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*小説・エッセイ・散文・その他*

梅が香

作者: a i o

「もう咲いたらしいぞ。見に行くか」


 父がそう言い出した時、ああ、もうそんな季節か、と私と母は同じような感想を抱き互いに顔を見合わせた。



 私の父は土竜(もぐら)のような人で、仕事で出掛けているか、仕事のない日は部屋に籠って電子機器──と言っても仕事の延長のようなものだが──をいじってばかりいて、昔から家族揃っての外出など家族サービスの類いを滅多にすることがなかった。

 だけれど、そんな出不精な父が、退職し数年が経つ頃、年に一度私と母をドライブに誘うようになったのだ。

 花見である。

 はじめてその誘いを受けた時は、母と二人でどういう風の吹きまわしだろうかと驚いたが、今や梅の花が咲いたと言うニュースが流れると、父が私達を花見に誘うのは、恒例行事となりつつあった。

 私が結婚し子どもが産まれてもそれは変わらず、その季節になると母から必ず「一緒に行かない?」と声がかかるのだ。

 父の病で予定より早く退職した母にとって、夫婦水入らずの時間は少々ぎこちないものらしい。


 ──確かに、あの家では、私ばかりよく喋っていた気がする。

 いつも乱雑に散らかっていた、昔住んでいた家を思い浮かべ、忙しい両親に何やかんやと話しかけていた幼い自分の姿を思い出す。

 スーパーのビニール袋を重そうにテーブルに置いた、母の疲れた横顔。

 酒を呑みながら、パソコンに向かう父の背中。酔っぱらうと大きくなっていく鼻唄の曲名を知ったのは高校に入った頃だった。




「いいよ。いつ行く?俊明が学校終わる前には家に帰りたいから、なるべく早い時間に出発してくれると助かる」


 私は瞬きとともに思い出を振り払いながら、冷蔵庫から紙パックのコーヒーを取り出しコップになみなみと注ぐ父に声をかけた。

 ようやく入学して一年が経とうとしていても、俊明はまだまだ幼い子どもに変わりない。いつも家にいる母がいないとなるときっとパニックになるだろう。


「じゃあ、明日にしよう。九時に出発だ。敦を連れてくからお前が車を出せ」


 真新しいキッチンの上で、コップに添えられた骨張った手が今にもキシキシと聞こえてきそうで、私は思わず目を逸らした。

 父の退職後、家を売り払って移ったアパートは、小綺麗で私達家族が住む家とも近いけれど、実家と呼ぶには何の思い出も染み着いていなかったので、私には少し居心地が悪かった。


「了解。八時五十分には着くようにするから、仕度しといてね。特に母さん」


「はいはい。大丈夫大丈夫」


 胸にすやすやと眠る敦を抱えながら、母がひらひらと片手を振る。久々の赤ん坊に父も母もそれはもう夢中なのだ。

「あーあ、今寝ちゃったら車の中で大泣きするんだよね」

「だからって、こんなに気持ち良さそうに寝てるのに起こしたら可哀想じゃない」

 母がそう言うと、父はゆらゆらと母の腕に抱かれる敦に吸い寄せられるように近付きその顔を覗き込んで、

「今夜は冷えるから、風邪なんか引かすなよ」

 そう言って目を細め、指先でふっくらとした頬をつつくと、ゆっくりとした足取りで自室に戻って行った。


 帰る身支度をし、玄関先で母から敦を受け取るとずっしりとした重さが両腕にのしかかる。

 母は名残惜しそうに敦の小さな握りこぶしに触れながら、声を潜めて言った。

「あんた、明日お父さんの写真撮ってくれない?ケータイでいいからさ」

「いいけど、なんで?」

「だって、お父さんの写真全然ないんだもの。まぁ、お父さんに限らず家族写真そのものがうちは少ないけどね。何なら私も撮ってよ」

 からりと笑う母に、私は肩をすくめて了承し、父と母の住むアパートを出た。

 どんよりと暗い雲の色を見て、ため息をつく。

「今週はずっと雨、なんだよな。確か」


 ──散らなきゃいいけど。

 そう考えたところで、今更ながら両親と繰り出すドライブを楽しみにしていた自分に苦笑を漏らす。

 いい歳して、何だかなぁ。


「さ、帰ろ。すぐお家に着くからね」

 チャイルドシートに乗せた途端にぐずりだした敦の泣き声に、無理矢理自分の中の親の顔が引きずり出され、家に着く頃には感傷的な気分はすっかり薄れていた。




 その日の朝は、やはり予報通り雨が降っていた。

「小雨だし、北の方はもしかすると止んでるかもしれないわよ」

 おやつに飲み物にと、あれこれ詰め込んだエコバッグをぶら下げた母が、後部座席に乗り込み呑気な声で言う。


「まぁ、大丈夫だろ」

 大体において雨天時は腰の重い父も、今日はそう言って早々に助手席でシートベルトを締めた。


 平日と言うこともあり、通勤ラッシュの時間帯をずらせばドライブは雨の中でも順調に進んだ。

 母の次々と話題の飛ぶ世間話に付き合いながら、目的地を目指す。

 梅は私達が住む街から、高速を使って一時間半の山奥にあった。

 高速に入ると、最初の内は車も多いのだが、走り続けると後続車はぐんと減っていく。

 窓の外を素早く流れる景色は、疎らな街並みから木や草の生い茂る山々へと次第に変わっていった。


「去年は行けなかったからねぇ。梅を見るのも何だか久しぶりな気がするよ」

 ぽりぽりとおやつのスナック菓子を頬張りながら、母が思い出したかのように呟いた。


「そういや、そうだったね」

 一昨年の暮れ、父に悪性の腫瘍が見つかり、あれよあれよと言う間に父は生死をさ迷った。

 もともと持病が悪化していて、これ以上悪くなりようがないと半ば家族全員開き直っていたはずなのに、病院からの呼び出しに私と母は呆れるくらいに動揺を隠せなかった。

 待ち合い室で、二人身を寄せ合い、どうでもいい会話を繋げながら気を紛らわせようとしていたことを思い出すと、ハンドルを握る手が知らず汗ばむ。

 幸いにも手術が成功し一命を取りとめたが、退院する頃には骨と皮だけのような姿になってしまった父に、どうしようもなく胸が痛んだ。

 今はあの頃より随分ましな姿だが、やはり痩せてしまったことに変わりはない。

 ツン、と鼻先に込み上げるものを押し隠し、私は横に座る父に声をかけた。


「久しぶりの梅だけど、父さん、花は見えるの?」

 持病の合併症で目を悪くした父は、(今日は天気が悪く薄暗いので外しているが)普段はサングラスをしている。明るいと見えにくいらしい。


「ぼんやりとね。でも梅は匂いがあるからな」


 目の端で父を見やると、父は頬の皺を深くしてにやりと得意気に笑った。


 高速を降りて海沿いから山に向けて車を走らせる。

 お目当ての梅は自生している木ではなく、その地域の人が観光名所になるよう人工的に植えたものだ。

 とんでもなく山奥にあるので、初めて訪れた時は狭い山道に戦々恐々としたものだ。何せ、土砂崩れも多く、見通しも悪いのだ。

 毎年行くようになっても山道に入ると緊張するのは、仕方ないことだと思う。


「うわ、前から車来ちゃった」


「ほらもっと脇に寄って!」


 母が窓ガラスにへばりついて誘導し、前方から来る車とすれ違うこと三度。梅の植えられた場所まで辿り着く頃には、私の神経はすっかり磨り減ってしまっていた。


 煙るような雨の降る中、急に開けた道の両脇に小さな白い花がぶわりと並ぶ。

 父が窓をほんの少し開け、すん、と鼻を鳴らし、匂いを嗅いだ。

「咲いてるな」


 平日で、しかも雨だと言うのにちらほらと散策する人が見えた。

 皆この雨で散ってしまう前に見に来たのだろう。

 車を邪魔にならないように道路脇に寄せてとめた後、ドライブ中ぐっすり寝ていた敦を片手で抱き、もう片方の手でビニール傘をさして梅の並木道をゆっくりと歩く。


 父が母の持参した派手な傘をさして、私の少し先を小さな歩幅で歩いていた。

 梅の小枝が父の傘にかすかに掛かる。

 父はぼんやりと梅を見ていた。

 次第に父の濁った目が細められ、緩やかに閉じていく。

 匂いを嗅いでいるのだ。

 私はそんな父の姿から目が離せなかった。

 湿った雨に混じり、梅のきりりと甘く、ほのかに透き通るような香りが漂う。

 父はまるでその香りで梅の花の輪郭をなぞるように、長いこと目を閉じ、佇んでいた。

 まるで父の周りだけ時間がゆっくりと流れ、雨の一粒一粒までくっきりと見えるようだった。


「ほら、今よ!あっちゃんは私が抱っこするから、お父さんの写真撮って!」

 母の急かすような声に、ハッと我に戻る。

 敦を母に渡すと、敦はぐずることなくその腕に大人しく抱かれていた。


「父さん」

 そう呼び掛け、振り向いた父に騙し討ちをかけるように、スマホのシャッターを切る。


 父は私に少し眉をひそめて、無言で次の梅の木へと足を向けた。


「どう?撮れた?」

 母が私の手元を覗き込みながら尋ねた。

「うん。一応正面から撮れてると思う」

 撮った写真を呼び出すと、いつもと変わらぬ父の姿が小さな画面の中に収まっていた。

「うん、よく撮れてる」

「どうしていきなり写真なんか……」


 満足そうな母の顔に、胸の内で燻る疑問をぶつける。

「そりゃあ、いずれ見返すためよ」

 母の僅かに下げられた眉尻に、ドクリと血が脈打った。


 母は、父の死期が迫っていると思っているのだ。

 そして、それは正しいと、私は知っている。

 本当はずっと知っていたはずなのだ。それなのに──


 父の目の前でぼんやりと揺れる梅の花が、その香りではっきりと姿を現すように、目を逸らし続けた現実に、どんどん焦点を合わせていく。


 おぼつかない足取り。痩せた背中。

 荒れた肌に、窪んだ目。

 瞳の中でそれでも微かに揺れる光が尽きた時、父はいったい何になるのだろう。

 サアサアと雨の降る中で、いつ散るかもしれない梅を見に行こうと言ったのは、つい昨日のことなのに、父の明日は細い蝋燭の火のように揺れていたのだ。


「そろそろ帰るか」

 父は未練などひとつも感じさせずに、脇目も振らず車へと歩き出す。

 私はただ頷くと、愕然とした気持ちでその背を見つめることしか出来なかった。


 帰りの車で敦は盛大に泣いた。

 泣きに泣いた。

 帰り道にあるショッピングモールで授乳をし、オムツを変えても車に乗せると火がついたようにまた泣きだした。

 私は自分のしん、と冷えたものから逃れたくて、ただただ敦の泣き声がありがたかった。



 両親をアパートで降ろし、家に着いても、胸の内は静かに冷えたままだった。得体の知れない恐怖がまざまざと背筋から泡立ってくる。

 学校から帰ってきた俊明が、甘えるようにじゃれついてきた。

 まだ膨らみを残す頬が、外の寒さで仄かに紅い。

「今日、じいじとばあばと梅を見に行ったの」

 なるべく明るい声で、俊明に話しかけると、くりくりした二つの目が興味深そうに輝いた。


「うめって、梅干しのうめ?」

「そう。梅干しの梅。とってもいい香りなのよ」

「酸っぱい匂い?」

 あどけない問いに思わず頬が緩む。

「ううん。甘くて、優しい香り」


 俊明はきょとんとした顔をして私を見た後、まだぐずがる腕の中の弟に視線を落とした。

「あっちゃんの首になんかついてる!」


 俊明の指差す方を辿ると、敦の首の皺の間に白い花びらが挟まっていた。

 そっと首筋に触れると、敦がグン、と仰向けに反り返った。

 薄い皮膚の下で、力強く脈打つ様がはっきりと目に映る。

 その上で小さな花びらは、それに呼応するようにふるりと揺れた。


「ママ?」

 赤ん坊の小さな胸に顔を埋める母親を、俊明は心配そうに覗き込む。

「ごめん、何でもないよ」

 そうは言っても、なかなか顔を上げられない自分に大きく息を吐く。


 父は見えない花を、香りを頼りに見ていた。

 散っては咲く花の記憶を甦らせて。

 きっと、そう、そう言うことなんだ。


 私はきっと梅を見る度に、父と母を思い出す。


 生きている限り、何度も。

 父が逝ってしまえば、幼いこの子達は父のことを忘れてしまうけれど、父のことを思い出す私を、この子達はこれから先覚えてくれるだろう。


 人は、人に内包される。

 幾重にも。


 だから、父さん。


 敦が喉を震わせ泣き出すと、花びらは音もなく落ちていく。

「ごめんね、苦しかったね」

 敦を抱き上げると、えずきながらも、泣き止んでくれた。

 俊明はほっとした表情で、こちらを見上げている。


「さて、そろそろ買い物に行かなきゃね」


 俊明が早速菓子をねだる声に答えながら、床に落ちた花びらをつまみ、窓を開ける。

 喉の奧をひんやりと撫でる冷気が入り込む。

 指先をそっと離すと、花びらは風に舞い上がり静かに消えていく。

 雨がすっかり上がった空は、淡く紺色を帯び、冴え冴えと白い星が跳ねるように瞬いた。










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