警備主任も頷きギャラリーが少し下がり、島はスラヤの少し前で事故に備える。
代表の「始め!」との声で六人が一斉動いた。
多数の側が囲むように散り、二人は背を合わせて担当範囲を決める、バディシステムである。
警備員が声を発して軽くうちかかる、実力を試すつもりなのだろう。
兵は試すような拳が飛んでくるのを避けようともせずに視線を切らずに額で受け止める。
逆に不気味に感じた警備員が一歩後ずさる。
体格の良い二人がアウトレンジからの攻撃を見切り、インファイトを挑む。
互いに巧みに攻撃を繰り出して全く致命傷に至らない。
警備員が四人がかりで攻撃を始める。
動ける範囲が狭くなるために一人が仲間に挟まれて足が止まった、そこへすかさずイスラム兵が一撃を加えると警備員は仰向けに倒れて失神した。
左右から拳を叩き込まれ強かに反撃を受けイスラム兵が痛みをこらえて食いしばる。
キリスト兵がその間にひとりになった警備員に組み付き場外へと投げ飛ばした。
悲痛な叫びをあげて警備員が肩を抑えて脱落する。
背を向けているキリスト兵に蹴りが炸裂し息が吐き出された。
二対二になり兵がかなりいきり立っている。
気圧されながらも渾身の一撃を繰り出す警備員の拳をかわすことなくカウンターで打ち返す。
ガクッとその場に膝をつく。もう一人も戦意を失い降伏する。
それを見た代表が「それまで!」と終了を告げる。
ところが興奮した兵は制止が耳に入っておらずにトドメをさしに行った!
「いかん!」
島がダッと駆け寄り右手でイスラム兵の腕を絡めとり、左手でキリスト兵の手首を掴み自分を中心にした駒のように勢いを利用し一人を投げ飛ばし、もう一人を後ろ手俯せに押さえ込んだ。
それは一瞬のやり取りだった、一秒をいくつかに分割しなければ説明すら困難な程に。
「気を付け!」
アラビア語で声を張って命令する。
兵が我にかえり直立不動で待機した。
「失礼、精神面での鍛錬が不足しておりました。お見苦しいところを」
「島君、いや島大尉格付けは済んだ。兵だけでなく君自身もな。契約は成立だ」
警備主任が危急に際して棒立ちしてしまったのに対して、島は四人の警備員に勝った二人の兵士を一瞬で制圧した、この差が指揮官には大切な部分である。
「ありがとうございます代表。支店長、では今後の実務をお任せします」
呆気にとられていた支店長がコクコクと首を縦に振る。
「大尉に一つ質問がある、部隊では君が一番強いのかね?」
訓練場を後にしようとした一行の背に言葉を投げかける。
「いえ代表、戦闘技術ならば副官の中尉の方が上でしょう、ですが……戦争ならば自分が必ず勝ちます」
「うむ! 大尉は立派な将校だ。どうだろうかツアーの追加料金次第で君直接の特別訓練を選択などは」
「考えておきましょう、では失礼」
目的の主軸となる団体客を恒常的に確保出来た手応えを感じた、残りの一般客については支店長に一任しても問題はないと判断しレバノンへの帰路につくことにした。
日本の税関は入国は厳しくとも出国は簡単であった。
国際犯罪者かどうかを調べるだけでほぼ素通りであった。
手荷物の盗聴器も日本茶の缶に入れて中身を見せるだけで何の疑いももたれなかった。
特別任務を受けた兵には帰国したら二日の休暇を与える約束と、治療費としてこっそり五万レバノンポンドを握らせ、家族に土産でも持って帰れと労を労った。
彼らが負けていたらことが上手く運ばなかったために充分受け取る資格はあるだろう。
ベイルート空港からハンヴィーで司令部へと向かいここでスラヤと別れる。
島はその足で中佐を訪れた。
「ツアーの件は問題なく契約が完了しました。扱いさえ間違えなければ収入源として期待できます」
「そうかこれはかなりの上首尾だな。軍への発言力もますだろう、何せ軍資金を自ら持ってくる軍事顧問なぞいないだろうからな!」
満足の意を示してあたりを窺う、仕草で近付くようにと招く。
「モサッドが我らの政治動向を探っている」
――やはり中佐はあの資料を意識して混ぜていたか!
「あちらの意志に反することのないように振る舞いましょう」
主語をぼかして盗聴の類に配慮する。
その後は訓練についての概略方針を簡単にすりあわせて司令部を退出した。
日本へと行っていたせいで運動不足になっていると感じていた島は、司令部からヤセル駐屯地まで自らの足で走ることにした。
一時間をかけてようやく辿り着く、体力が落ちていなかったようで数分休むと脈拍が落ち着いた。
「どうしたんですか大尉、そんな汗だくで」
ロマノフスキーが島の姿に驚いて駆けてくる、一大事でもあったのかと。
「鈍っていたから司令部から走ってきたんだ」
大体の距離を想像して納得する。
それよりも日本での結果を聞きたいと思った、しかしすぐに聞かずとも順調だったのだろうと悟った。
「少しお休み下さい、後に訓練結果の報告をします」
従卒に着替えとビールを運ばせて島を横目に書類整理を行う。
「南レバノンの少佐についてだが、中佐は関心を持っていたよ」
ロマノフスキーはその一言だけで大体を察した、あの手法を踏襲するつもりなのだと。
「今週の実施内容一覧と結果です。次の段階に入るべきでしょう」
概ね要求するレベルを達成しているのがわかる、方針の変更を決めるのが顧問の仕事である。
「機械化歩兵の訓練と並行して、UHー1イロコイによるヘリボーン部隊を選抜しよう」
一機につき十二から十四名程度の兵員を空輸可能で、やや規模としては物足りないが三機を一組にして二組編成出来たら、外人部隊でいう中隊が構成される。
六十四名が特殊中隊であり、二名の将校、九名の下士官、二十一名の兵で小隊一つの計算だ。
将校の人数的な比率についてドイツ軍あたりでは、兵二十五名につき一名とされている。
では実際はこうかと言えば全く違う。
司令部や軍務省などに勤務したりする人数を引き、動員される兵数を含めると兵五十人につき一名にしかならない。
将官に至っては四千人に一名のところが八千から一万人に一名が現実である。
これらを鑑みると精鋭化させた部隊だとはっきりとわかってくる。
そこに選抜されるのも名誉なことで、誰をこの訓練に宛てるかで一悶着ありそうな話だ。
「空軍と共同訓練を調整するんだ、日程は完全に空軍任せで構わない。車両の手配だが、これは他の部隊からも集めなければならないから司令官に上申の必要があるな。必要数をまとめて文書を作成してくれ」
「了解です。人員の選抜はどのように?」
一番の難点をどう解決するつもりかを尋ねる。
「部隊をまわり下士官全員を面接する、直接見て話をするのが一番だろう」
それでも不都合が出るだろうがその先は命令だと抑え込むつもりで進める。
中には高所で硬直してしまう者がいるかも知れないが、それこそ本人に聞いてみるしかない。
「わかりました、それではまとめ次第報告にあがります」
ロマノフスキーが退室しチョッパーの運用を考える。
――一機は指揮用に確保する必要があるな。無線傍受の可能性はアラビア語、ヘブライ語、英語にフランス語か。となればロシア語かドイツ語を理解する者が前線の通信兵にいたら、イスラエルだけでなくヒズボラ相手にも内容が露呈し辛くなる。
緊急時に島が前線に降りるならばスラヤを借りれば日本語も有効だと考えをまとめておく。
ガゼルを指揮所として利用することをメモする、この機種ならばイロコイより数も多く手配もしやすいはずだ。
地図を睨んで実際の運用目的を想定する、南レバノンでの使用は間違いないがどこに拠点を求めるかで支援の違いがあらわれる。
三カ所ほど候補を選び実際に踏査して決定することにした。
――現地の司令官の情報も必要になるな!
赤字でメモに重要部分として記載を付け足す。
ヒズボラと国防軍の拠点を示す青地図も要請しておこう、いつ実戦訓練になっても良いように、そう呟くとメモを増やす。
忘れてしまわないようにこのように記述しておくのは是非が問われるが、もし盗み見られても日本語にして字体を崩しておけば何のことかはわかるものは居まい。
ヘリボーンの想定を一旦中断し頭を機械化歩兵へと切り替える。
レバノンは交通の便が発達しており移動展開が容易なので、将来的には主力の運用となるのがわかる。
――ベイルートでは遠すぎるために、南北と山脈の東で合計三カ所の前進基地を必要とするだろう。
――特に南部はマロン派の司令官にする必要がある、東は南部に増援の可能性があるためにスンニ派とすべきだ。残る北部はシーア派でシリアを警戒させる。
間にヤセル駐屯地を挟むようにしてシーア派の反乱を妨害するとの想定も忘れてはならない。
それ以外の歩兵師団は機械化歩兵の増援が来るまで耐えるのが目的の守備師団で構わない。
特に北部や東部は訓練兵を中心とした警備師団程度の練度でも良い。
このあたりはシリアと交戦しているわけではないためシーア派も受け入れるしかない事実だろう。
南部の機械化歩兵には暫く軍事顧問が滞在して指導する必要も早期にアピールしておかねばならない。
また機械化歩兵は大統領の直轄指揮系統に出来たらやりやすいだろう。
一気に大筋を考えて書き留めると余白が少なくなってきたのでここまでにした。
「訓練を視察してくるとするか」
紙を折りたたみ胸ポケットにしまうと指揮所を少尉に任せて広場へと歩いて行った。
訓練広場では実戦を想定して左右に分かれての演習が行われていた。
陣地を作り双方で百人程度がサッカー場と同じくらいの枠で模擬戦をしているようだ。
幾つかある中立旗を多く奪うか本陣の司令旗を奪うかで競うもので、ゲームのような側面がある。
指揮を行う側としては局地的な戦闘をいかにこなすかの力量を問われる。
中立旗を狙う作戦に出た赤軍が人数を分散し旗を集めてゆく、高い位置から眺めていたらわかるが中央よりやや逸れたあたり、背を低くして一列縦隊で移動する青軍の突撃部隊が見える。
青軍は中立旗を防衛するように見せかけて巧みに赤軍に被害を与えて引き下がる、旗は奪われるが兵に損害は無い。
多数の旗を集め回収に戻ろうとする赤軍を、潜入した突撃部隊が本陣手前で撃破して阻害してしまう。
――理想的な運用が出来ているぞ!
演習を観察していた中隊本部に近付いて青軍の指揮者が誰かを尋ねる。
「これは顧問殿。青軍の指揮官はプレトリアス軍曹です」
「プレトリアスだって? そいつはレバノン人の名前か」
「はい、三代前はアフリカ人だったそうですが」
――アフリカ系レバノン人のオクタクローヌか!
双眼鏡を貸してもらい本陣を見てみるとアラブ人にしては肌の色が黒く見える、情勢を睨んでは時たま無線で指示を与えている。
「無線傍受はしているだろう、軍曹は何語で指示を?」
「アフリカーンズらしいですがよくわかりません」
青軍の兵士らをよく眺めてみると、ぽつりぽつりと黒っぽい肌の兵が混ざっている。
――なるほど、あれらを通信の基点にしているのか。
「すまんな邪魔をした。訓練を続けてくれ」
あちこちを見て回り幾人か優秀な下士官を見つけると片っ端から名を記した、今後一人ずつ面接をする叩き台として利用する。
兵はそれらの下士官に適宜選ばせるのが一番だ、何せ誰が長い時間接しているかと言えば彼等なのだから。
指揮所に戻り記した名前の下士官リストを作成させる、軽く目を通して驚いた少数派の宗教を信仰している連中が大半なのだ。
――組織の弊害というわけか。
リストにある者を明日出頭させるようにと命令を下しその日の業務を終了した。
朝一番指揮所に足を運ぶとロマノフスキーが出迎える。
「下士官らがきていますよ、面接には自分も立ち会いましょうか?」
「そうしてくれ中尉。中に黒いのがいたろう、あいつが気になってるんだ。十分後に一人入室するよう伝えてくれ、リストの順番でいい」
控え室では何を言い渡されるのか戦々恐々である。
何せ少数派の信者ばかりなので特殊大隊から転出させられるのでは、との見方が強かった。
係官に呼ばれてリストの一枚目にあったマロン派の軍曹が立ち上がる。
何せこの国ではマロン派、シーア派、スンニ派と順番は決まっている。
必要確認事項を面接で順次聴取すると別室で待機を言い渡す、質問内容を漏らさないために。
リストの最後でようやくプレトリアス軍曹の順番が回ってきた。
混血の上に宗教的な支援も受けられないのに軍曹に任じられた人物である。
「申告します。プレトリアス軍曹であります」
背筋を伸ばし敬礼の後に直立不動となる。
「軍曹楽にして構わない。君の演習を見させてもらった、あれはフラッグスティールの訓練時だよ、どのように指揮をしたか説明を」
休めの態勢を取り昨日行った訓練を思い起こす。
「はっ。目標は敵兵への損害を与えることでのポイント勝ち、敵陣への潜入による伏兵奇襲、中立地域を利用しての損害の拡大を主軸に実施致しました」
「だが連携は事前に打ち合わせるだけでは不測の事態に対処は難しい。いかにして修正命令を行ったか」
知っていても本人の口から語らせるのが重要である。
「無線による指示を利用しました。敵の無線内容は傍受可能ですが、自分の分隊はアフリカーンズで通信を行うため敵に内容がわかりません」
中尉が感心して頷く、珍しいものを見つけたものだと。
「アフリカーンズを解する者は何人いる?」
「自分以外に三名おります、全て一族の男ですが」
――セットで運用するには最高の組合だな!
「最後に一つ確認がある、軍曹は高所恐怖症か?」
「いえ、全く問題ありません大尉殿」
頭の中で全員の状態を思い起こして編成に当てはめてゆく。
高所恐怖症による不適格者が一名居たが残りは問題なかった。
――こりゃ三人の大尉から不満が出そうだな。
「決まった。プレトリアスをヘリボーン中隊付の下士官として選抜する、部下の三名も一緒にだ近く正式な辞令が交付されるだろう」
「自分は代々シャーマンの信仰ですがよろしいのですか?」
散々何世代もそれで抑圧されてきたのだろう。
「なに軍曹、俺なんて無宗教だよ。神がいるってなら世の中の揉め事を全て解決してほしいものだな」
誰かに聞かれたら噛みつかれそうな発言をして不敵に笑みを浮かべる。
「そう言うことでしたら是非お願いします!」
人選を終えて下士官らを解放し、リストを手にしてベイルートの司令部へと足を向ける。
――自分の鍛錬時間が少なくなっちまうもんだな。
日々の業務が多く中々体を動かすことができない、それでも二十キロ走だけは毎日時間を違えて行うようにはしていた。
陸軍司令部へと到着すると以前は差し止められた入口で敬礼を受ける、多少は馴染んできたようだが軍服なしだとどうなるかは自信が無い。
中佐の執務室は今日も扉が開け放たれている、不在ならば閉じられる為に二度手間にならずに済むようだとほっとする。
司令部に居るかどうかを確認してからきても良いのだが、島は勘が当たるかどうかを何かにつけて試している、外れが続くと要注意と気を引き締めるのだ。
部屋には中佐とハラウィ中尉が居り、何事かを打ち合わせていた。
「島大尉です。中佐、訓練計画の報告に参りました」
「おお大尉丁度良いところに着たな、君もこれを見たまえ」
中尉が場所を譲り広げられている何かを覗いてみる。
それはレバノンを中心とした地図でシリア、イスラエルあたりの一部も範囲に収まっているもので、軍事拠点と都市部だけと、詳細に記入されているもの二種類があった。
――流石中佐、先手を打ってきたか。
「自分のところにも一部いただきたい」
勿論だと中尉に用意するように命じる。
リストを二つ手渡して概要説明をする。
「ヘリボーンと機械化歩兵の訓練へと移行する予定であります。そのリストはヘリボーン中隊に採用するつもりで面接した下士官です」
一枚ずつ人物を確認する、しかし特に注文をつけることはしなかった。
「うむ良かろう、大尉に任せる」
それは儀礼的な承認を与える為のものでしかなかったが、これを怠るわけにはいかない。
「もう一つは車両などの要求リストです。計画案に署名いただけたら司令官に提出します」
ロマノフスキーがまとめたもので訓練に必要な車両や兵器が書かれている。
目を通して署名しそれを一部手元に残して島に渡す。
中尉が用意した地図を差し出して「司令官への提出に同行しますか?」そう配慮してきた。
「中佐、少々副官をお借りしてもよいでしょうか」
「構わんよ。中尉、今日はそのまま勤務を終えてよろしい」
「了解です」
中佐に敬礼し二人は隣の建物へと移動する。
渡り廊下の先にある階段を登り中将の部屋を訪れる。
アラビアンコーヒーを傾けて談笑する中将が機嫌よさそうに島を見つけると手招きする。
「やあ大尉、君には感謝しているよ何事につけてな。お前も一緒でどうした」
デスクの前には副官が居り、窓際にはスラヤが立っていた、島を見てにっこりと微笑んでくる。
中尉が自分は必要なかったのではと問いかけるような視線を送ってくるほどである。
軽く肩を叩いて感謝を伝える。
「大隊の次なる訓練で必要な書類提出に伺った次第です、どうぞ閣下」
副官の大尉に書類を渡して反応を待つ。
「うむ、機械化歩兵とヘリボーンか。今後間違い無く必要になるだろう。大尉決裁を行ってくれ」
二つ返事で承認すると副官に書類の処理を一任する。
あまりにも呆気なくて不安に感じるほどに。
「今後の実戦訓練についての相談がございます――」
「大尉、その話は後ほど詳しく聞こう。今夜夕食でも一緒にどうかね」
話を遮り仕切り直しを要求してくる、踏み込んだ話になるのを承知というわけだ。
「喜んでご一緒させていただきます」
「楽しみにしている。中尉しっかり招くんだ」
手持ち無沙汰だった息子に役割を振り、印鑑が捺された書類に中将がサインをする。
軍司令部へと提出するため二人は部屋を後にした。
装備の手配を終え指揮所に戻るかどうかを考えようとすると中尉がニュースを聞かせてくれた。
「大尉はご存知ですか、ベイルートにフランス放送局の支局が準備中であることを」
「それは初耳だよ。どのあたりに開局するんだろうか」
中心部近いのは予測出来るがどこだろうかと問う。
「ここから二ブロック先です、見てみますか?」
この先に役立つかも知れないため案内してもらうことにした、歩きでである。
少しでも体を動かしておかねばならないと再度自身に言い聞かせる。
ベイルートのブロック単位は一キロである、これはフランスの影響を受けた結果だと思われる。
一歩一歩きっちりと歩幅を保つあたりは軍人の所作である。
三十分と歩かずに目的地に辿り着いた、まさに準備中よろしく業者が荷物を運び入れているところに出くわした。
近くで電波搭などの設備を観察していると不意に女性に話し掛けられた。
「あなた島軍曹じゃないかしら!?」
振り向くとそこには由香に紹介されたクルーの先輩レポーターが居た、名前は確か……
「マドマアゼル・ベアトリアス」
「大尉、お知り合いですか?」
当然と言えば当然の問い掛けをしてくる。
一方的に知られていたりすることもあるが、相手の名前を発するのとほぼ同時だった。
「今は島大尉でしたか、失礼。レバノン支局の専属レポーターとして働くことになったの!」
まさにフランス女性の代表的な外見と感じた時と今も全く変わらない。
むしろ興味ある待遇を得て活き活きとしているように思える。
「紹介しよう、こちらテレビ局のレポーターでベアトリス。ハラウィ中尉だ」
「初めまして、ハラウィ中尉です。丁度テレビ局の話をしていて大尉と見物にきたところです」
「それならあたしが案内するわ、もう上の方は片付いてるから」
積極的にそう招かれてしまい今更断るのも気が引けたので二人は案内してもらうことにした。
整然としているとは言い難い場所を縫って奥へと行き階段を登る、荷物の搬入にエレベーターがフル稼働しているためだ。
上階は放送局用の様々な部屋と事務室になっている、地階が倉庫で一階や二階が来客用や解放空間として使われるらしい。
専用機材が詰め込まれた編集室の隣は通信機を集めた部屋になっている。
――まるで軍の司令部だな!
「これからどんな素材を報道するかは任されてるの。何かあったら教えてね」
局内の中枢部へ無関係の人間を案内出来るのを示して自らの重要性をアピールしてくる。
「ああニュースがあれはまず君を思い出すことにしよう」
連絡先を記した紙を島の胸ポケットへと忍ばせる、息がかかるくらいに近付いた彼女は薔薇の香りがした。
遠くで業者が荷物の扱いを指示して欲しいとベアトリスを呼ぶと、ごめんなさいまたねと慌ただしく去っていった。
取り残された二人は何だったんだろうと顔を見合わせて局を出ることにした。
「色んな人がいるもんだな。そうだ中尉、夕食までの間スペイン語のレクチャーを頼めないだろうか?」
「スィン(スペイン語でハイの意味)。ですが自分も大学での履修の域を出ませんので基礎的な部分しか」
済まなさそうに断りを入れてくる。
「だからこそ正しい内容を伝えられるはずだ。助かるよ」
「そう言っていただけたら気が楽になります」
そう笑顔を見せると年相応の青年の表情になる。
島であっても同じなのだが、二十代で沢山の他人の命を預かる立場である将校は、その職務のために常に厳しい内容と結果を要求され続ける。
いついかなる場合も気を抜くことが出来ない、そんな重圧が心を蝕むことがややもってある。
島に至っては六年前には夏休みに海外に旅行にきた学生でしかなかった、だがハラウィ中尉は小さな頃からこうなることを定められて育ってきたのだ。
どこかで張り詰めた気持ちをほぐしてやる必要があるのだが、なかなか一朝一夕にとはいかないものである。
外が暗くなってきて時計を見る、そろそろだろうか。
「大尉、このくらいで切り上げて夕食に行きましょう。レストラン・ワーヒドです」
ワーヒド、アラビア語で一番との意味だ。それが人気や味なのか、歴史的なものなのかはわからないが。
タクシーを捕まえ乗り込み場所を告げる。
――おや、この運転手は?
「やあムッシュ。あなたは前にも私を乗せてくれましたね」
チラッと後ろを見て確かめると東洋人が座っている。
「空港から司令部に行った旦那じゃないですか、驚いた大尉ですか!」
「やはりあなたでしたか。島大尉です、これも何かの縁でしょう次使うときは指名しますよ」
笑いながら運転手の名前をメモする。
「そりゃありがたい、観光客が減って商売が上手くいかなくてね」
――待てよ、軍事ツアーの客をこいつに案内させるか!
島が何かを思い付いたのを表情から中尉が読み取る、何を言い出すのか内心楽しみであるようだ。
「ムッシュ、観光客のタクシーガイドなどは受けて貰える?」
「ええ勿論。一人からでも歓迎です」
そうこうしているうちにレストランに到着してしまった。
中尉が代金を多めに支払い釣りはティップにと降りる。
「明日連絡する、ツアー客の団体を案内する仕事を君を通じて会社に頼もう」
「なんですって旦那! いや大尉殿、明日は仕事を入れないで会社で待ってます」
帽子をとり丁寧にお辞儀をして了解する。
どこかで日本人の仕草を見たことがあったのだろう。
レストランの入口で黒服が待機しており二人を案内する。
「大尉また閃きましたか」
「ああ地元に仕事も出来て良いだろう、だがそれだけじゃないんだ」
中尉は幾つか考えてみたがタクシー会社に他に何が出来るか思い当たらない。
「客のガイドや送迎以外に使い道が?」
「そこまでわかっているなら後一歩だよ中尉。タクシー会社に機械化歩兵の足代わりに兵や物資を緊急輸送してもらうための伝手だよ」
完全な思い付きだけではなく、フランスが戦争になったときに実際に行われたことがある。
何せ地理に精通し車両を確保しているので後方支援で手が足りない時にはぴったりの役回りになる。
「自分は今、大尉に一生かなわないと思いましたよ」
テーブルにはスラヤが待っており中将の姿は見えなかった。
「昼間はごめんなさいね大尉、父は少し遅れてきますわ。お兄様もごきげんよう」
どうぞと黒服が軽く椅子を引く。近くにはリザーブの札が置かれたテーブルしかなく、店側の配慮が感じられる。
「そうですかそれでは食前酒でもいただいてお待ちしましょう」
若者ばかりが集まり豪華なレストランで食事をする風景は異質に思えた。
しかしそれに注目する人物は居ない。
「レストラン・ワーヒドと言うようだが由来は何かな?」
当たり障りがない話題を持ち出す、気楽にやろうとの意思表示でもある。
「ここは旧市街地の一番地区でしたの。ですから場所が名前にとなったわけですわ」
妥当な線だろうがそこから先が地元の民ならではの補足があった。
「最初のオーナーがそれでワーヒド姓を名乗るようになりましたの。現在のオーナーは変わってしまいましたけど」
戦争に巻き込まれて断絶したと付け加えられる。
何とも言い難いところではあるが、今でも紛争が絶えない為に昔のこととするには早いのかも知れない。
グラスが空になったあたりで中将がやってきた。
「遅れてすまんな、先に食べていたらよかったのに」
軍服姿で司令部から直接きたのだろうか、副官の影は見えない。
「閣下お待ちしておりました」
起立し上席へと導く昼間から随分と機嫌がよいままである。
横でスラヤが小声で囁いて理由を教えてくれる。
「年明けの内閣改定で軍事相に内示を受けましたの。まだ公表されてませんわ」
――ついに大臣になるのか!
祝ってやりたいが秘密ならば仕方ない、教えられるまでと黙っている。
「みなゆっくりしてくれ。スラヤ、大尉のグラスが空じゃないか注いでやりなさい」
そんな気配りを見せるが時として人は幸せを他人に分け与えたくなるもののようだ。
注がれると中将が「未来に乾杯」と音頭をとった。
コース料理が運ばれてくる、ここのメニューもフランス風なのがメインになっている。
会話はほぼ雑談でと終始した、このまま終わるわけにはいかないために様子を見て話題を切り出す。
「閣下、仕事の話で恐縮なのですが今後の訓練についての全体的観測を申し上げてよろしいでしょうか」
「うむ、そのために席を設けたわけだからな。忌憚ない意見を聞かせてもらおう」
水を一口飲んで真剣な表情を作る。
両隣の二人はメモをとる準備を同時にして少し笑いが漏れた。
「機械化歩兵団は対イスラエルに南部はティール、対シリアに北部はトリポリ、そして増援用に東部はヤシンにと三カ所の拠点を必要とするでしょう」
国土を思い浮かべて地図上の候補地が浮かんだあたりで話を進める。
「南部にはキリスト教徒の隊長を据えるのが前提です。理由はイスラエルだけでなく、対ヒズボラを想定してです。東部はスンニ派、北部にシーア派です」
中将が意図を正しく理解して頷く。
「南部は守備師団を、東部と北部は警備師団で国境を固め、ことがあれば機械化歩兵団が増援するまで耐えるのを要求します」
「妥当な線だろう異議はない」
「はっ。ヘリボーン中隊ですが、やはり南軍管区の北側ギリギリあたりが候補地で前線への増援に使用します、サイダが適当かと。このため南部の軍司令官がヒズボラに協力的であっては多大な支障が考えられます」
「だが南部はシーア派の支持が厚い、司令官は変えられんぞ」
一番の難点をついてくる、もちろん織り込み済みである。
「昔に南レバノン軍がありましたが、あの手法を利用してはいかがでしょうか」
「イスラエルを調略するつもりか!?」
想定外の提案に唸って悩む。
イスラエルが協力してくれたらヒズボラを攻撃するのはかなり助かる、シーア派は黙ってはいないだろうが、マロン派やスンニ派の軍が南部で戦うならば流石にヒズボラの援護を表立っては出来なくなる。
「そのためには機械化歩兵団を大統領の直轄軍へと系統付けていただきたい。無論指揮権は軍事相を挟むわけですが」
そう言ってスラヤにウインクをすると、それを見て軽く口を押さえて微笑する。
「よしんば三軍の指揮権の間に各派が割り込んでもシーア派は北部という寸法か!」
腕を組んで実現への会議でどうなるか票読みをする。
「実績が、運用による勝利の事実が必要だろう」
「それがあれば実現しますか?」
「私が必ずそうさせる」
力強く断言する。こうまで言い切るからには何らかの根拠を持ち合わせているのだろう。
「承知しました。それでは特殊大隊により運用試験を実施致しましょう。実戦は年明けを想定します」
数ヶ月で結果を出すと受けた島も島である、下手にこねくり回すよりも一本で押す道を選んだ。
「それと前線に出ているときに首都司令部と長距離通信を急ぐ際に一つお願いがあります」
「何だね大尉」
「傍受されてもすぐにはわからないように、通信担当にスラヤさんを拝借させていただきたいです」
中将が娘をチラッと見ると彼女は微笑んで頷いた。
「危険もないから良かろう。中東で日本語を解するものが軍に居る可能性は極めて少ないだろうな」
「片手でも指が余るでしょう」
さもあらんと再度納得する。全てが上手く行けば自分に有利になるとばかりに上機嫌になる。
全ての要点を押えられたかどうかを再度考える。
物事は準備に八割の労力を要するもので、いざとなった時にはあるもので対処するしかない。
「特殊大隊が南軍管区で行動する際の許可を予め手配願います。シーア派の支援が受けられない場合を見据えて、空軍ガゼル戦隊の出撃要請、ベイルート軍からの派遣後方支援部隊による実戦観察も同時に。派遣部隊が観ていれば南軍司令官も無視をし辛いでしょうから」
実施当日に現地軍から見殺しにされてはかなわないと幾つか保険をかけておく。
保険が多いほどに情報漏れがひどくなるが、一か八かで挑むわけにはいかない。
「奴らも渋い顔をするだろうが、半数はイスラム教徒の兵なわけだから、特殊大隊を全滅させるような手段はとるまいよ。だが用心に越したことない、手配しよう」
賽が投げれてから都合をつけようとすると足元をみられてしまう。
そのあたりの取引は長年司令官を勤めてきた中将に抜かりはない。
「ありがとうございます。後は自分の知恵次第」
会話内容をメモし終えて不明な部分がないかをチェックする。
「イスラエルを調略とありましたが、大尉は何か伝手がおありで?」
「実は全くない。モサッドが俺のことを調べているみたいだから、親イスラエル的な内容をどこかで呟けば向こうから接触してくるんじゃないかと思ってるよ」
笑いながらそんな説明をする、だが半々くらいでそうなると考えてはいる。
スパイと呼ばれる諜報員は八割を互いの持てる情報を融通して調達したり、現地の通信社から諜報する。
残る二割のうち半分以上を捜索や買収により集め、どうしても手に入らない部分を非合法活動で埋める。しかしこれは一割に全く届かない程度の割合でしかない。
世間的にはこの部分が誇張されて知られてはいるのだが。
ふと思い出す、昼間にベアトリスとあったことを。
テレビ局やらラジオ局で軽くそんな話が流れたら勝手に拾ってくれるのでは? と。
もし都合が悪ければ局が話を捏造したことにして葬れば良い。
「中尉、散歩が閃きを現実にしてくれそうだよ」
「散歩がですか? ……あ、なるほど」
意図する内容を理解して顔を輝かせる。
「さてとそろそろ帰るとするか。皆はまだゆっくりしていて構わんからな」
「閣下今日はありがとうございました」
よいよいと手を振って一人席を立つ、他にも予定があるのかもしれない。
店外まで出ると車が見えなくなるまで見送った。
「さて自分は先程の内容を整理して資料を揃える手配をしておきます。集まり次第大尉かロマノフスキー中尉にお渡しします」
「明日の手配で構わんが、今からするつもりか?」
夜ももうすぐで二一○○あたりになる、朝一番で始めても大差はない。
「明日は中佐に同行で朝から用事がありまして、今夜中に手配してから行きます。申し訳ありませんがお先に失礼させていただきます」
そう告げて中尉は司令部の方向へと歩いていってしまった。
「悪いことしてしまったな。じゃあスラヤ送っていくよ」
「場所を変えて飲みませんか? 近くに良いお店がありますの」
「そいつは参ったね、誘われたら断るわけにはいかないな」
賛同を示すと夜の街を二人で歩く、意外と人が出てきていないがそれはイスラム教徒が酒を禁じているからだろうか。
中にはその戒律が無い宗派や、管理が緩いのもあるそうだが大半は守っている。
そのためアルコールを扱う店や地域が活性化せず、夜中になると真っ暗闇になってしまう。
バーへと入る。そこは小さく区切られたボックスが二つに、カウンターが数名しか座れない小さな店だった。
端に一人座ってグラスを傾けており、カウンターにはマスターが一人だけだ。
奥のボックス席へと誘導される。
もし入り口から暴漢が現れいきなり銃を発砲してきたらと想像する、スラヤを対面ではなく左手側に座らせ自らは入り口を正面にと位置を決める。
プロフェッショナルとして命のやり取りを続けてきただけに一事が万事このような視点になってしまう。
「大尉はどうしてこの国に肩入れしてくれるのかしら。傭兵だから……ですか?」
水割りを作りながら気になっていた疑問をぶつけてきた。
「どうしてかな中佐に誘われたときには正直自分を必要としてくれて嬉しかった気持ちがあった。今はどこまで自分が通用するかやってみたい気持ちが強くなってきたよ」
どこでも良かった、あの時はそんな精神状態だったのを覚えている。
だが今は関わった国の人々に出来ることをしてあげたいと心境が移り変わってきていた。
「もし中佐がレバノンを去っても大尉は残られますか?」
「レバノン軍が俺を必要としてくれるならね。だが外国人があまり長逗留すると疎まれてしまうからな」
そう言ってグラスを傾ける、少しきつめの水割りだが灼けるような刺激が心地良い。
「どうしてそんなことを聞くんだい、中佐が転出の話でも?」
「そうではありませんの。わたし、いつかあなたが居なくなってしまうと思うと悲しくて」
隣に座っているスラヤが身を寄せてくる、今日はスパイシーな香りが漂ってきた。
傭兵である以上は遅かれ早かれ国を去るのは定めらた未来である、それについては口を閉ざしただスラヤの肩を抱いて目を瞑った。
「せめて、せめて生きて帰ると約束してください。戦いで命を落とさないと」
懇願するような瞳でじっと島のことを見つめる。
「ああ約束しよう、俺は戦闘で死ぬつもりはない。百まで長生きする予定でいるからね」
そう笑いかけてスラヤに唇を重ねる。
何か言いたげで目が語りかけてくる、異常を感じて神経を尖らせる。
「監視されてるわ」
小さく日本語で呟く。
その言葉の意図が何を指し示すのかまではわからない、だがスラヤを引き寄せて抱き締める、そこに現実があった。
「少し訂正だ、俺は戦闘以外でも死なずに必ず帰ってくるよ」
マスターに電話を借りて司令部の当直士官を呼び出すと中尉が応答した。
「中尉、済まないが車を一台回してくれないか、司令官閣下の御息女が帰宅されるからエスコートを」
二つ返事で了解すると十分とたたずに一等兵が扉を叩いた。
事後を託して自らは宿舎へと戻る。
こんなに遅くになってしまったのにまだ管理人室の電気がついていた。
「マダム、遅くまでどうかしましたか?」
島に気付いた彼女がお帰りなさいと迎える。
「大尉さん良かったわ戻ってきて。今日の夕方なんですけれど、定期点検だって空調設備会社の人がやってきて、宿舎で作業していったのよ。でもおかしいのよね、まだ点検までには数ヶ月あるはずなのよ、遅れることはあっても早まることなんて今まで一度もなかったわ」
それを伝える必要があって遅くまで起きて待っていてくれたらしい。
「空調を? マダムご配慮ありがとうございます」
胸ポケットから紙幣を五枚取り出してお礼だと握らせる。
満面の笑みでそれを受け取るとおやすみなさいと寝室へと引き上げていった。
――誰かが何か細工していったに違いない!
何があるか分からないため慎重に部屋に戻る。
誰かの気配がないかをまず探り、感じられないため電気をつける。
拳銃を構えて部屋を捜索するも何ら異常が無いためホルスターにしまい、天井のダクトを調べるために足場を用意する。
網を取り外すと綺麗に掃除した形跡があった。
更に懐中電灯で丹念に照らして調べると、そこには黒い豆粒のようなものが張り付けられていた。
――盗聴器だ! しかも日本で購入したものと一緒のものじゃないか!
網を元通りに戻して何も無かったように振る舞う。
中将が自分を監視し始めた理由を考えることにした。
夕食のタイミングと良い、空調と使われた盗聴器と良い、まず間違いないだろう。
――まだ中将の利益を損なうことはしていないはずだ。それでも尚且つ疑いを向ける理由は何だろうか。
スラヤが中佐について居なくなるかのような話を振ってきたのと関係が?
それともスラヤが監視について漏らしたこと自体が俺に対する謀略の一手である可能性が。
わざわざ同じ盗聴器を使う必要はない、中将を黒幕にしたてあげようとした罠も考えられる。
だがそれならばスラヤが忠告してきた根拠はどこにある。
頭の中が目まぐるしく働くが幾つかの闇があり一本にはまとまらなかった。
朝になりもやもやがまだ頭に残っていたために指揮所までマラソンを行う、軽く汗をかいてすっきりしようとの考えだ。
ロマノフスキーがまたかと思う位にまで日常と化している。
「おはようございます大尉。何か色々ありましたか、顔に書いてありますよ」
「ん……表情を読まれるようでは俺もまだまだだな」
シャツを着替えて水を口に含む、たくさん飲んでも汗になるだけなので喉を潤すだけに控える。
砂漠やジャングルでの発汗を抑えるには水を採らないこれに限る、汗は水分だけでなく塩分など他の必要なものまで排出してしまう、それだけになるべく補給をしなくて済むようにするのだ。
「今日はタクシー会社に打ち合わせに行ってからテレビ局に寄り、ツアーの代理店と調整をしてくる」
「まるでビジネスマンですな大尉」
言われてみてもっともだと自分でも思ったようで島が苦笑いをする。
胸ポケットから昨日もらった地図を取り出して渡す。
「青地図だ重要だからこれが不要になるよう頭に叩き込んでおくんだ」
中身をあらため言葉を裏打ちする。
「年明けに南レバノンで特殊大隊による実戦を予定している。その前に一度統合演習を実施しよう」
「了解です。演習予定を起草しておきます」
盗聴の話をすべきかどうか迷ったが、ロマノフスキーに話すのはもう少し判断材料が揃ってからにすることにした。
「機械化歩兵団の装備要求は全面的に受理されたから、配備がいつになるから司令部に確認しておいてくれ」
副官に職務を代行させて自らは再び駆け足でベイルート市内へと戻る。
同じ道を繰り返して使わずに常に違う経路を組合せる、待ち伏せや罠を回避する手段として有効である。
タクシー会社の場所を聞くよりもタクシーを捕まえた方が早いために一台止める、市街地にあると思いきや案外はずれに営業所を置いていた。
フロントで昨日のことを話して男を呼び出して貰おうとすると、島の姿を見て本人が飛んできた。
「おはようございます大尉殿、本当にきていただけたのですね!」
自らに転がり込んだ幸運に嬉しさのオーラを出しているのがわかる。
早速応接室を一つ用意して島を招き入れる。
女子社員が見当たらないためスンニ派集団の会社なのかもしれない。
「改めましてアーメドです。こうして再会出来たのもアッラーのご加護でしょう」
アッラーと言われて苦笑してしまったが相手に合わせて話を切り出す。
「レバノン陸軍独立特殊大隊軍事顧問官島大尉です。アーメドさん、ツアーガイドについてですが日本人が主です。一度に十人程度を予定して、七日に二回三日間のグループと、一カ月逗留で不定期のグループとがやってきます。そちらで対応可能でしょうか」
細かい数をはっきりと提示されたために必要な質問をして回答への補足を行う。
「言語ですが英語でしたら可能です。日本語が必要ならば通訳を一人雇用しましょう」
「英語が全く話せない者が主です。もし通訳を雇用されるのでしたら、そちらに全てのツアーガイドを依頼するようにしましょう」
雇うだけ雇わせて仕事をまわさないとは行かないのと、どこに頼んでも変わらないなら融通がきくようにしたいため大口との印象を強める作戦にでる。
「承知しました通訳が見つかるまでそうですね、半月はいただきたい。費用の面はいかほどを?」
「三日間のグループの側は個人だろうから実費の客負担を。一カ月のグループは実費を旅行代理店に請求で」
つまりはタクシー会社の言い値を認めるわけである。
そうなれば断る理由は何もない、ただ優先して人と車を手当てするだけである。
「大尉殿に感謝を」
「ところで会社のタクシーは何台くらいあるんだろうか」
「凡そ八十台、それにバスが二台あります。四百人が我が社の最大限の能力です」
五人乗り車両と四十人のバスで運転手を差し引いた数がこうなる。
「仮の話ですがもし一日全車をチャーター便に使いたいと言えばどうします?」
「もちろんお受け致します。足りなければ自家用車をかき集めてでも応じます!」
もしそうなるならば本当にやりかねないような勢いを感じた。
四百人輸送出来るならば機械化歩兵中隊二個を首都から増援可能になる。
燃料だって咄嗟に用意出来るだろうし、切り札として活用する日がこないとも限らない。
「快い返事ありがとうございます、アーメドさん」
「大尉殿こちらこそありがとうございます。日程など細かい内容は旅行代理店に問い合わせておきます」
商談成立とばかりに握手を交わす。
島はこの一手が活きる日が来るのでは? そう強く第六感が告げているのを素直に受け止めている。
日々勘を試しているために理由なき理由への判断には自信を持っていたからであった
移動するならば送りますよとアーメドが申し出てくれたが、運動不足が祟るから走るよと笑いながら断りを入れる。
腹の部分をさすり「テキメンですな」とアーメドが了承した。
呼吸を乱さずにどのあたりまで無理を出来るか、三十代になれば下降の一途であるが現状維持をしている今が体力のピークと考えている。
ブロックを五つほど走ってもうっすらと汗ばむ程度で一分も休めば脈拍が正常値に落ち着く。
支局のフロントでベアトリスに繋ぐようにと頼み、直通の連絡先を手にしていたことを思い出す。
十分ほどで彼女あらわれて微笑みかける。
「直接呼び出してくれたらよかったのに」
「俺がここに来るのが重要でね」
何のことかしらと頭に?を浮かべる。
開放されているカフェでカウンターに並びティーを注文する。
「大尉がテレビ局に来るのが重要ってどんな意味かしら」
悪い話ではないだろうと先を楽しみに問う。
「ちょっとした謀略を試してみようと思ってね。現代戦は情報発信も鋭い武器だよ」
島の目的が何らかの報道とわかりメモを用意する。
「それで私は何を伝えたら良いのかしら?」
挑むような笑みは成功を重ねてきたキャリアに裏付けされているのだろうか、依頼者からしてみたら頼もしい限りな雰囲気を醸し出している。
「なに簡単さ、さも俺が言ったかのように親イスラエル発言をしてくれたら良い。だが俺自身は何も喋らない」
ペンを止めて言葉の意味を反芻する。
「ミスリードがお望みなわけね。そしてその見返りは何をくれるのかしら?」
承諾したとの反応である。支局が初めてすっぱ抜くニュースを与えなければなるまい。
「どうだろう大規模なテロリストとの市街戦が行われる時、たまたま居合わせたクルーが君のところだったとかは」
自らがリーク出来る最大の札をちらつかせる。
交渉ごとというのは一発勝負だと思っているからだ。
「百人規模かしら?」
「両方合わせたらその五倍は軽いね」
「乗ったわ! もちろん独占よね!?」
「君以外には話してないよ」
そう答えると突如島に抱きついてきた。
「必ずよ!」
そうはしゃぐベアトリスは可愛らしい表情を浮かべて少し身を仰け反らせて両手を島の頬に添えてキスをする。
「それともう一つ、無いなら無いで良いんだが、万が一軍の指令無線が使えなくなったとき、局のものを緊急用に使わせてもらいたい」
「そんなこと有り得るのかしら?」
首都の重要施設が使えなくなるなんて一大事である。
「ベイルートはイスラエルの空爆目標にされているからね。司令部が狙われて命中することだってあるさ。けどフランス放送局はイスラエルから決して狙われないから安全だよ」
イスラエルが狙うのはレバノン及びそれに類する施設や民家であり、決してその他の外国企業や大使館などには手を出さない。
これは限定戦争では破ってはならない部分で、もし被害を与えてしまうと国際的に損をするのは攻撃した側になるためである。
「支局長に相談してみるわ」
年明けになるからと大体の時期を耳打ちして、レバノン南部での取材企画でも用意しておくように伝え、テレビ局から旅行代理店へと向かった。
ツアー最初の客が一月半ばからと聞かされてタクシー会社の通訳が間に合いそうだと了解する。
概ね仕込みを終えたところで南部の現地踏査をする時期になったと感じた。
数日後にと設定をして随伴する人物を思い浮かべる。
――中尉にプレトリアス軍曹、シーア派の将校も必要になるな!
ハンヴィーを一両使い残りを兵士で埋めることにした。
六人が乗車出来るためにあと二人、能力的にも信頼出来る者をと考える。
――そうだ日本に随伴させたあの二人にしよう。
考えをまとめて一枚に整理してゆく。
――作戦地域だけ視察してはいけない、場所を絞らせないためにも最低三カ所は行かねば。
手を抜いて失敗しては元も子もない、後は中尉と相談しながら決めようと、また指揮所まで駆け足を始める。
もし尾行している諜報部員がいたらとふと思うと笑いがこみ上げてきた。
十二月。季節は冬を迎えている。
一行は南レバノンの地を巡り一カ所に一日ずつを費やして現地踏査を終えた。
部隊の異動編成が行われてプレトリアスが曹長にと昇進する。
予想に違わずヘリボーン中隊の下士官編成について三派三様の苦情がもたらされた。
しかしそれを上層部の決定事項だとして意見を認めないことをはっきりと示した。
中隊長は島が兼任し、二人の小隊長はマロン派とスンニ派から任命する、シーア派からは中隊付として本部に一人置くことで収めた。
不満はあるようだったがヘリボーン中隊自体が臨時編成のためだと強引に推し進める。
編成を拒否するならば他の者を組み入れると強気に出ると貴重な経験を積みたい将校らは渋々と受け入れたのが実際のところだろうか。
車両も集まり実際に乗り込んで短距離の演習も実施する。
何とか実戦前に形だけでもと仕上げるつもりでいたレベルに達したので、兵士達ぐらい年末年始をゆっくり過ごさせてやることにした。
テロリストとの対決をする準備は整った。目を閉じて暫し想いの余韻に浸る島であった。