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向かいのピアノ  作者: 原田昌鳴
2/6

【2】

 その日は梅雨の静かな雨がより一層夕刻を暗くしていた。

 もう夕飯の準備をしているのだからという母の言葉を振り切って、私はボードゲーム目当てに向かいの翔くんの家を訪ねて行った。


 翔くんの家までの、そのたった数歩の間に、私は不意にピアノの音を聞いた。音のない雨の中に、ぎこちなく下手くそな音が響いていたのである。

「翔くん」と呼びかけて間もなく玄関が開くと、より一層ピアノの不揃いな単音が耳に深く入った。

「ああ、純くん。ねえねえ、今日ピアノが来たんだよ。お母さんが幸二に買ったんだ。見てみたいでしょ?」

 私は興奮して頷いた。しかし瞬時に、単純な違和感が胸に広がった。

『男の子がピアノ?』

 翔くんの母が翔くんの弟に買い与えたピアノという高価な代物が、私には不自然に思えてならなかった。

 というのも、私の二人の姉はずっと以前から両親にピアノが欲しいと訴え続けていて、「そんな高いもんが買えるわけがないだろ」と父や母に突っぱねられるたびにあれやこれやと理由を並べ、どれだけピアノが欲しいかを説いたが、最終的には二人揃って両親を睨み付けながら号泣するのを、いつも私はぽかんと眺めていたからである。

 つまり私は、ピアノというものはとても高価な少女の遊び道具であると認識していたのだった。だからこそ男兄弟二人だけの翔くんの家がピアノを調達したことが私にとって不自然であり、またその単調なピアノの調べが、我が家の女性陣の嫉妬を誘発するであろうことは容易に想像できた。そしていくらぎこちないとはいえ、その調べの繰り返しが続けば続くほど姉たちの嫉妬心が増殖していくことは、ピアノを欲していない私にも怖いほどにわかるのであった。


 玄関を上がって左側の居間に、安っぽい電灯を豪華に反射させた黒いライトアップピアノがあった。椅子だけはダイニングのものを用いたのであろうか、ピアノの黒と不釣り合いな木目の足の長い椅子に、まだ幼稚園に通う幸二が座り、まったくデタラメに白い艶々した鍵盤を叩いていた。私は『これが女の子にとっての遊び道具か』と思いふけり、幸二が鍵盤を叩く様子を眺めた。真っ黒い鏡のようなピアノの胴体が、無表情な私のうつろな顔を映していた。

 幸二のために購入されたピアノは、当然翔くんの興味をも充分に惹きつけた。翔くんはいつもの柔らかい調子を捨てて強固な兄に変わり、自分にも弾かせろと幸二に迫ると、「僕のピアノだもん!」と兄の介入を嫌がる弟にとうとうゲンコツを喰らわせ、泣かせ、椅子を奪った。

 幸二の叩く力よりももっと大きな力で、翔くんは乱暴に鍵盤を叩いた。そしてあの消しゴムの役目を担う柔和な笑顔とはまったく異なる、独裁者の狂乱のような笑みをその表情に浮かべていた。

「面白いでしょ。純くんにも弾かせてあげようか?」

「いや、いいよ」

 私は翔くんの善意を弱々しい口調で断った。


 本当の胸の内を明かせば、翔くんにもピアノを弾いて欲しくなかったのである。もちろん幸二にも、翔くんのお母さんにも、誰にも弾いて欲しくなかった。私はとにかく、翔くんの家からピアノの音がすること自体に嫌悪を感じていたのである。

 そろそろ二人の姉が中学校から帰ってくる時間である。向かいの男兄弟だけの家から響くピアノの音が、目と鼻の先にある我が家に届いているのは間違いなく思われた。当然姉はこの音を聴くことになる。

 私はピアノの横にある窓を少し開き、自分の家を覗き見た。ピアノのある家に面した窓には、すべて薄紅色のカーテンが引かれ、それはまるで防音の役目を果たそうとしているかのようであった。

 ピアノを欲する家の住人である私が、ピアノのある他人の家にいることがそれだけで罪に感じられ、その居心地の悪さといったらなかったので、私は一刻も早く翔くんの家を出ようと考えた。

「翔太! なんで幸二に意地悪するの。ピアノ教室なんか行きたくないって行ったのはあなたじゃないの。弾くんなら順番に仲良く弾きなさい。せっかく来てくれてるんだから、純くんにも弾かせてあげなさいよ。純くんごめんなさいね」

「あ、僕、もうご飯なんで帰ります」

「あらそう? またいつでもいらっしゃいね」

 泣きやんだ幸二と一緒にピアノ部屋にやってきた翔くんのお母さんは、私とこのような会話を交した後、翔くんがいつもやる、あの落ち度を帳消しにするような笑顔をした。一度ピアノを弾くのを止めて私を見送った翔くんも同じように笑った。彼の笑顔が母譲りであることを、私はその時靴を履きながら初めて知った。


 雨はさきほどと変わらず、音がなかった。

 私はその静かな雨がまったくピアノの音を妨げる役目を果たさなかったであろうことを、心底憎らしく思った。たった数歩で辿り着く目の前の我が家が、この日は遠くあって欲しかった。


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