自死についての1つの論
もうだめだと思った。明確に死にたいと思い、実際に死のうと考え、そして行動に移した。
狭苦しい部屋を締め切り、それぞれ一つしかない扉と窓をガムテープで目張りし、簡単に開かないよう洋服棚で塞いで、火事になってしまわないように気を付けながら、百円均一の店で買い込んだバーベキューセットに点火した。
酸素が無くなるまで何をしていよう。起きていると頭が痛いらしい。
練炭は怪しまれるらしいから木炭しか用意できなかったけど、果たして死ねるだろうか、本当に。
自殺は確か、地獄の裁きでもメチャメチャに重い罪だった気がする。
なら死ぬ寸前まで起きて、せめて苦しもうかな。
そんなちっぽけな戒めなんかで地獄が手加減してくれるとは思わないけど、自己満足というやつだ、うん。
バーベキューセットを床から勉強机へ移して、真横に置かれたベッドに横たわる。漫画でも読もうか、スマホでもいじろうか、いや、やめておこうか。十時間もすれば確実に死んでいる人間の、そのわずかな余命に、娯楽なんて。
ああ、今の自分、酔っているな。自己陶酔。ナルシスト。でも別に、イマワのトキくらい、いいじゃないか。
仰向けから、壁の方へ寝返りをうった。白くてくすんだ壁紙。
ざらざらででこぼこなこの手触りがちっちゃいときから大嫌いで、一度壁紙を張り替えたいと打診して、鼻水を拭うのも嫌になるくらい散々に言われたっけな。
くちもとが弛んだ。こんなときにまで恨み節とは。もう、いいじゃないか。死ぬんだから。
壁掛け時計を見た。火を起こしてからベッドに寝転ぶまでに、まだ二分しか経っていなかった。
思いのほか、死というのは足が遅くて、そしておそろしいようだ。
そう考えた瞬間、悟ったような感覚が一気に引いて、頭が冷たくなった。
手足が震えはじめ、寒いような、こわいような、いや、こわくてこわくて仕方がなくなる。
タオルケットを全身にかけ、抱きしめてみる。柔らかでくたびれた布の感触。ちっとも気が紛れなかった。
やめたい、と思った。強く思った。生きたい。
でもこんなことして、バレないとは考えられない。バレたらどうなるんだろう。逃げ道を自分で塞いでしまった。
こんなに準備する前に、あれこれやってみればよかった。
不思議なことに、死ぬことより、死のうとしたことがバレることの方がおそろしかった。涙が出てくるほどに。
どうせ色々噴きこぼして死ぬんだろうからと、タオルケットに顔をうずめた。脚でタオルケットを挟んだ。腕でタオルケットをかき集めた。全身でタオルケットを抱きしめて、全身で縋りついた。
自分の馬鹿らしさに乾いた笑いが込み上げて、泣きながら、啼いた。
泣き疲れて、眠気が湧いてきた。
寝たら死ぬんだろうな。こわいな。こわい。こわいよ。どうしてこんな目にあわないといけないんだ。
***
この日。世界の全てを憎みながら、全人類の不幸を願い、一人の少年が、生を手放した。
そして奇遇にも、全く同じ瞬間に生を手放した者がいた。
それは生にしがみついていた。少年と違い、もがいていた。
それが望んだから、だろうか。神が憐れんだから、だろうか。
とにもかくにも、奇遇ながら、数奇ながら、奇怪ながら、それは延命することとなる。少年のからだを手に入れて。
***
――起きたとき、少年は全身に痛みを覚えていた。
全生物の畏れる死が初めて少年の人生に色濃く影を落とした、あの印象的な記憶を喪えるはずもなく、少年はまず、安堵した。
死んでいない。
死ななくてよかった、本当に、よかった。
悔しいとか惜しいとか、そんなことはこれっぽっちも思わなかった。そもそもが気弱な少年が、自殺未遂を起こしたことこそ異常で、イレギュラーだった。
この期に及んで死に逃げ道を求められるほどの胆力も、少年は持ち合わせていなかった。
霞む目。痛む頭。そしてきしむ全身。痛くて痛くて仕方がない。
だが少年は喜んだ。何もかもを受け入れ、これからは生きよう、がんばろう、神に誓おう、とゲンキンに思った。
四つん這いのような体勢で蹲っていた少年は地に手をついた。
砂利の感触。それから蹴り飛ばされた。
漫画のように吹っ飛ぶことはなく、漫画のように強がれることもなく。無理やり仰向けに転がされた、そのままに、少年は目を見開いた。
浅い息を必死に繰り返して。はやる心臓に激励をおくったりなんかして。
周囲の猿たちを、見た。
猿は六頭いた。
全員、自分よりも大きかった。
少年はハッハッと犬のように舌を出してあえぐ。
降参だ、と示すつもりで、片手をあげた。そして、自分の手を見た。
土埃と血でどろどろに汚れた、とてつもなく毛深い1本の腕と、深く多くしわが刻まれている、異様に長い5本の指を。
少年が次に目を剥いたのは、自分の変化による驚愕でか、繰り出される猛打による恐怖でか。目をかたく瞑っても痛みは消えなかった。
殴られ、蹴られ、引っ掻かれ、言葉がわからなくても直感でわかる、威嚇の叫びに震わされ。
どうして。どうして。どうして!
少年はなんとか四つん這いのような体勢に戻り、腹と頭を守った。誰に対してか、誰にともなしにか、助けを求めて、歯を食い縛りながら。
猿たちの猛攻が止む頃には、少年は虫の息だった。
少年はこれ以上攻撃を受けないようにと、人目につかないところまで這おうとし、傷口を砂利に苛まれ、呻いた。必死に動く。きっと今動かないと死ぬ。本能的な死への恐怖のみによって、突き動かされていた。
なんとか日陰まで進み、石と砂の溜まった窪みに腰を落ち着けた。
歯を食い縛り、体育座りで頭を抱えた。考える。推理する。想像する。
それでも、たった十数年しか生きていない少年には、自分が猿になったことしかわからなかった。それも、とびきりの嫌われ者の、弱っちい猿に。
ごはんはどうしよう。水はどうしよう。
サバイバルするにも、石と砂利しかない坂ばかりのこの場所は、なんにも手に入れられないように見受けられた。
あの猿たちはどうやって生活しているのだろう。ああ、お腹が空いた。死にたくない。死にたくない。死にたくなんかない、絶対に。
先刻の死への決意はどこへやら、少年は幾分鈍くなった脳を必死に働かす。
猿たちがどうやって食べ物を調達しているのかという疑問の答えは、思いの外早くわかった。ここには配給があるらしい。
猿たちは耳をつんざく鳴き声をあげて、それぞれの両手に何やら食べ物を抱えては食べ、食べては食べ物を取り、忙しなく動き回っているらしかった。どこから、誰が持ってきているのかは、薄暗がりにいる少年に知るよしはなかったが。
人生を悲観して自殺したとは言え、少年には長時間絶食する経験はなかった。ただしそれは今回に限って不幸なことである。
生まれて初めての飢餓に晒され、ただでさえ衰弱した体で少年が生き延びられるものだろうか。
少年は耳を塞ぎ、目を閉じ、猿たちの喧騒をやり過ごそうとした。
言葉がわからなくとも嬉しそうだと伝わってくる高い声と、山の向こうに見え隠れする跳び回っている姿を、認識しては心が折れてしまうと考えて。
***
――少年が今日まで生きているのは奇跡だった。
猿たちに幾度暴行を受けただろう。猿たちに幾度食べ物を見せびらかされただろう。
身振りで必死にゴマをすり、投げつけられた食べ残しを頂戴し、少年はどうにかこうにか食いつないでいた。
少年は考えた。『自分』はどうしてこんなに猿たちに憎まれているのか。そして答えはすぐに出た。人間と同じく、仲間意識を強めるためだ、と。
人間は男女で考えに差があるとよく議論されるが、所詮は同じ種族だ。行動に差異は無い。
つまり、自分の意に沿わない同胞は、他の同胞と結束していじめ抜き、その一体感により仲を深めるのに利用する。ただそれだけ。
そしてそれは、多くの野性動物にも見受けられる傾向にあった。
言葉の通じることのない、感情を汲むのも難しい猿たちを懐柔してマトモに暮らせるようになるには、時間が足りなすぎた。
人間だったときにもう少し頑張ればよかったかも。
人間だった頃の思い出は既にほとんど少年の記憶には残っていない。ぼんやりとした悔い、甘い願望、それがどうにか少年の理性を繋ぎ止めていた。
――そして少年は、絶望する。自分にはあの状況は覆せなかっただろうと思い知る。
***
暴行を受けながら、山から離れたところにいる人間たちを見て、その会話を断片的に盗み聞きするのが少年の日常だった。
人間は、少年を憐れんだり、猿たちをせせら笑ったり、人間も同じだと悟ったようなことを言ったりする。
人間の言葉すらも忘れはじめている少年にすべての会話を理解する能力は喪われていたが、猿たちよりはわかりやすかったから。外の世界に思いを馳せる方が、楽で心地よかったから。それを続けていた。
その日、少年が人間たちを窺っていたところ、異常なほどに目につく親子連れがいた。本能が命じているような強制力が、少年の視線を釘付けた。
それに逆らっていればあるいは狂わずに済んだかもしれない、というのは意味のない仮定の話か。何はさておき、少年は見てしまった。
両親に挟まれ、満面の笑顔を浮かべる男の子。
幾度も両親を見上げて大きな声で話しかけ、跳ねるように軽やかに歩いている。暑い日だというのに長袖で、汗でひたいに髪が張り付いていた。
両親は少し控えめながら男の子に笑みを向け、男の子に受け答えをしたり、2人で言葉を交わして淑やかに笑ったりしている。
男の子はその度に2人の手を引いて注目させて、両親は苦笑いしながら優しげに男の子を見つめる。
少年は猿たちからの殴打を無視して、痛みを忘れたように平然と起き上がった。あの親子連れをよく見たくて。
猿たちの動揺を尻目に、いや、視界に入れることすらもロクにせず、目を剥いて凝視する。
素敵な家族だった。お互いがお互いに大切にされているのが一目でわかるほど、平和で、円満で、魅力的で。
どうして『ぼく』があそこにいる。
少年はすべてを呪った。羨望と嫉妬と怨嗟と悪意をこめて、万感の思いで低く唸った。
『男の子』へ。『家族』へ。こんなくだらない奇跡を起こした『神』へ。
擦り付けるように呪詛を唱える。言葉にはならずとも、聞いただけで悪寒に震えるその声に、猿たちは後退りした。
きっと『自分』ではあんな風に真っ当に家族を修復させることはできなかった。歯痒さはすべて怒りとなり、全方位へと向けられた。
人間の脳を手に入れた、過酷な環境で生まれ育った動物だからこそ、上手くやれたのか。
それとも、『ぼく』が特別に劣っていたのか。
生まれて初めての激情に支配され、少年は走りはじめた。
よたよたと足がもつれて歩くこともままならなかった脆弱さは消え失せ、激情に任せて勢いよく山の頂上へ駆け上がり、ボス猿を殴り付けて押しやる。
だれも少年を止められなかった。
呆気に取られ、傍観するしかなくなっていた。
思うがままに少年は哭いた。どの動物より大きく、激しく、狂おしく。
山にいた動物も、外にいた動物も、もちろん人間も、すべてが動きを止めこちらを向いた。その中にあの親子連れもいたことに、なぜだか爽快感を覚えた。
どうせ両親に気づいてもらえるとは思っていない。ただ、1度だけ、度肝を抜いてみたかったのだ。『自分』としてでなくとも。
叫ぶのをやめ、『自分』を睨みつけた。『自分』は目を見開いて固まり、両親の手を掴み縋った。
それが気に入らなかった。
『自分』のくせに、『自分』より両親に近づいてるなんて。身の程も知らずに。恥も知らずに。
歯を剥き出し、拳大の石を掴んだ。
届くだろうか。届かなければ何度だってやればいいんだ。
少年は振りかぶる。『自分』を罰するために。
***
――かくして少年は、処分されることとなる。
どこで間違えたのだろう。何がいけなかったのだろう。少年にはわからなかった。
ただひとつ、ひたすらに、少年は悲哀に身を裂かれていた。
まるで自分の咎を自分に責められていたかのように、最期まで狂おしい激情が潰えることはなかった。
この小説はフィクションです。実在の人物や団体や動物などとは関係ありません。悪しからず。