プロローグ
「今日父さん遅いね、残業?」
「…………」
「母さん? 父さんは残業?」
「…………父さんは、帰ってこない」
僕が聞いていた質問に対しての答えは考えていたほど軽いものではなく、心にずっしりと響く重量のある答えであった。
鈴虫が騒がしく、ジメジメと湿気が肌にこびり付く夜の十一時頃に僕は父親という大切な存在を〝一時的に〟失った。
***
《神隠し》そんなものが、いつからかこの日本には存在していた。
その被害者は突然に姿を消す。決して、人前で消えることは無いという。
僕の父さん――三澄拓海――は五年前に突然姿を消し、神隠しだと言われている。
父さんが消えたその日に、母さんは涙一つ流さず少し笑っていた。誰もが母の姿に驚きを覚えていたことだろう。僕もそうだった。周りから噂されるくらいに。
そんな母に対して、僕はかけがえのない大切な家族を失ったことから悲しみに暮れ、その日はずっと泣いていた。今でも父さんの顔はありありと目に浮かび、思い出すと目頭が熱くなる。
そんな母さんの不自然な態度から神隠しにはただ隠されるだけではなく、他に何かあるんじゃないかと、常日頃思っていた。
――そしてある冬、僕は不幸にも、黒猫に出会ってしまう。
***
少女は黒い対魔法とされたローブを被り、フードで視界が遮らない程度に深く被る。実のところ認識阻害がついている物にすれば少しは楽に動けていたのかもしれない。しかし、流石に対魔法と認識阻害を重ねた特殊ローブにしたとすると長らく愛用してきたこのローブの価格より、かかるシルが悪い意味で違いすぎる。
だからこそ我慢しなければいけないのだが、さっきから周りの目が気になるし、なによりも普段から人前に出ることもある彼女でさえ、今となれば向けられる目は輝かしきものでは無い。
途端、恥ずかしさが増して足が忙しなく動き出す。俯きながら幾分か小走りを続けていると、誰かに当たってしまった。すぐに謝ってその場を去ろうと思い、目線を向けるとそこには、少女の被るローブと似たような色をした人型のフェザがいた。気づけば少女の付ける足は赤黒い土の上にあったのだ。
「だーもう。私はそこいらに居る適当なガキ捕まえてこなきゃいけないの。忙しいの。お前ら雑魚に構ってる暇はないの」
落ち着かない感情のままに言葉をフェザに向けるが、やはり何も返ってこない。
最早、壁に話しかけているも同然である。大きくため息をついてどう対処するか考えようとした途端に黒紫と言うべき色の塊が右腕を強く振り上げた。
考える暇もなく、少女は無造作に展開した緑色の魔法陣から左手で彼女の愛用する剣を取り出す。
その刀身は緩やかに湾曲していて、刃先はかなり尖っている。魔法を乗せて斬る時もあるが故、わざわざ対魔法の素材で作られており、使う度にペルフェットと二日かけてその素材を手に入れた苦い記憶が思い返される。
金色のハンドガードが輝くと共に、左手に握られた愛剣が力強く持ち上がり、左から右へ斜めにフェザを斬る。
赤黒土の上でやたらと白く目立つ刀身は、フェザの右肩から左脇腹を直線上に滑った。そして右に動いた左腕をそのまま水平方向に左へと動かす。更に動いた刀身は両脇腹を綺麗に切り裂いた。
合計三つに分かれたフェザの体は地面へと鈍い音を立てて落ち、やけに黒い紫の粘度の強い液体になる。それらは少女へと滲み寄りながら集合し、また新たな形を再形成する。
次に現れた(というより出来上がった)フェザの姿は頭に小さな耳があり、クネクネと不気味に揺れる尻尾も持っていた。
「あっち」の世界で言う「ねこ」というものだっけか、と思考を改めて掘り返す少女であったが、その思考を肯定したかのようにこちらを睨んだ小動物型のフェザは飛びかかってくる。
身体を小さくすることで刃に捉えられにくくする魂胆と、フェザのような雑魚でも持つケダモノ特有の相手の思考を読むものによる少女のこれからの姿見、これらが今のフェザの姿の根幹と言っていいだろう。
実際にこれから「あっち」へ行く際の姿はまるで今のフェザの姿と同じであった。しかしその姿はこの状況において有利と言っても過言ではなく、それを汲み取ったフェザの行動なのであろう。
などと推測ばかり並べていた少女であったが、考えながらも鮮明に自分の掴める〝風のイメージ〟を創り上げていた。
「あっち」の言葉を借りるに〝ねこ〟の形をしたフェザは、既に少女の胸へと伸ばしていた前足から黒光りする鋭い爪を見せつけるかのように出していた。
そこで少女は肺の空気を強く押し出すと共にイメージに沿った風を具現化させた。少女の双眸はしっかりとフェザを捉え、黄色の光を僅かに放つと共にイメージの具現化をされた風をフェザへとぶつけた。途端、フェザは顔から風をもろに受けて前方に飛ばされる。
飛ばされたフェザから向けられる鋭い眼を嘲るように少女は目を細め、左手へと力を入れて刀身を緑に輝かせた。少女は自身の周りの空気を瞬時に刃へと集めて圧縮し、それをすぐさま解放して剣が反動でフェザへと向かう力を自分の推進力と斬撃の強化に変換して目前の敵へと強く斬りかかった。
もちろん、これだけの距離があれば精確に刃を向けれる余裕もある。そして見事、フェザの喉元から腹部までを剣の中心から先が捉えて本物よりもやや柔らかい肉のようなものを裂いていく。
少女は伸びた左手を止めず、後方から液体が蒸発する音を聞いた。その音を確認した後に再び出現させた緑色の魔法陣に剣を無造作に突っ込む。魔法陣から引いた手にはその剣は無く、自室へと転移されていた。
フェザを斬り捨てた少女のフードが自身の起こした風に煽られて少し持ち上がる。露出した白い頬とその白さに劣ることの無い透明感を持つ金髪が風に煽られ、フェザに対する苛立ちが少し流れた。透明感に長ける少女は、自身の容姿と裏腹な黒く紫が混じった色のローブを常に纏っており、〝シアミー〟という名でペルフェットなどの仲間からは呼ばれていた。
何も残っていない地面を見つめてシアミーは舌打ちをする。そんなことをしたとこで、全てが済んだわけだ。何かが起こるわけではなかった。
「ったく、これでメタだかなんだかのガキが逃げたらどうすんのよって話よ」
少女はすぐさま風の魔法陣を展開して、周囲の風を集めて魔法陣を二つ分ける。分けたそれらを両方の足の裏へと動かして、風を起こす。
それから風を集めて、起こす、集める、起こす――それを繰り返す。そうすることで走るよりもはるかに早く移動することが出来る。
人に見られるかと思うシアミーであったが、流石にこんな赤黒土の広がった場所に誰かがいるかとも思えないし、いたとしてもただのフェザ狩りの三流になる。
そんなのに見られたとしてもフェザにしか目がないペルドル地味た意味もなく狩りをする奴らに他の国やら王女やら戦士やら、そんなものに興味を示すわけが無い。
シアミー自身自覚のある、どうでもいいことまで言い過ぎる癖というものに再び浸ってしまって、意味もなく赤黒土に向かって舌打ちをする。自分自身からから逃げるようにシアミーは手に力を入れて魔法陣への魔力の出力を強めた。
何を血迷ったのか。きっと赤黒土から漂う血とフェザ共の腐ったような異臭が彼女の心を乱していたのだろう。何かと気が滅入るようなこの臭さ、仕事柄よく浴びるもので気が狂うのも無理はない。
そんな場所でペルフェットを通じて暗記した転移の用の高位魔法の詠唱を荒々しく読み上げた彼女の右手には足元にあった魔法陣より明るい、蛍光色と言えるほどの発色を見せる魔子が生成され。魔子の出現と共に足元の魔法陣が軽い風を地面とは逆方向へと吹かせる。
魔法陣の消滅と共に着地したシアミーは手馴れた手つきで魔子を展開させようとする。その時、何か頼まれたことがあったような気がシアミーにあったが、残念ながらも思い出せない。
いや、思い出せたのかもしれない。しかしながら、赤黒土の上で何も考えずに魔子展開を始めた彼女にそんな思考力はあるはずもなく、緑色の光が辺りの赤黒土を強く照らす。
魔子展開は使用すると共に強い光――予光を放つため、転移する時には中々に目を開けない。
高位、そう名付いているだけありマナをごっそり持っていくが故に大きな光を放つ。実際、そんな光が少しばかり使用したマナを無駄にしているとなると、魔法というものに更にウンザリしてしまう。
展開された魔子の予光が収束すると、赤黒土の上には黒いローブの姿はなく、地面が僅かに周囲よりは乾いてるだけであった。
そんな様子を覗くように濁った空に輝くシレラは赤く輝いており、マナが焼かれていくような気分になる。黒いローブは黒い毛皮へと形を変え、硬い灰色の地面へと向かっていた。