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向かいのピアノ  作者: 原田昌鳴
3/6

【3】

 家に帰ると、翔くんの家でのピアノ部屋にあたる我が家の質素な居間で、やはり二番目の姉が目を赤く腫らしており、むすっと黙ったままテレビを観ていた。一番上の姉は塾に行っていたために不在だった。父もまだ帰宅していなかったので、おそらく二番目の姉は向かいの家から響くピアノの音を聴き、夕飯の支度をしていた母に噛みついたのであろうが、どうやらこの日も圧倒的に負けたようである。


 姉がこんな調子なので、その晩の食事も陰湿なものなってしまうだろうと予想していた私は、全員が揃い夕飯が始まって初めて、二番目の姉が勘違いをしていることに気づいたのである。

「ねぇお姉ちゃん聞いて! 明美ちゃんとこ、ピアノ買ったのよ!」

「うそっ! ほんと? ねえお父さん、うちにも買ってよ! なんで明美ちゃんの家にピアノが買えてうちに買えないのよ」

 父は娘たちの必死の訴えを、いつもの調子で素っ気なく、効率良くあしらう。

「明美ちゃんとこは一人っ子だろ? うちは三人もいるんだから、ピアノなんか買ったらうちの一家は餓死しちゃうよ。陽子も塾なんか通えないぞ? どうせ三年生になったら景子も塾に行きたいって言うだろ? お父さんは景子も塾に通わせてやるつもりだけど、月謝だって高いんだぞ、なあ母さん」

 こんな時の母は、溶けることを知らない氷のように冷たく厳しい。

「何度頼んだって、買えないものは買えません」

 口々に愚痴をこぼしながら、二人の姉は雑に夕飯をかき込むと、さっさと二段ベッドのある玄関脇の部屋へと連れ立って行った。


「ピアノのせいで餓死なんかしたら純一だって迷惑な話だよな」

 父に「餓死ってなに?」と訊くと、「何も食べるものがなくなって、お腹が減って死んじゃうことだよ」と言った。

 すると、そのやりとりを聞き終えた母が、私に意外なことを言った。

「純一、ピアノ、翔くんのうちでしょ?」

 母のこの鋭い感覚に、私はとても驚かされ、黙って頷かざるを得なかった。私は胸の内にある罪悪感を母に見透かされているような錯覚に陥った。

「どうせすぐに陽子にも景子にもわかっちゃうことだから、お母さんがなんとなく二人に言っておくわ。純一はなにも気にしなくてもいいからね」

 やはり母は私の心を見抜いていたのである。その証拠に、私の中にあった罪の意識は母によって不必要なものだと教えられ、すっかり消えていた。私には、母が善良な魔法使いのように見えた。

 母親というものは、息子の表情に現れた暗く陰鬱な影を瞬時に見つけ出し、それを取り去りさらなければならない使命があるのかもしれない。母はそれを忠実に実践しただけかもしれない。ただ父親という忙しい者には、そのような鋭敏な感覚はなく、また母親のように使命を全うすることはできないのである。

 その時も父は、ただ笑っていただけだった。


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