よりみちアケルナル クリスマスⅢ
彼はいつも、遅刻ぎりぎりで滑り込む。
「せぇーーふっ」
これだけチャイム通りに来れるなら、あとせめて5分早くしたって、絶対ぴったり着けると思う。
「アウトやろ」
バカサが偉そうに言うが、自分だってさっき来たばかりだ。しかもバカサの場合は一定していない。
「セーフや」
「補習にギリで来る時点でアウトやろ」
「審判っ」
何の遊びか知らないが、ここで二人して後ろの席の湖山を振り返るのがお決まりだ。変なことに付き合わされちゃったなあ、と、頭が痛くなりながらも、一応判定を下してやる。
「……あと一回でアウトや」
「なんやそれ。野球にそんなルールあらへん」
「アホヤ、湖山はバスケや。バスケにはあるんちゃうか。知らんけど」
「イエローカードみたいなもんか? 知らんけど」
「……もう二人とも退場でええよ」
「こらっ! 青谷、若桜! 補習に来て後ろ向いて喋っとるやつがあるか! 」
先生の怒号に、二人は驚くべき早さで前を向き、テキストの防御壁に身を隠したのだった。
「あーあ、クリスマスやのになあ……」
曇り空を仰いで、青谷は愚痴った。散り敷いた銀杏で黄金色に染まる道を、自転車を押しながら歩く。いつもと違うのは、隣が航平ではないことだ。航平は補習が終わるや否や、調べものがあるとかで、市立図書館に行ってしまったのだ。
それで今日は、たまたま一人で帰っていた湖山と一緒になった。少しラッキーなのは、湖山が女子だということ。ちょっと残念なのは、女子だけど湖山だということ……失礼だとは、思うけれど。湖山の名誉のために断っておくが、彼女は決して、悪くない。性格は明るくて、誰とでも仲良くできるタイプで、運動神経も抜群だ。問題があるとすれば、それはむしろ青谷の方に、だ。
青谷はちら、と隣を見た。徒歩通学の湖山は、小さいセカンドバッグを胸に抱えて、ゆったりと歩いている。彼女の顔は、目線を上げたところにある。要するに青谷は、隣を歩くと引け目を感じるのだ。
「ほんま、お互い、頭悪くて損やね」
「まあ、帰ったらうまいもん食うから、ええんやけどな……湖山、お前ちょっと後ろ歩いて」
「何で? あ、ええんやけど……別に隣歩きたいとか、ちゃうし」
湖山は素直に、少し後ろに下がった。何かもじもじと、バッグを抱き締めているが、青谷の目には入っていなかった。
「遠近法や」
青谷が考えなしに言うと、言葉の代りに、セカンドバッグの一撃が後頭部に返ってきた。
「あだっ! 何すんのや!? 」
「アホヤのアホタレ! 」
湖山は怒っていた。別に珍しいことではない。でもなんだか、何かいつもと違う雰囲気を感じる。青谷は慌てて、頭の中で、さっきの一連の会話を巻き戻してみた。『なんやなんや? 俺、何か怒らすようなこと、言うたっけ? 』
「……すまん、わからん……」
「アホヤなんかに分かってたまるか、ゆうのん」
「でも、多分俺、怒らすようなこと、言うたんやわ。そやから、ごめん」
ぺこり、と頭を下げた青谷を見て、湖山はますます膨れた。
「訳も分かってへんのに、謝ったかて、意味あらへん」
「それやったら、何が腹立ったんか、言うてや」
「……言いたない」
「おっまえ、どんだけや。謝っても怒る、理由聞いても教えへん……」
「あたしかて、気にしてんのに、なんやのん」
湖山はセカンドバッグをぎゅっと握りしめると、吹き出しそうなほど間の抜けた顔で、再び会話を検証しているらしい青谷の横を通り抜け、さっさと歩き出した。
「ああ! もしかして遠近法が気に入らんかったんか? 」
背後から、無神経な青谷が呼び掛けた。
「ちょ、待てや。悪かった。気にしてると思わへんかって」
「気にするわ! 大きい声で言わんといて」
青谷は、がちゃがちゃと音を立てて自転車を引き摺りながら、追い付いた。
「なんでや。湖山、バスケやっとんのやから、背は高い方が得やんか。自慢やとおもとったわ」
「バスケで得しても、女子として損してんの。もうええから、ほっといて」
湖山がすたすた歩くと、大抵の人は小走りでないとついていけない。『……ほらな、俺、めっちゃカッコ悪いやろ』青谷は途中で足を止めた。
青谷がついてくる気配が無くなって、湖山は急に哀しくなった。
身長のことは、幼稚園の頃から、男の子たちに散々からかわれた。背が高くなりたい場合は、牛乳を飲むとか、いろいろ頑張る方法があるのに、何故小さくなりたい場合の方法は、ないのだろう。親は『相手にせんかったらええ』と言ったけれど、それができるくらいなら、悩んだりしない。でも、バスケと出会って、自分を活かせる場所を見つけた。それからはもう、くだらないからかいなんて、笑い飛ばせるようになっていった。
また身長のことが気になり始めたのは、去年の春からだ。……本当のことを言うと、誰に何を言われようと別に気にもならないのに、たった一人の一言だけが、妙に気になってしまうのだ。もちろん、彼に悪意なんて、これっぽっちもないことは、よく分かっている。なのに、どういうわけか、心が勝手にざわついて、素直な気持ちを隠してしまうのだ。
たまたま、同じクラスになって、たまたま、グランドで泥まみれになってボールを追う姿を見ただけだ。特にイケメンでもないし、背だって、いつも一緒にいるバカサの方が少し高いくらいだし、頭も悪いし、全然素敵じゃない。しかも、図々しいことに、学年一の美人の北条彩花のことが好きらしい。それなのに何故、彼が腹を抱えて笑う姿を見るたびに、自分も笑顔になってしまうのだろう。
「おい。湖山」
青谷は離れたところから、呼び掛けた。野球部仕込みの大声に、思わず湖山は振り向いた。
「……何やのん。皆見るし、言いたいことあるならこっち来たらええやん」
「そうかて、怒っとるやん」
「……別に、アホヤがデリカシーないのなんか、今に始まったことちゃうし」
許しを得て、青谷は近づいてきた。その情けない顔を見ると、湖山の胸の中のモヤモヤは薄くなり、穏やかな優しい気持ちが表に浮かんでくるのだった。
「あんな、悪かった。ほんま。別に嫌がらせ言うたろうとか、したわけやないんや。そうやなくて、俺はな……」
「……分かってるし。あたしもちょっと……いらっとしただけや」
「あんな、恥忍んで言うけどな、俺はほんま、お前が羨ましいんや。モデルみたいにかっこええやんか。隣歩くと自分がショボく思えてしゃあないんや」
湖山はまじまじと青谷を見た。
「…………」
「なっ……何や、何や。まあそやから、俺としてはやな、お前は背が高いのんを自慢してええと、当たり前に考えてたからな……」
「……ずる」
「はあ? 」
「ま、ええわ。今後気をつけてや。あたしに遠近法は禁止や。分かったか」
「分かった分かった」
青谷はおもちゃのようにコクコクと頷いた。
「機嫌直ったか? 」
「どうでもようなった」
湖山は清々しい笑顔で頷いた。青谷はすっかり満足して、自転車に跨がる。
「よし、ええクリスマスになったな。ほなまたな」
「えっ!?」
まさか、ここでこれほどあっさり『またな』とくるとは。
「ちょ……」
「寒なってきた。湖山も早よ帰りや」
「わ……分かった……」
リンリン、とベルを鳴らして、万年クリスマス男が去っていく。
湖山は慌ててセカンドバッグを開けると、紙袋を引っ張り出した。そして、長い脚で跳ねるように駆けだすと、美しいフォームで紙袋をシュートした。それは弧を描いて、青谷の頭の上に落ちた。
「? 」
自転車を止めて振り向くと、足下から舞い立つ落ち葉の中で、一層鮮やかに、少女の笑顔が輝いていた。
「メリークリスマス! アホヤ! 」
「何や、これ? 」
湖山は答えず、踵を返して行ってしまった。
翌日。
「アホヤ。なんや、そのモジャモジャは」
無理矢理首に巻き付けた物を指差して、航平が訊いた。
「わからん。マフラーやと思ったんやけど」
「東京とかで流行ってるんやろか……なんやモップみたいなヒゲが出とるけど」
「モップ……そうや、これはきっと、スリッパに巻き付けて床を掃除するんや」
「あるな! そういうアイデアグッズ見たことあるな! 」
「そやけど……ああ、ちゃうわ。これ多分、窓ふきや。こういうタオルみたいな形がやな、こうりつてきに拭けるんや」
「えー? ……審判! 」
「二人とも退場」
湖山は冷たく言い放つと、教室のドアを指差した。