列車は進む
この作品は、今度の文化祭で発表しようと思っているものです。
女は、娘を走る列車の窓から捨てた。女に迷いは無かった。娘の叫びと、涙に、ほんの少しの揺らぎも感じることは無かった。それは女の望んだことであり、娘の望まぬこと。
――娘は母を信じていた。この列車に乗って、二人でこれから訪れる新天地で過ごすのだと、娘は信じていた。自分が列車の窓から投げ捨てられるなど、彼女は考えもしていなかったのである。
――母は自分の願いを叶えた。娘にとってこれがつらいことであるのは分かっている。母はこの先の人生を考えたとき、娘が居てはならないと考えたのだ。これは列車に乗る何日も前から考えていたこと。それまでにも、何度か娘を自分から突き放そうと考えていた。ただその決心がつくことはなかった。いくらそれが一番良いことであったとしても、あと一歩が踏み出せなかったのだ。
――娘は自分が宙に浮いていることが情けなくてしょうがなかった。投げ捨てられたのは橋。この橋を越えれば、これからの生活が始まっていた。母はいつからこんなことを考えていたのだろう。橋は高く、湖に落ちるまでにとても時間がかかった。その間、娘はただそれだけを考え続けた。もしも母のこの考えに気づいていたならば。恐らく、もう会うことのない母親を、彼女は恨まなかった。恨むべきは己。母はどれだけ悩んだのだろう。その悩みに、どうして気付けなかったのだろう。娘は、ただ自分が情けなかった。
――母は、隣に座っていた男に微笑みかけた。この男は、これからの新天地で共に過ごすことになる男。男はただうつむいたまま、隣の女のした行為に何も口を出さなかった。彼は、彼女のした行為が悪いこととは思っていない。
――娘は湖に浮いていた。命は助かったのだ。ただ、その心は死んでいた。母への思い。母の思い。何故それがすれ違いを生んだのだろう。彼女は、橋の足につかまり、走る列車を目で追い続けた。
――母は男に話していた。これまでの娘との生活を。これからのことを。母に後悔の念は無いはずだった。だが、娘のことを思い出すたびに目から涙がにじみ出る。これで良かったのだ。そう自分に言い聞かせつつも、自分のしてしまったことは許されないことだということをしだいに理解していった。その場でむせび泣く女の背中を、隣の男は間違っていないとさすった。
――娘は列車を見失った。炭の匂いだけがあたりに漂う。娘は迷っていた。もう死ぬべきなのか。それとも残った命を大切にするべきなのか。道徳的には後者が正しいのかもしれない。だが、娘は母に捨てられたという事実を背負ったまま、生きる自信がなかったのだ。これから母はどのように過ごすのだろう。そう思うと、一人で生きるのがたまらなく怖かったのだ。
――列車内は人が多かった。女の行動を目撃したものは何人もいたが、誰も何も言おうとしなかった。皆が彼女の行動を理解し、皆が同じように心を痛めていたからだ。走る列車は轟音を鳴らす。それに紛れて、誰かが言った。
さっきの子が生きていると良いですね。
子を捨てた女は、ゆっくり頷いた。列車は進む。ナチス軍、ユダヤ人収容所へ。彼女の向う新天地に、未来はあるのだろうか。逃がされた娘に、未来はあるのだろうか。その全てを轟音に巻き込みながら、列車は進む。