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向かいのピアノ  作者: 原田昌鳴
4/6

【4】

 夏休みがやって来て、私たちの遊技場である田んぼには青々と稲が伸び始め、その足下の水田では、まだカエルになれないでいるオタマジャクシが稲の隙間を悠々と泳いでいた。

 野球をするための運動場を奪われた私たちは、それでも田んぼに遊技場としての意義を見出していた。幼少期の子供の誰しもが持つ初々しい残虐さで、爪楊枝を使ってオタマジャクシを何匹も解剖し、つまりは殺傷を楽しんだのである。


 この頃になると翔くんはすっかりピアノに興味を示さなくなり、私が向かいの家へと遊びに行っても、だんだん初歩的な曲が弾けるようになってきた幸二を横目に、ボードゲームやテレビゲームにばかり興じた。翔くんのように私の姉たちも同様で、一番上の姉は進学校に入学したいがために塾の夏期講習に足繁く通うようになり、二番目の姉の方は、晴れた日には必ず友達を誘ってプールに行って、日増しに肌を黒く焼くばかりであった。

 たったの数日でオタマジャクシの解剖に飽きていた私は、そんな自分のことを棚に上げ、彼らのピアノに対する執着心の軽薄さに呆れたりした。


 そんな中翔くんは、残虐な遊技の代わりに新たな遊技を見つけ出していた。

 ある昼下がり、翔くんはまるで宝箱の在りかを打ち明けるかのように、周りに誰もいないことを確認し、私にそっと耳打ちした。

「Tアパートのベランダに、女のパンツが干してあるんだ。これ、純くんだけに教える秘密だからね。ねえ、行くでしょ?」

 我々の遊び場である田んぼに面して、その田んぼの地主が建てた二階建てのアパートが突然出現したのは前年の秋のことであった。田んぼの実面積は変わるはずもないのに、そこで遊び慣れた者からすれば、そのアパートの威圧感に田んぼが妙に狭くなったように感じたものだった。

 そのアパートは各階に三部屋ずつある。その一階の真ん中にある部屋のベランダに、女性ものの下着があるのだと翔くんは言ったのである。


 高い位置から降り注ぐ夏の日差しによって辛うじて陰ができたアパートの側面に、二人で身を隠すように窮屈に並ぶと、翔くんが顔を日陰から出して指を差した。

「ほら、あそこにパンツとブラジャーが干してあるでしょ」

「ほんとだね」

 翔くんの顔が紅潮しているのが日陰でもわかった。それは彼の興奮の度合いを計るには足りなかったが、私の方は意外と冷静だった。

 なぜなら私の家の中には、今翔くんが興奮の対象として見ている女性の下着というものが日常的に干されていたからである。私のすぐ上の姉も中学に入学する以前からブラジャーをするようになっていたため、雨の日の居間など、女三人分の下着が幾つも垂れ下がっており、父はよく暖簾に見立て、冗談めいてその下着をくぐるほどであった。だから私には、翔くんほど女性の下着というものに卑猥な意味を感じることができなかった。私にとってその下着は、単に下着であることに違いなかったのである。


 ただし、私にも多少はその下着に恥じらいを感じた。やはりそれは『他人のもの』という前提があるからである。しかし他人の下着というただの現実が、私を翔くんのような行動に移させることはなかった。

「翔くん、どうするの?」

 息を殺した私の問いに、彼は逆に息巻いてこう言った。

「匂ってくるんだよ。純くんも行くでしょ? 代わりばんこにしよう」

「いや、翔くんだけ行っておいで。見張ってるから」

「いいの? じゃ誰か来ないか見張っておいて」

 そう言うと彼はすぐさま隠れていたアパート側面の陰から、夏の日差しに晒された洗濯物の方へと走っていった。

 ザッザッザッと砂を蹴って走り目的のベランダへ辿り着くと、翔くんは一度しゃがみこんだ。そうやって気持ちを落ち着かせ、また辺りを窺っているのであろう。彼の頭の上には洗濯ばさみに吊される上下四組の女性用下着が、干からびたように静止している。


 その時、ある異変があった。

 見張り役である私が体をくっつけている部屋のカーテンがゆっくりと開く音を、私は聞いたのである。私はとっさに手を掛けていたその部屋のベランダの欄干から手を離した。物音ひとつ立てることができなくなっていた。翔くんに注意を促すことも、もはや不可能だった。

 翔くんは私の方をちらっと見て、すぐに立ち上がると、ベランダの欄干によじ登った。顔の高さにある下着をぎゅっと顔に押し当て、息を吸い込んでいるのか数秒静止した後、干されている下着の全てに次々と顔を埋めていった。


 翔くんは私を信用しているからか、異変には気づいてはおらず、ただ遊戯に没頭していた。

 体を凝固させていた私は、いつのまにか体の左半分が夏の日に晒されていることに気づいたが、背中に冷たい汗が流れたことにも気づいた。

 幹線道路を急ぐ車の音が、近くで鳴いているセミよりも耳障りだった。

 やがてそれらの音とはまったく異なる音が、私が体を密着させている部屋の窓から聞こえた。

「なにやってんのかしら、あの子……」

 息を止めて、私はゆっくりと田んぼの方へと体を翻し、忍び足で歩を進めた。

 私は翔くんを置いてその場を逃げ出した。至近距離にいる冷たい声の主にさえ顔を見られなければ良いと思った。またそれは、死角になっている自分の位置からはとても簡単なことであったのである。

 私は田んぼのへりを、バランスをとりながら走った。数度か水田に足を突っ込んでしまったが、無我夢中で走った。大通りまで行けば安心だという根拠のない自信があった。


 結局その日はそのまま翔くんと合流することなく、少し遠くの小高い山の中腹にある神社まで行き、古い鳥居の上に石を投げ、折り返して夕方前に家に帰った。

 翔くんを訪ねて行くことが私にできるはずもなかった。私は彼との約束を破ったのであるから。私は卑怯者であるのだから……。

 ただ私のこの苦悩を和らげる感情があるとすれば『どうすることもできなかった』という、自らに落ち度がなかったことを信じる気持ちだけである。

 しかし私は、帳消しの笑顔の作り方を知らなかった。


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