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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

この気持ちは故意ではなく……恋!

作者: かげる

 この地域には最近、通り魔が多発している。被害者はいずれも男子高校生。警察は犯人の行方を探している。

 しかし翔川逢(しょうかわあい)。彼女が現行犯で逮捕されるのは時間の問題だった。なぜなら彼女が問題だからだ。


 早朝。男子生徒が歩いて登校していた。

 目の前から食パンをくわえて走る女の子の姿を発見する。よく見ると走っている。

 彼女は口をモゴモゴと動かす。

「おはようご」

 と言った瞬間、身体は衝突した。

 男子生徒を車道に突き飛ばしたのだ。

 近くにいた警察官に取り押さえられ、彼女は警察署につれていかれた。

 署内で尋問をされた。

「なんでこんなことをしたんだ。毎朝通り魔のように男子生徒にぶつかって!」

「通り魔ではありません」

「故意でやったんだろ?」

「これは故意ではありません。“恋”です」

「は?」

「だから故意ではありません。恋です。恋の始まりは朝の衝突からです。お(まわ)りさんは少女漫画は読まないんですか?」

「……今どきの少女漫画でそんな展開、なかなかないと思うけど」

 取り調べ室で、目を爛々と光らせている姿に警察官は嘆息をもらした。

「朝に食パンをくわえながら男子高校生とぶつかる! これこそが王道の恋の始まりというやつじゃないですか! それをあなたは犯罪行為だというのですか?」

「ぶつかって全治二週間の怪我をさせたら犯罪だよ。わかってないのは君だ。反省したらどうなんだ? 怪我をさせた子に謝りたくはないのか?」

「ふ……恋に、怪我は付きものですよ」

 少女は(かたく)なだった。

 故意にぶつかったわけではなく。

 恋のためにぶつかったのだと。

 言い訳は聞きいられなかった。

 こんなの聞きいられなくて当然だが、彼女にとって当然ではなかった。

 恋のためなら誰にでも『ぶつかる』。

 それが当たり屋としての当然だ。

 当たって当然。

 怪我して愕然(がくぜん)

 しかし。

 謝罪して当然ではなかった。

 恋のために彼女はぶつかったのだ。

 故意に怪我をさせようとは思っていない。


 彼女の通う学校は丘の上にある。自転車通学の生徒は手押しで歩いて上がらないと前に進めないほどの急な斜面の坂がある。

 その坂を走る生徒がいた。

 翔川逢だ。口にはパンをくわえている。

「速く行かないと遅刻しちゃう!」

 大股の全速力。

 ターミネーターもびっくりの豪快な走り。

 走りながら登校中の生徒を次々と追い越していく。その中に目当ての先輩はいない。

「ち。まだか。まだか先輩は!」

 息を切らしながら、彼女は走る。坂を上がり切り、立ち止まり、左右に首を振る。そこでついに、登校途中の登校が終わる直前の先輩を見つけた。

 その直後。

 腕時計が装着されていない手首を見て、

「あ、やばい! もうこんな時間!」

 と声をあげた。そして、あのターミネーターもびっくりの急発進、急スピードを見せたのだ。口にくわえたパンが引きちぎれそうだ。

「きゃあ!」

 と言ったあと、ぶつかる。もう少しで昇降口の下駄箱にたどり着くはずだった先輩は、力の作用により、昇降口の下駄箱にたどり着けなかった。身体は一瞬宙に浮き、その次の瞬間には

「ぐふぇ!!!!」

 頑丈な白壁に叩きつけられていた。先輩は白目を向いて、気を失っている。

「先輩! 大丈夫ですか? ごめんなさい。私ったらおっちょこちょいなんだから……」

 おっちょこちょいでは済まされない、ぶつかり方だったが、それをとがめる人間はこの学校にはいなかった。女性に寛容な学校だったのだ。

 恥ずかしそうに(うつむ)いて顔を隠しているが、肝心の先輩は気を失っているので、その行為はほとんど意味がなかった。

 先輩の様子がおかしいと思い、翔川逢は顔をあげた。

「え。せ、先輩!? どうしちゃったんですか!? 救急車……救急車をよばなくちゃ」

 周りに人がいなかったため、(みずか)ら電話をして救急を呼んだ。

 この騒動にだんだん人だかりができてくる。

「翔川……またお前か。今月で何回目だよ」

貫山(ぬきやま)先輩! いえ、これは違うんです! けして二股をかけていたとかそんな」

「おい、なんの話しだ。事情聴取される前にさっさと教室に戻れ」

「はい! 貫山先輩! 貫山先輩かっこいい!!」

「お前にかっこいいと言われる筋合いはない」

「了解しました!」

 彼女はピシッと垂直に手を上げる。そして、教室に向かって行った。彼女はあまり、女性に好かれないタイプの人間なので教室に行くのは億劫だった。先ほどとは正反対の重い足どりで、教室に入る。

 教室に入ると、誰からも挨拶をされない。彼女の方からも、誰にも挨拶をしなかった。自分の机に鞄を置き、教科書や筆記用具を机のなかに入れた。

 椅子に座る。

 騒がしい教室からうみ出される孤立。

 彼女はさみしい気持ちになった。

 自分だけ浮きぼりされたような。

 孤独。

 彼女が女子生徒に嫌われるのには理由がある。あまりにも、気になる異性にぶつかり過ぎなのだ。しかも、イケメンに限る。イケメンは女性にモテる。つまり女子生徒が付き合いのある、否、付き合っているイケメンの男子生徒にぶつかりフラグをたてることは、彼女らに『敵』意識を芽生えさせることになる。

 翔川逢は少し鈍い。

 嫌われる理由がわかっていない。

 孤立する理由がわかっていない。

「あんたさぁ。いったいどういうつもりなのか知らないけど、きやすく彼氏に話しかけないでくんない? 」

 その日の下校時に、教室で彼女と仲良くない奄美(あまみ)が注意した。彼氏とは貫山先輩のことを言っているらしかった。

 にらみつける奄美に「うん。そうだね」と返事をした。なにが『そうだね』なのかは本人もわかっていない。そっけない返事に気を害したのか「ふん!」と奄美はわざとらしい大きな声をあげ、すぐに教室から出て行った。

 閑散とした教室。

 机にうずくまり、顔を隠して彼女は泣いた。

 その姿を見ながら、教室から残りの生徒達が廊下に出て行った。一人になり、独りになり、彼女も椅子から立ち上がる。

 そして、翔川逢も教室を出た。涙目を何回も拭いた。(そで)が湿っぽい。

 渡り廊下を歩いていたら、誰かが声をかけてきた。にやにやと笑い顔を浮かべながら、ポケットからなにかを出している。布だった。

「ん」

 翔川逢は桃色の刺繍(ししゅう)が可愛らしいハンカチを手に受け取る。

「貫山先輩かっこいい! 貫山先輩! 貫山先輩! 貫山先輩はなんでこんなにかっこいいの?」

 鼻水を布にこすりつける。そして「ふんっが!」とまるでティッシュで鼻をかむように多量の鼻水を噴出した。

「やめろ。きたないだろうが」

 少し怒った。

「先輩のぬくもりが布ごしに……ふんっが! ふんっが! ふんっが! ふんっが!」

 ハンカチが鼻水で残念なことになっている。

「それいらない。返さんでいいからな」と言いながら渡り廊下を渡って行こうとした。

「あ、先輩! 忘れていますよ! 恋のハンカチーフ!」

 彼女は先輩を追いかける。ターミネーターもびっくりの速さで、腕を思う存分に振る。

「あ、先輩危ない!」

 と言いながらぶつかる。

「いってー! 頭突きすんな。本気でやめろよなお前! 洒落になんねーくらい痛いんだぞ!?」

「ふ。仕方がありませんよ。痛いのが恋……なんですから! はい」

 ハンカチを渡すことに成功した。残念そうに受け取る。

「……」

「むふふふ」

「……びじょびじょ」

「ありがとうございました。先輩のおかげで嫌なこと、すっかり忘れることができました!」

 頭を深々と下げる。貫山先輩は「あ、ああ。いつものことだし……それじゃあ俺は部活があるから」と言って曲がり角を境に消えて行った。それを名残惜しそうに見つめる。

 彼女は帰ることにした。下駄箱のところまで行き、靴に履き替える。そこで女子生徒の声が聞こえてきた。

「まじ嫌い。男子に()び売っててさあ。なんなんあいつ」「それそれ」「ありえなくない? それであいつがさあ」「それやばいね。くす」

 靴に履き替えたら、あとは、学校から出るだけだ。学校から出れば、自由になる。

 翔川逢は泣かないで、帰り道に向かって歩いた。それはしっかりした足どりで、はたから見て頼もしく見えるものだった。たとえ心が傷ついていても明るく見える。

 それが翔川逢の強さであり、弱点だった。強そうに見えるから、陰口を言われる。ここまで言ってもいいだろうと計算をして、仲間同士で彼女について談笑を始める。

 彼女はいくつもの傷をつけてきた。

 空虚な気持ちでカラ元気。

 辛いけど、笑う。

「ふふん♪」

 鼻歌交じりに、家に帰った。

「ただいまー。お母さんいるー? 今日ね。学校はすごく楽しかったよ!」

「そう。それはよかったわね」

「うん!」

 母親は彼女の話を楽しそうに聞いた。

 にこにこと幸せな表情を浮かべている。

 そんなお母さんが翔川逢は大好きだった。

 安心できる場所がある。

 自分を受け入れてくれる場所がある。

 それだけで彼女は満ち足りた。

 しかしいつかは。

 満ちた波も元の位置に帰る。

 彼女の気持ちは不安定だ。

 荒波のように激しく変動する。


 次の日も翔川逢は朝の登校からはりきっていた。

 目当ての人とぶつかるためだ。

 校舎の影に隠れて身を潜める。

「ふふん♪」

 陽気に鼻歌を口ずさむ。すでにミッションは始まっている。背を壁に預けて、曲がり角から目的の先輩を探していた。手には双眼鏡を持っていた。やがて双眼鏡のレンズ越しに、校門を通過したばかりの先輩を見つけた。

「むふふふ。今日は、どんな出合頭であいがしらに頭突きしようかしら」

 口からよだれが、出てしまったが、彼女は気にすることはなく、クラウチングスタートをした。

 もはや、これは陸上の競技なのかもしれなかった。

 翔川逢のターゲットにされた不運な男子生徒は、視界の隅でものすごいスピードで突進してくるいのししを見た錯覚をおこしがらも、それが人間だとわかった時点で、危機感を一層に高めて、

「う、うぉぉぉぉぉっ!! なんで、俺が、追いかけられてんだぁぁぁぁ!?」

 と叫びながら、手をパーに広げながら、全力疾走した。こちらもターミネーターもびっくりの豪快な腕の振りだった。血相を変えて、青ざめている彼の名は佐佐山。「おはようございますせんぱーーーーい!」と背後から走りせまってくる者に恐怖していた。

 結果、校門から出て、来た道を逆走する形になってしまった。白いガードレールを飛び越え、曲がり角で距離を離そうとするも、まったくの無駄だった。

「待ってくださいよぅ。逃げるなんて酷くないですかーー?」

「いや、追いかける奴が一番酷いっ」

 と言い終わるまでに、衝突した。彼の身体は宙に浮き空の彼方に消えた。一瞬だけ光り、キランという効果音がした気がした。

「おはようございます先輩! ってあれ、どこ行っちゃたんだろう」

 佐佐山は天国に逝った、かもしれない。

 しかし彼女はそんなことに思いいたらない。

「まったく。勝手にいなくなるなんて酷いですよ」

 いなくなるというか、亡くなったのかもしれないが。

 翔川逢が学校に戻ってみると、救急隊員が担架で人らしき原形のものを運んでいた。なんと、彼は生きていたのだ。吹き飛んでいった先が、学校のプール内だったのが良かった。彼は一命を取り留めた。

「あ、先輩。その怪我! いったい何があったっていうんですか!」

「……もう、何も言うま、い」

 彼は口とまぶたを閉ざし、全身の力を抜いた。なんだか永遠の眠りについた、感じになった。

「せ、せんぱーーーーい!!」

 先輩の身体を強引に揺さぶる彼女を救急隊の人達が迷惑そうに見つめていた。担架で運ぶのに邪魔になっているのだ。

 救急車のサイレンを聞いて、人の往生際を体感した気になった翔川逢の肩に手を置く者がいた。

「自首しような」

 貫山先輩だった。

「せ、先輩は、いつも私をそうやって、なぐさめてくれるんですね。ありがとう、ございます。ぐすっ」

 両手のひらで顔をおおった。

「おい難聴か?」

 貫山先輩は心配した。

「大丈夫です!」

 なぜか、彼女は左手を敬礼のポーズにしていた。

 その様子を物陰で、見ていた男がいた。

 それは——僕だった。実は、今まで彼女について描写していたのは僕が、物陰で全部、見ていたのだ。別にストーカーというわけではない。たぶん。

 僕は、盗み聞きをした。

「貫山先輩! 貫山先輩かっこいい! なんでそんなに貫山先輩はかっこいいの!?」

 べた褒めだった。なんとなく羨ましい。

 彼女とは同じクラスメイトではあるのだが、仲が良いってわけではなく、仲が悪いわけでもない。つまり、無関心だ。僕は、彼女に関心を持たれていない。彼女に関心があるのはもっぱら、イケメンの先輩のことばかりなのだった。別に、どうでもいいけど。

 

 やがて教室に、彼女がやって来た。朝礼までになんとか間に合ったようだ。視界の隅に、その存在を感じた。

「寄り道してたらもうこんな時間。やれやれだぜ」

 と、つぶやいているのを聞きながら、笑いをこらえるのが大変だった。彼女はこのクラスで、孤独を感じているはずなのだが、そんな素振りをまったく見せない。

 つい最近では、学生鞄を掃除用ロッカーに隠されていたのが印象に残っている。あの時も、彼女は平気そうな顔で、どうってことない素振りをしていた。

 なぜそんなに強い振りをするのだろう。なぜ誰にも助けを求めない。そんなの絶対にダメだ。もしくは僕がダメなのかもしれない。クラスがダメなのかもしれない。学校がダメなのかもしれない。もちろん加害者がダメなのは言うまでもないことだけれど。

 僕は笑った。

 今日も彼女は先輩を見つけては、衝突を繰り返していた。先輩とのフラグを立てまくっていた。

 下校時間。ふと、視線だけ動かすと、教室から彼女の姿がなくなっていた。僕は、急いで階段を下りた。

 踊り場で、誰かが倒れていた。

「う、だ、誰か」

赤上あかがみ先輩……」

 またもや、先輩が被害にあったみたいだ。

 なぜ、こうなった。僕は、見るも無惨な重体(重傷より酷い)の先輩の腕を肩に回して、保健室に連れていった。

 僕は、彼女の行方ゆくえを探すことにした。

 赤上先輩の話しによると、階段を下りていったようだ。逆にいえば、それ以外わからなかったということだけれど……。

 よし。行こう。探しに。

 まずは下駄箱に彼女の靴があるかどうかを確かめに行くことにした。もしかしたら、もう下校している可能性もある。と、一階の角から昇降口の方を見やると、そこに翔川逢がいた。目をギラギラに輝かせて貫山先輩と会話をしている。

 僕は、視線をそらした。意識してないふりをしながら、下駄箱に近づく。そこで、彼女がひたすらしゃべり続けているのわかった。先輩の方は、ずっと合いの手を入れている。

「ちょっと先輩。聞いてくださいよう。今日の理科の授業で急に先生が『四人一組で好きにグループをつくってください』って言いだしちゃったんです。それで私ってクラスの人気者じゃないですか。だから、私の手の引っ張り合いっこが始まって大変だったんですよー。それで、しょうがないから、私が一番仲がいい子を選んで一緒の班にするって決めた途端、その子、すんごい嬉しそうな顔をしてはしゃぎだしたんですよ。やばくないですか。私って超人気者じゃないですか」

「お、おう」

 お、おう、と僕でも合いの手を入れるだろう。というか彼女は、その理科の時間、グループに入れずにずっと一人だったはずなのだが……。彼女の脳内にどんな記憶のすり替えがおきているんだ……。

 さらに、彼女は早口でまくしたてる。

「あと、最近、誰かにあとをつかれているような気がするんですよ。やっぱ、あれですかね。私ってこの学校の深窓の令嬢みたいなポジションじゃないですかー。窓辺で読書してるような清楚せいそで上品な女の子じゃないですかー。帰りは執事が黒い車で迎えに来てくれるじゃないですかー。そういう普通とは一線を画する存在だから、逆に興味が湧いて、ストーキングされたりするんじゃないかなー。なんて」

「そ、それはちが」

「そうですよね。その通りですとねー。私って、無意識の内に、誰もが羨む完璧な女の子になっちゃってたんですよね。はあ。気をつけないと、いつかその羨む気持ちが嫉妬に変わってしまうわ」

 ……貫山先輩の否定が断ち切られた。『それは違う』って言いたかっただろう先輩が不憫だ。

 ……深窓の令嬢。お前のどこにそんな要素があるっていうんだ。

 令嬢というより、ただの無礼だ。

 信頼と実績を兼ね備えた無礼だ。

 彼女は、まだ話し足りない様子だったが、貫山先輩が痺れを切らして、一方的な会話から逃げた。

 しかし、あの翔川逢が逃すはずもなかった。

「せ、先輩。待ってくださーーーー」

 い、と言い終えるまでの刹那。

「ぐふぅっ!!」

 と頭突きをくらった貫山先輩は、勢いよく上方に吹き飛んだ。竜巻の旋風に呑み込まれたみたいにくるくると回り、天井を次々と突き破っていった。天井には、人の形が抜き取られて空洞になっている。

「……」

 呆然ぞうぜんとした。なんだこの……うん、なんて言っていいのかわからなくなる感じは。思考が停止してしまった。これはもはや、人間をやめている。

 僕は、貫山先輩が可愛そうになった。

 愛すしと書いて可愛そうだ。

「あれ、先輩? どこいっちゃったの先輩?」

 翔川逢は相変わらずだった。先ほどまで相対していた貫山先輩が消えたことに、ただ驚いていた。いや、それ振りだろ。本当は気づいているのに、天然をよそおってるんだろ。そうでないと、もう、僕は彼女にストーキングする自信がない。一歩間違えるだけでいつ人を殺めてもおかしくないような怪物が、まさか、無意識にあれほどの暴虐な行為を働くことができるのかと思うだけで悪寒がして鳥肌がたちそうだ。

 これ以上は彼女の好き勝手にさせてはいけない。

「あの……翔川さん?」

 彼女は昇降口の出入りの狭間に立ったまま、振り返る。僕はビクと大胸筋がこわばった。あとドキと胸が高鳴った。よくよく考えると高鳴ったのは胸ではなく、心臓だった。心臓がバクバクいっている。

「あれ、誰? きみ。知らない顔だな。もしかして転入生?」

「……」

 そして、僕の心は冷えていった。同じクラスだ。なのに、全く認知されていない、だと。そんなことって……あるのか。

 少し首を傾げて、不思議そうな顔をして、僕を見ている。もう切り上げて教室に帰りたい気分だった。

「ねえ。きみ、先輩どこ行ったか知らない? 私、貫山先輩がいないと生きていけないの」

「そ、そうなんだ。せ、先輩はお空のお星さまに」

「あ!」

 お星さまになって消えたよ、と最後まで言わせてくれなかった。なにを見つけたのか、翔川逢はなにかを追いかけていった。たぶん、先輩だろう。

 僕は下駄箱に取り残された。

 げ、タバコの吸い殻が床に落ちてる。

 ……僕の名前を彼女は知らないみたいだ。

 僕の名前は足利韻之介あしかがいんのすけ

 趣味は、韻を踏むこと。合法的なストーキング。

 僕は空洞になった天井のを一瞥いちべつしてから、教室に戻った。

 教室に戻って、席に着くと、女子達の話し声が聞こえてきた。「ねえ、聞いて。またあいつ先輩にこびを売って、馴れ馴れしくしてるのよ」「はあ? まじウザいね」「それそれ」「あいつ自分が一番可愛いって思ってるんじゃねー」「ああ。あれ自己中なとこあるからねー。自分が中心に世界が回ってると思ってるんだよ。きっと」「わかるわかる」「前にあいつの鞄がロッカーに隠されたことあったじゃん。あれやったのうちなんだよね」「まじウケる」「あー仕方ない、翔川さんだから」「あはは」「あはは」「それそれ」「わかるわかる」「超ウケるんだけど」

 やがて、教室に翔川逢がやってきた。

 それだけだった。

 流し目で彼女が椅子に座るのを見遣みやった。先ほどの、キラキラした目はなかった。教室だと、いつもこうなのだ。教室に貫山先輩がいれば、よかったのに、と僕は思う。沈んだような伏し目で彼女はじっと静かにしていた。

 僕はやるせなかった。力になれない自分が、悔しくて何度も握りこぶしに力を入れた。

 こんなとき、正義の味方がいれば、と思う。だけど、学校に正義の味方はいない。残念だけど、それは真実だ。あるのは各々(おのおの)の都合だけで、僕のような非力な人間にできることなんて、ほとんどない。

 できることならば、いい人になりたいと思う。

 彼女のとって都合のいい人になりたいと願う。

 だけど、そんなのは僕のような傍観者ができるわけがないのだ。そんなことわかってる。

 僕は、放課後、貫山先輩の教室に向かった。相手は少し驚いた様子で「なにか用?」と聞いてきた。

「あの、つまらない話しなんですけど……」

 そう切り出して、僕は願いを話した。どうか、彼女にとって絶対的な存在であってほしい。学校で出来るだけでいいから、支えになってほしい、と僕は言った。

 先輩は神妙な態度で聞いてくれた。聞き終えてから「出来るだけなら、そうだな。力になるようにはするよ」

 と返事をしてくれた。

 やはり、いい先輩だ。

 都合の、いい先輩だ。

 ありがとうございます。僕が頭を下げると「お前、すごいな」と先輩の独り言が聞こえた気がした。すごいのは貫山先輩の方だ。学校にいるだけで、どれだけ彼女の支えになっていると思っているのだ。僕なんか、ほとんど役に立たないいてもいなくても同じだっていうのに。

 僕は軽くお辞儀をして、この場を離れた。

 その後、貫山先輩は僕の言った通りに、翔川逢に積極的に関わっていくようになった。この教室にまで、先輩は顔を出してくれるようになった。そこでも僕はまったく無関係な振りをして、いつものように机の上で読書をした。

「あっ! 貫山先輩!! マイプリンス!! 最近どうしたんですか? よく教室にくるようになりましたねー。あれ、これはもしや! 先輩にとっても私はかけがえのないプリンセスだったって訳ですかそうなんですねわかりますその気持ち!」

「えっ?」

 先輩はあからさまに困惑していた。ごめんなさい。僕が悪かった。教室なんて、こんな注目を浴びやすい場所で彼女と出会うことが、もう終わっている。

 公開処刑もはなはだしい。

 交会処刑も甚だしい。

 後悔初見も甚だしい。

「さあ! この忌まわしい教室から私をさらって助け出すのよ! へい! マイプリンス」

 教室の中央で、腕を大袈裟おおげさに突き出していた。誰に突き出していたのかを明示すると、もちろん貫山先輩だった。劇中のロミオとジュリエットみたいな図になっている。……いや、ロミオの方は引きつった笑みで、棒立ちだった。

「さあ、いつものように私の手を引いて、楽園の彼方に連れていってちょうだい! さあ! どうしたの? いつものようにできないの?」

「……」

 誰か、どうか貫山先輩を助けてほしい。

 傍観者と同化した僕では、なんの役に立たない。

 どうか、誰か、助けてくれ。このままでは、貫山先輩に癒えることのない心の傷ができてしまう。

 もう、いい。僕が、口を出そう。

「先輩、逃げて!」

 僕は久しぶりに怒声に似た大声をあげた。途端、貫山先輩は、反射するように早く行動をおこしていた。廊下から一目散に一直線に全力で走って、逃げた。

 いいぞ。そのままいけば、逃げられる。そう予測した僕の考えは浅はかだった。翔川逢は一秒ほど呆気にとられていたが、すぐに、追跡スイッチをオンにした。ただいまより、彼女と言う名の弾道追跡ミサイルが発射される。3、2、1……GO!! というアナウンスが校内放送で聞こえてきた気がしたのは絶対に気のせいだった。というか、僕の耳のせいだ。幻聴だ。

「この私が、先輩を逃すかよ」

 とても、格好いい台詞せりふをはきながら、しかし、やろうとしていることは非人道的な体当たりだった。

「あ」

 僕の目の前から二人の姿はあっと言う間に見えなくなった。いや、実際にはあっと言う前にはいなくなっていたが、そんな詳細はどうでもいい。僕は彼らを探しに向かった、僕も走る。橋はないけど、走る。と、つまらないことを思っている内に、絶叫が聞こえた。

 貫山先輩の声だ。叫喚きょうかんだった。僕はその叫び声に共感できなかった。僕は翔川逢に追いかけられたことがないからだ。

 やがて、叫び声がぴたりと消えた。どうやら、決着が、ついたようだ。

 きっと現場は阿鼻叫喚あびきょうかんちまたと化していることだろう。先輩が頭突きされ、生命維持に深刻なダメージを受け、体内の胸間きょうかんや五臓六腑をき散らしているさまが安易に想像できる。今ごろ心肺が停止しているんじゃないかと心配だ。その可能性を否定したい。

 もう遅いかもしれないけれど、僕は先輩の身を案じ、走る足を速めた。

 渡り廊下に差し掛かったところで足を止めざるを得なかった。なぜなら、足場が崩壊していたからだ。

 向こう側の建物を繋ぐための渡り廊下が断裂していた。もはやこれを、渡り廊下とはいわない。渡れない何かだ。もはやこれを廊下とは形容してはいけない。

 僕は、色々なものを見なかったことにして、小さく回れ右をして、引き返すことにした。そこで、

「先輩! 絶対に逃さねーよ」

 と、足を踏み鳴らす音が聞こえた。下の階からだ。崩壊した渡れない何かから下を覗くと、翔川逢が見えた。しかし、貫山先輩は見えなかった。もう天に召されたのかもしれない。そう思ったらとても超罪悪感を感じた。

 急いで、近くの階段を下りた。通路の先を見渡すと、壁際に手をついて、血へどを吐いている貫山先輩がいた。よく見ると、心臓のあたりから赤い液体が噴水のように吹き出ている。僕は、自分の最速でその場に向かって走った。最早もはや、手遅れかもしれない……、

「大丈夫ですか!? 保健室に行きましょう!?」

 とっさに思いついた言葉を発した。

「この怪我で保健室とか、俺を殺す気かっ」

 と適確なツッコミを入れてくれた。先輩の意識は判然としているようだ。よかった。よかった……のか?

「先輩の血液量は底なしですか……」

「ああ。血液の量だけは、どんな生き物にも負けない自信がある」

「さいですか……」

 心臓から血液が吹き出しているのに、平然としている先輩と僕の会話の図がやばい。シュールすぎる。すぎるって言葉で言い表すと、なんだか、全然すごくないみたいだけど、いや、無茶苦茶むちゃくちゃだからねこの図。めちゃくちゃすごいから。

 と、僕は自分のキャラが崩壊していくのを感じながらも、先輩を肩に担ぎながら、保健室に連れて行った。

 保健室に着いた。

「だから、なんで保健室だ!」

 さすが先輩。冷静なツッコミだった。どうやらまだ意識は問題ないようだ。そう。保健室に連れてくる意味。それは、先輩の意識を途切れさせないための、必要手段だったのだ。僕は手段を選ばない男だ。

 僕は先輩をベットにおろし、仰向けにして、シーツをかぶせた。途端、出入り口の扉がきしむ音がした。どうやら、扉を開けようとしている者がいるみたいだ。念のため鍵をかけておいたのが良かった。たぶん、翔川逢がやってきたのだろう。そう安堵あんどしたのは、本当につかの間だった。いや、もはや、刹那せつなという言葉で表してもよかったぐらいだった。

 そう。刹那的な時間。彼女は、扉を片足の蹴りで、突き破った。……もはや人間ではない。

「先輩はどこだ。なぜ逃げる。なぜだ。なぜ私から逃げるのだ。くふはははは」

「……」

 大丈夫か。この人。なんだか目をギラつかせて、今にも突っ込んできそうな怖さがあった。キャラがぶれぶれなんだよ。どんな悪役だ。

「おいそこの青年」

「……」

「おい聞こえてるのか。ん。初めて見る顔だな。転入生か。まあいい。ここら辺に、貫山先輩を見なかったか。一目見てわかる端正な顔立ちのイケメンなんだが。あ、もちろん青年。お前はブサメンだ」

「……」

「その腑抜けたつらを見るに、先輩はここには来なかったみたいだな。失礼。邪魔したな」

 そして保健室は静寂に包まれた。

「……」

「……」

「……」

 よし。忘れよう。今のことは。僕は、何も見ていない。何も聞いていない。うん。よし、忘れた。

「貫山先輩、出て行きましたよ。もう大丈夫です」

「そうか」

 ベットから上半身を起き上がらせていた。

「もう怪我は大丈夫なんです?」

「ああ。もうカサブタができた」

「心臓にカサブタができた……」

「すまなかったな。あいつ、酷いこと言ってただろ。ブサメンとかなんとか」

「いいえ。先輩をこんな目に遭わせてしまった僕がいけないんです。やっぱ、彼女は気性が荒い」

「お前、名前、なんだっけ」

「足利韻之介です」

「なあ、足利。お前、あいつのこと、好きなの?」

「……好きじゃないですよ?」

「そうか。でも、なんでそんなに、あいつのこと気にかけるんだ? 同じクラスってだけなんだろ」

「僕は、変わった人が気になるんです。別に、性的に好きってわけじゃないです。ただ、この人、変わってるなって思うとついつい後をついて行きたくなる性格で、だから、いいじゃないですか。誰が、誰を好きとか、誰が誰にいじめられるとか……。もう、どうでもいい……」

「ああ、わかった。もう俺は何も聞かない」

 先輩はやっと、ベットから足を出し、立ち上がることの成功した。あの短時間で、だいぶ、身体は回復したようだ。先輩……化け物か。

「もう、行きましょう。先輩」

「ああ」

 話し終えた僕は安全に(すでに無事ではない)先輩を、三年生の教室まで送り届けた。教室までの道中、彼女という名の誘導弾トマホークから逃れることができたのは幸いだった。辛い思いしないで済んだ。

 僕は、僥倖ぎょうこうにも、無傷だった。いや、それは当然なのかもしれない。だって、僕は、イケメンの先輩ではないからだ。だから、ぶつかられる心配はない。そう思っていた。

 しかし、教室に辿り着いて出入口をまたぐと僕は思わず背進はいしんした。心配をしていなかっただけに、思わず背進した。それぐらい驚いたのだ。

 心肺停止するかと思った。

 心配しておけばよかった。

 彼女が、僕を追いかけてくるなんて、想像だにしなかった。そういえば、これは例外中の例外だ。彼女は先輩以外の人を標的にしない。そのはずなのに、今、彼女は教室のど真ん中でクラウチングスタートの構えをしている。標的の僕を睨みつけている。

 僕は、自分の最速で逃げた。最早もはや、追いつかれることは、わかっていた。だけど、僕は、僕の最速の全力の走りをするしかなかった。シュワちゃんもびっくりの走りを見せてやる。

 背後から、核弾頭がみえた。いや、ただの頭だが。彼女は、ひたすらに僕を追いかけていた。

「おらおらおらおらおらおらおらおらおうおらおらおらおらおらおらおらおらおら——」

 ……なんか、背後から、奇声が聞こえる。

 誰か翔川逢という人間を規制してくれ。

 翔川逢と出会ったという既成事実をなしにしたい。

 どうか。たのむ。

 僕は全速力だった。跳んだ。転んだ。跳ねた。膝を擦りむいた。血が出た。逃げた。それでも、追いかけてくる。最早もはや彼女の、ひたすらに獲物えものを追いかける血気盛んな姿は獰猛どうもうな獣のそれだった。それは嫌だ。僕は、僕の最速で逃げた。

 そして、また転んだ。地を這う生き物のような姿勢で、首を動かす。彼女は、迫っていた。

「なんで、僕は、追いかけられているんだ……」

 わけがわからない。追いかけられる理由に心当たりがない。僕は恐怖した。貫山先輩の気持ちがわかった。

 これは、嫌だ。そんなことを思っている内に、翔川逢は目前に迫っていた。僕が、地表に出てきたオケラのように不器用に、前足と後ろ足を使って前進した。

「こ、こんなところで、死んでたまるか……」

 なぜ、自分がこんな修羅場にいるのかがわからない。

 なにこの激戦区。ここは本当に学校か。僕は、わけがわからなくなった。わけを知りたかった。き上がる気持ちは、未知の恐怖と、未知への探究心だ。

 全知なんていらないから、未知の不安を、安心の確信に満たしてほしい。僕は、願った。

 刹那、と呼ぶには短い時間。彼女は僕の目の前で何かを言った。僕は、ちゃんと聞き取れなかった。

 耳を澄まして、もう一度、聞いてみる。

「思い出した思い出した」

 そう、言っていたのだ。僕は、よくわからなかったので聞き流した。それにしても、すでにぶつかってもいい距離にいるのだが、僕の身体に衝撃はない。いつの間にか閉じていた目を開ける。ついでに膝をついて立ち上がろうとする動作をしていたら、僕は目を疑った。この目は義眼かと思った。

 目の前に彼女がいた。そして、下にうつむいて、なにやら、鼻水をすすっているのだ。これはもしやすると、もしやするかもしれない。つまり、うん。そういうことだ。

 僕は、ゆっくりと静かに立ち上がり、ポッケに手を突っ込んだ。そこにあったのは、ポッケの裏地だった。

 と、まあ、どうでもいいけど、この状況はどうしたらいいのか判断に迷う。

「……どうしたの?」

「思い出したの。すべて、思い出した。そう。すべてよ。わかる? すべて。なんで、今まで忘れていたんだ。ほんと、ばか。嫌だな。なんで。でも嬉しい。ありがと。じゃあね」

 そう言って、きびすを返して行った。足取りは軽そうだった。僕は、わけがわからず途方に暮れる。途方がわからず、僕は、しばらくの間、棒立ちだった。途中から、僕も踵を返すことにした。なんだか、足が重い。ああ、そうか。踵を返すってかかとを返すから、引き返すって意味になるんだな。と、なにげに新たな発見をしながら、元の教室に辿りついた。やったぜ。かかとを返してやったぜ。

 と、その教室にはすでに、先ほどの翔川逢が着席していた。僕は少し背筋が凍る感覚に襲われながらも、自分の席に荷物を置いた。背中を触ってみる。しかし、そこまで、凍るような感覚はなかった。どうやら僕の思い過ごしのようだ。まあ、思ってしまったものに対してとやかく言うのはやめておこう。大事なのは、現在進行形。つまり、今だ。未だに、彼女のことがよくわからない。さっきの言葉が何度も脳裏で反芻はんすうする。何度も言葉の意味を噛み砕いてみても、これ以上は噛み砕くことができないぐらいに内容がしっかりしていなかった。もう、噛んでも噛んでも、意味不明だし、飲み込んでも、意味がないし、反芻しても、意味がないし、つまり、どちらにしても、意味がなかった。あれ、意味っていう言葉の意味がわからなくなってきたぞ。

「あ」

 あっと言う間に、というか、あっと言う以前に放課後になっていた。僕は、教室に一人で座っていた。他のみんなは、もう部活をしたりしているのだろう。僕は、いつも通り、合法的な範囲内のストーキングを開始する。もう、見失ってしまっているが……。

 先ほどから外が騒がしい。僕は、窓から地表付近を見下ろした。そこで、誰かが倒れている。僕は駆け足で階段を下り、外に出た。

 そこには、空山先輩が、倒れていた。空山先輩は空を見上げるように仰向けに倒れていた。意識はないようだ。心臓には大きな空洞ができていた。誰が、こんなことを……。と、考えるまでもなく彼女の仕業なのけれど。まあ、これはもう日常茶飯事のことだから、傍観者の僕としては、知らん振り、というか、知ってはいても無責任を貫き通すだけだ。僕に責任はない。

 僕は責任感がある無責任だからな。

 なんだか、笑える。

 昔のことを思い出す。中学生だった頃のこと。あれは、たぶん、初恋だっただろう。もう、だいぶ昔のことのように感じられる。あの頃の僕は、周囲の視線に過度に緊張していた。目立ちたがり屋で恥ずかしがり屋だったのだと思う。とにかく、大きなことをしたいと意気込んでいた。そして、実際に戦略的で大胆な行動していた。あれは、大きなことだったと自己評価している。もう、あんな大きなことはしたくない。だって、僕のしたことは無駄だったのだから。とても、恥ずかしい思いをするだけだったのだから。だから、もう、あんなことはしないと心に決めているのだ。

 そう。どこにでもいる知らん振りをする人間のように、傍観者であり続けようと、心に決めているのだ。

「あ」

 あっと言う前に、空山先輩は担架で運ばれてどっかに連れて行かれていた。僕は、下駄箱に戻り、翔川逢がまだ帰っていないことを確認した。どうやら、まだ校舎内にいるようだ。もしかすると、靴を履かないで帰った可能性も考えないでもないけど。まあ、後者ではないだろう。まさか、いくら彼女でも殺人未遂をしたパニックで靴を履き忘れることはあるまい。

 つまり、犯人は——この校舎の中にいる。当たり前だけど。と、迷推理をしていたら、貫山先輩がやってきた。どうやら、息を切らしているようだ。

「はぁ、はぁ」

 と、スタミナゲージが赤のような様相だった。ちゃんと、まっすぐに前を見て走ってほしい。翔川逢モンスターに襲われたらどうするんだ。

「どうしたんです?」

 僕が駆け寄るよりも前に、先輩は力尽きて、ぶっ倒れた。

「先輩……、なんて有り様なんだ」

「こ、これを……」

 と、行き倒れみたいになっている先輩が、僕に何かを手渡した。キーホルダー? これは、なんのキャラクターだったっけ。

「つまり……、どういうことですか?」

「これを持って行け」

「は、はあ。わかりましたけど」

「俺に構うな、行け」

「……」

「ほら、早く」

「……わかり、ました」

 僕は、仕方なく、行き倒れた感じになっている貫山先輩のことを置いて行った。なにが、なにやら。

 ある程度、歩いて後方から絶叫が聞こえた。振り返ると、もう先輩はいなくなっていた。そこには、赤黒い液体のようなものが見えた気がしたけど、たぶん、気のせいだと思う。気持ちの問題だ。あの先輩が、られるなんてことがあるはずがない、と信じたい。期待したい。

 愛す可し先輩。

 可愛そうな先輩。

 僕は、先輩のことを、一年間は忘れない。僕は、手に持った形見のようなキーホルダーを強く握りしめた。にぎわっているこの場所から離れて、次の行動を考えた。もう、おうちに帰ろうかなと考えたけど、どうも妙な胸騒ぎがして、即決ができなかった。不安と淡い期待が僕の感情をつかさどる、心とかいうモノの中に溢れていた。不安でい続けられる人間がいるとは到底思わないけれど、僕は、木陰こかげで、ずっと不安でい続けることにした。

 ずっと、そうしていると、不安が安心に変わろうとしているのを心で感じた。もう、忘れてしまおうと、しているのかもしれない。過去の記憶を忘れて、楽になろうとしているのかもしれない。

 ポッケに手を突っ込んだ。そこには、布の裏地と、さっきのキーホルダーが入っていた。その人形が、僕の脳裏に過去の記憶を呼び起こしていく。忘れてしまおうと、していたのに、僕は、また、不安になった。そして、淡い期待を抱いた。温かい優しさが不安な気持ちを安心させていく感じがした。そして、最後は、失望するのだろう。なら、最初から絶望していた方がいい。

 希望を持たせないでほしい。傷ついたときのショックが大きくなってしまうから。だから、僕は、過去のことを忘れたまま、生きていこう。

 できるなら気体になって霧散むさんしたい。無酸素運動をし続ける日々を、終わりにしたい。ただ、生きて、事実なんてほとんど思い込みなのに、胡散臭うさんくさい真実を信じて、正当化して、いい気になって、もう、期待させないでほしい。信じるという動詞がわからない。裏切られるという感覚がよくわからない。人を信じるってどうしたらできるんだ。

 過去の出来事を脳裏で反芻させて、吐き出したくなった。道路にぺって汚物を出したい。気持ちが変だ。気持ちは悪くない。ただ、変なのだ。大変だ。僕の頭が。

 頭が変になったことに気づいたときには、もう家に帰っていた。自宅の寝室で転がっていた。寝転がっていた。猫のように、自由気ままに寝転がっていた。ああ、猫が飼いたい。うちに猫がいればエネコログサをマタタビ代わりにして遊んでやるのに。にゃあゴロゴロ。と、自分のキャラを忘れそうになってきたところで、もう、今日は、寝ることにした。まあ、寝室なんだから、寝るのは至極、普通のことだけど。普通といえば、今日の渡り廊下が断絶して不通になったのを思い出してしまった。しまった。忘れようとしていたのに。渡り廊下が渡れない何かに変貌をげたことを、あのまわしい記憶を、ああ、なんてことだ。もう、鮮明に思い出せてしまう……。

 ……僕はおとなしく眠ることにした。音無しの自室でおとなしく眠りについた。実質、駄洒落が言いたかっただけだが。まあ、洒落と駄洒落の違いは、ドヤ顔をしないか、するかの違いだと僕は思っているので、先ほどのは駄洒落ではなく、洒落の効いた言葉遊びかもしれない。僕は、ドヤ顔はしないからな。

 僕は、寝た。

 朝になった。朝になって、僕は二度寝した。つまり、起きたあと、すぐに寝たということだ。

 学校に行った。一旦いったん、昨日のことは忘れよう。忘れないと、早く帰りたい症候群になってしまいそうだ。でも、どちらにせよ、僕は早く帰りたくなるのに違いはなかった。

 教室の扉を開けたとき、すでに遅し。翔川逢が、教室の中央に座っていた。それだけで、僕は——足利韻之介は普通ではなくなった。彼女と不通になれたら、どれだけいいだろう。僕は、心臓が高鳴るのを感じながらも、平然とした態度で、自分の椅子に向かった。

「おはよう」

 と、声をかけられた。つまり、お、の次に、は、の次に、よ、の次に、う、を言われたということだ。おはようとは、日本人における一般的な挨拶の言葉だ。たいていの場合、おはようと言われた人間はおはよう、もしくは、おはようございます、もしくは、うっすと言葉を返さなければならない。しかし、僕の場合、そのいずれかの言葉を返せなかった。

 おはようと言われた相手が、翔川逢でなければそんなことにはならなかっただろう。僕は、思わず

「うぃ」

 という奇声をあげてしまった。残念ながらうぃは一般的な日本人の挨拶ではない。僕は、視線を宙に浮かせて視界をぼやけさせながらも、なんとか自分の席に着くことに成功した。精巧な作りのシンプルな木椅子に、腰を下ろした。手を机上に置いた。視界はまだおぼろげで、なんだか落ち着かない。手をどう動かしたらいいかわからないまま、ピクンとたまに震えた。

 次の行動をどうしようかと、悩んでいたら、もう放課後になっていた。まー、そういうことだ。緊張していたら、時間が経つのが遅いのだと思っていたら、そうでもなかった。まあ、そういうことで、僕は、今日も、家に帰ることにした。

 当たり前だが、昇降口から外に出て、運動場の乾いた土を踏み鳴らす。歩くたびにざっざっと音がした。僕の後ろからも、ざっざっと音がした。僕はなんだか微妙に違和感を感じた。要するに、誰かに監視されてる空気感を感じたので、わざと唐突に前進する足を止めてみた。すると、なんと途端に背後のざっざという足音も消えたのだ。こりゃあ、びっくらこいた。と自分のキャラが崩壊するのを僕は感じた。

 後ろを振り返ると、そこにいたのは人だった。

「なにをしてるんだ……」

「恋をしているのだ」

 と、ふざけたようなことを言っている人は、相変わらず、相対してもいつもと変わらない感じだった。つまり、普段通りだったということだ。優柔不断な僕とは正反対の、元気に溢れた、活発で明るい太陽のようなそれだった。それは、すごい。僕なんかとは違って、それは、普通ではない。変なのだ。僕は、変な人に興味がある。だって、見ているだけで面白いから。

 それ、つまり、翔川逢は、鼻をぽりぽりといたあと、鼻の穴もごりごりと穿ほじった。ごりごりという擬音は決して大袈裟ではない。ほんとうに、ごりごりだった。ごりごりと穴から探し物を探していた。ふとなぜか『夢の中へ』が僕の脳内メロディとして流れだした。たしかに、探すのをやめたときに見つかるのが鼻くそだよな、と至言めいたことを思った。

「恋をしている女の子がそんな大胆に鼻くそなんかほじくり返さないと思うけど……」

 これも至言だ。

「そうかなー。それは偏見じゃない? それに、これは鼻くそを穿っているんじゃないの。集中力を高めるための、事前の所作みたいなものだよ。これをやったあと、ぶつかったときに成功率が高いんだ」

「なんの!?」

「成功率は成功率だって。そんな恥ずかしいこと、私に言わせないで」

「どんなことなんだ……」

「ところでさ。あのさー。あの……、この前は」

「この前?」

 いつのことだろう。彼女のことだから、46億年前のことを言っていてもおかしくない。おかしいが。地球がないが。だが、しかし、彼女はそういうところがある。そういうところとは、つまり、そういうところだ。こんな風に、僕は、なにもかもそういう感じでし崩しにして、済し崩しにしていかないところがある。あれ、済し崩しの意味がわからなくなってきたぞ。どっちの意味なんだ。

 と、まあ、そんな感じで、僕は彼女と、話しをした。いつもストーキングするのは、僕の方だったのに、なぜか、今回は、僕が交尾されていた。交尾? いや違う違う、尾行だ。なぜに間違えた。と、そんな感じで(どんな感じだ)話しをした(さっきも言った)。

「この前、いや、数年前かなー。すっかり忘れていて申し訳ないぜ! どうも、最近、記憶の混濁や消失が激しいんだ」

「そりゃあ、覚えてないでしょ。僕だって、その、翔川さんのこと、覚えてなかったんだから」

「ありがとな」

「なんのこと?」

「あれ、覚えないの」

「全然」

「……」

 初めて、翔川逢の沈黙する場面を見た気がする。僕は記憶力が弱いことに絶対の自信をもっているけど、そんなにも沈黙が続くと、ちょっと不安になってくる。もしかしたら僕の記憶中枢に欠陥(物ではないが)があるんじゃないのかと、不安になってくる。そして、その不安もすぐに忘れた。これで、安心だ。

「あ」

 あっと言う前に思い出した。僕は、スラックスのポッケからあるものを取り出した。

「こ、これ、もしかして、翔川さんの?」

 取り出したものは、キーホルダーだった。

「ああ、これ、捨てようと思ってたんだ。でも、貫山先輩が、捨てるな捨てるなってうるさいから、捨ててやった」

「……捨てるなって言われて捨てたのか」

「このキーホルダー見てるとさー。駄目なんだ。過去のことを思い出してしまって」

「は、はぁ」

 なにか深い思い出があるキーホルダーなのだろうか。

「捨てたのに、貫山先輩、捨てるなら俺にくれって言うんだよ。だから、くれてやったんだ。私って、いい人!」

「都合のいい人?」

「はあ!? ちげーし! いい人の意味もわかんないのお前! 馬鹿なの!? 死ぬの!!!? ブサメンなの!!!?」

 凄い返しをくらった。僕は、もう立ち直れそうにない。砂土に両膝と両手のひらをついた。底辺がお似合いの僕は、地面だけを見つめて、生きていこう。そう思った瞬間だった。

「なんて健気なの!?」

 彼女は、よくわからないことを言った。

「え。毛なげ?」

「なにそのイントネーション! 新しい!」

 なんで、嬉しそうなんだ。これは、毛投げという意味で受け取っていいのだろうか。それはそれで、意味を想像したくないが。なんて毛投げなの!? て、どんな毛投げだったのか凄い気になるんだけど。僕は、もしかして知らないうちに、毛投げをしていたのか。

 落ち込んでる僕の顔を、彼女はしゃがみながらのぞき見る。心配そうに眉間をそせてこう言った。

「ブサメンだから落ち込んでるの?」

「……」

「やっぱりブサメンなんだね。可哀想。それは生まれついた遺伝によるものだから、仕方がないよ。諦めな。お前は、貫山先輩みたいな超絶イケメンイケメソになんてなれない運命なんだからさ」

「……」

「納得してくれたみたいだね。あれ。私ったら、なんで、こんなブサメンなんかを尾行していたんだろ。私ったら、おっちょこちょいなんだから。こんなんじゃ深窓の令嬢の名が泣くわね。深窓の令嬢は完全無欠でなくっちゃ。こんな、イケてない男子に構ってたら、なんだか、私までイケてない感じになっちゃうわ。やだやだ。帰ろう帰ろう」

「……」

 本当に帰った。彼女の後ろ姿を見ながら、ただ黙っていることしかできなかった。……なんなんだろう。あんなにまくし立てられて、僕は、どう対処すれば正解だったのかが、わからない。ゆっくりと、身体をおこして、何事もなかったかのように、下校した。

「げ、コオロギ踏んじゃった」

 ああ、ダメだ。今日の僕のギャグが冴えない。ドヤ顔してないのに、すべった感じになった。誰も聞いてないはずなのに、こんなことってあるのか……。

「げ、後悔しちゃった。下校中に、げ、後悔しちゃった、げ、こうなることはわかっていた。げ、こうしよう。そうしよう」

 僕は、下校した。

「あっ」

 あっと言いながら、あっと言う間ではなく、いつの間にか、朝になっていた。あっと言う前には、もう朝になっていたと思う。あっと言ったあと、僕は、あっと言う時間よりも遅いスピードで朝の支度したくをした。

「あっ」

 あっと言ったのは、学校で、貫山先輩にであったからだ。あっと言うよりも前には、貫山先輩のことを発見していたが、わざと、今しがた見つけたのだと相手に思わせるために「あっ」と言ったあと、

「おはようございます、先輩」

 と言った。貫山先輩も「あっ」と言ったあと、

「おはよう、足利韻之介くん」

 とフルネームで僕のことを呼んできた。

「……」

「どうした? 呆気あっけにとられた顔をして」

「いや、なんでも」

 僕は、先輩の頭部に注目した。白い包帯が、ぐるぐる巻きになっている。

「あっこれか。ちょっと、軽く人にぶつかっちゃってさ」

「人に軽くぶつかった怪我ですかそれは……」

「人ではなく、怪物モンスターだったような気もするが、よく覚えていないな」

「ああ……わかります。今ので、誰にぶつかったのかわかりました」

「好意をもって故意にぶつかってくる人間、いや、怪物モンスターほど、怖いものはないな」

「……はい」

 なんだか、同感した。どうかしてる。こんな、酷い目にあっても、それでも、相手を責めることをしない。そんな、どうかしてる先輩に僕は同感した。僕も、同じだ。誰かを責めるくらいなら、自分を責める。もしかしたら、自分にいたらない点があったのではないか、と再考する。考え直す。そうやって、生きてきた。

「ところで、あのキーホルダーってなんだったんですか?」

 なんの脈絡もなく質問した。

「ああ。あれは、いや、あのキャラクターは」

「キャラクター?」

「ああ。キーホルダーではなくキャラクターのほうが大事なんだ。あのキャラクターに見覚えはないか?」

「知りませんよ。あんな可愛らしい見た目がカバの妖精なんて」

「あれ、お前、それ、知ってるんじゃないのか」

「いえ。知りませんよ。全然知りません」

 僕は、カバ……じゃなくて、かぶりを振る。そ、そんなの、知っているわけない。うん。そうだ。僕は、世界のほとんどを知らない男だからな。僕が知っていることなんて、僕が、僕だということぐらいだ。

 僕思う、故に、僕あり。それくらいしか知らないのに、キャラクターの具体的な固有名詞を僕が知っているわけがない。僕が知ってるのは、僕思う、故に、僕あり、だからな。これはデカルト先生に教えてもらった言葉だ。それくらいしか知らない。それに、わからない。この世界のことなんて、ほとんど、わからない。

「あのさあ。なんで、忘れてんだよ。これは、お前が、中学生のときに渡したもんだろうが」

「ああ。そういえば、翔川さんと僕は、同じ中学だった気がする」

「やっと思い出したか」

「思い出したわけじゃありません」

 なにがやっとなんだ。僕には、よくわからない。いや、全くわからない。全てわからない。なにも変わらない。僕は、なにも、知らないんだ。なんでも知らない。知らないものは知らない。知りたくない。

「もう、嫌だ」

 このとき、僕の目はなにも焦点を合わせていない。視界は、ぼやけて、ここが、どこなのかなんて、どうでも、よくなっていた。僕は、先輩と別れた。別れ際、先輩の口から、うんざりするような言葉を聞いた。

「お前、あいつのこと、好きなのか」

 僕は、ひねくれて、こう返した。

「興味はあるので、好きか、嫌いかのどちらかでしょうね」

 僕はかかとを先輩に向けて、教室に向かった。踵は返さない。ただ、進むだけだ。だけだけれど、僕には気がかりなことがあった。気がカリカリなことがあった。カリカリ梅なことがあった。それは、カリカリだった。カリカリカリカリカリカリ。と、僕がふざけていると、目の前に、人間がいた。しかし、その人物はどこにでもいる、生徒だったので、当たり前のように無視をした。そして、無意識にした。肢体を動かし、教室に辿り着いた。つい、人の視線を気にしてしまうま。じゃなくて、しまった。その視線は、好意がある感じだった。僕は、どうなのだろう。好意はないが、興味はあるのかもしれない。つまり、嫌いなのかもしれない。つまり、大嫌いなのかもしれない。本当のことなんて、わからない。

 僕は、僕のことがわからないんだ。自分のことは自分が一番わかっているけれど、一番わかってる自分でさえ、こんなにも、わからないんだ。こんなことってあるか。僕思う、故に、僕ありしかわからない、ぼんやりとした最高な世界。ぼんやりとしても生きれる世界。なんて戯言だ。なんて面白いんだ。最高だ。そんな感じで、僕は、席に着いた。

「あ」

 あっと言う間に一日が過ぎていった気がした。しかし、さすが に「あ」っという間の刹那的な時間に一日が過ぎるはずもないので、まあ、錯覚だと思う。そんなことを思いながら、家に帰った。家路には、いつものの風景があった。ふう、計画通り。道路には、知り合いが誰もいなかった。足早に帰ろう。労働者を、色んな建物で見かけた。肩にかけた学生鞄には、キーホルダーがあった。このキャラクターの名前が思い出せない。思い出したくない。忘れたままでいよう。

 僕は、忘れた。心を亡くした、はさすがに大袈裟だが、記憶を消して感情を削ぎ落とした。音した。なんの音だ。

「あ」

 これは、僕が、家のドアノブを開ける音だ。あっと言う間に、僕の手により、扉が全開した。自分が、ドアノブを開ける音にすら気づかないなんて、鈍過ぎるなと思った。思ったより、扉が重たく感じたのは、疲れているからなのかもしれナイチンゲール(小鳥)。

 町内の北区にあるマイホームに帰宅し、くたくたになった足をお風呂でマッサージしながら休ませた。そのあと、自室でキーホルダーのことを考えた。ふと今更いまさら気づいたのだが、なんで、僕は、学生鞄にこのキーホルダーをつけているのだろう。わからなかった。仕方ない。僕にわかるのは、僕思う、故に、僕あり、だからな。それ以外のことはよくわかんないや。と、現実逃避した。因みに、僕はシャワーを浴びたので現時点で頭皮は濡れていた。

 明くる日、明るくなった朝、僕は、明るい教室にいた。明るい室内では、陰になった部分は着目されない。みんな、明るい方に関心があるみたいだ。だけど、僕は、暗いほうに興味をそそられる。陰りがある人の方に僕は、引き寄せられる。楽しそうな陰口は、どのクラスにでもあって、それを聞くと、人間という生き物のくだらなさがわかる。頷いて同調したり、そういうのって、よくわからない。なんで、みんな、そんな簡単に同じ振りができるんだろう。あなたとは、決定的に違う意見だってあるはずなのに、なのに、なぜ、わかった振りなんてするんだろう。そんなことばかりやってるから、無意識のうちに、嘘が肥大して、まるで強大なイジメに発展していくんじゃないのか。イジメが悪いのは、わかるけど、どこからどこまでがイジメなのかが、人によって違うってことぐらい、みんな共通認識としてもっておけよ。そんなんだから。そんなんだから。そんなんだから。

 僕は、机上に腕を組んでうずくまり、目を瞑った。

 やがて、生徒が教室に集結した。この人生が終結してほしいと、思った。だけど、そんな願いも、どうせ刹那的なものでしかないことを、すぐに思い出す。

 僕は、無駄じゃないのか? と、何度も、自問した。授業中も休み時間中も、ずっと、自問した。だけど、そんなの、無駄じゃないような気がするとしか、自分に対して、答えてあげられなかった。僕が、これまでやってきた、ことが、誰かにとっては全く役に立たないなんてことは、至極、当然のことなのだから。だから、別に、全員に優しくなれるなんて、そんな夢のようなことは思わないことにした。たとえ今が踏んだり蹴ったりの無味でおもむきのない時間だとしても、そんなくだらない刹那を僕はシニカルに笑いながら韻を踏んでやるんだ。

 くだらないことを全力で、活用する。

 それが——足利韻之介なのかもしれなかった。

 どこからが僕で、どこからが僕でないのか。僕は、無駄ではないのか。なぜ、無駄ではないのか。それが、わからない。僕が、いったい誰の役に立っているというのだ。わからない。変わらない。知らない。どうしようもない。なにも、できない。どうしたら、僕は、僕がした行為を、好意的に肯定していくことができるのかがわからない。

 あのキーホルダーだって、なんのために、鞄につけているのかもわからない。なんで、あのキャラクターが重要なのかもわからない。わからない。わからない。変わらない。いつまで経っても変わらない。

 こんな、お話、したって無駄だ。僕は、無駄かもしれない。僕は、消えたほうがマシなのかもしれない。

 そんなことを、思った。どこで? さあ、わからない。今、どこに自分がいるのかが、わからない。もう、どうしようもない。もしかしたら、学校の教室にいるのかもしれないし、もう、お家に帰っているのかもしれない。そんな、ことすら、わからない。

「あ」

 あっと言った。思い出した。あっと言うよりも早く思い出した。あっと言うよりも前に、理解した。振り返ってみると、あっと言う間だった。たいして長くはない時間だったような気がしてきた。

 つまり——あっと言う間だった。

 そういうことだ。つまり、要するに、だから、結論から言って、簡潔に言うと、結果、常識的に考えて、世間では一般的に、普通は、そういうことだ。わからないの。馬鹿。なんでわからないの。みんなはわかってるのになんでわからないの。自分で考えろよ。と、いうことだ。つまり、そういう、ことだった。

「あ」

 QED証明終了。

 あっと言う間に終わった。


 教室で、楽しそうに談話をしている人がいた。その中に、貫山先輩がいた。先輩は、奄美という女性と話していた。

「ちょっと、そこどいてくれる?」

 僕は、邪魔だった。仕方なく、椅子を机側に寄せる。

「いや、そうじゃなくて。言ってる意味わかんないかな。つまり、そこをどけって言ってんだよ」

 仕方なく、僕は、椅子から立ち上がった。どうやら、席をどけという意味だったらしい。僕は休み時間の常識がなってなかったのかもしれない。騒々しい教室に、一人で椅子に座っている人間は僕ぐらいなものだからな。このクラスの常識で僕は、排他的なそれだった。翔川逢もそれだった。それは嫌だ。それは悲しい。それは、鈍感だ。それは、ヒエラルキーみたいだ。

 それは、正しいのか。それは、いいのか。と、思いながら、僕は廊下に出た。

 廊下に出ても、正しさなんてのは、どこにも落ちていなかった。ただ、虚しいような、心細いような、そんな、気持ちになった。真っ暗な部屋が怖かった幼い頃に戻ったような気分だ。さて、僕の居場所を探しに行こう。どこに、僕は、行くべきなのか。それが、僕にはわかっていなかった。ただ、さみしいだけだ。これは乳幼児の本能なのだろうか。人は一人では生きてはいけないって言葉は、至言として有名だけれど、それは、ただ、幼い頃は、絶対に一人では生きてはいけないという意味だったのではないか、と思った。

 僕はいつか大人になって、みんながわいわいがやがや楽しそうに談笑していても、それでも、さみしくならないだけの絶対的な思想を持つことができるようになれたら、きっと、今より、強くなったということになるのだろう。ふう。なにを物思いにふけっているんだ。バカみたい。いや、まあ、ずっとバカで生きていられる人間てのは、それなりに幸せなのかもしれないけど。ずっと考えないで、生きていけるなんて、それって一種の才能じゃないのか……。

 はあ、なにをやっているんだ。なにをしているんだ。僕は、いったい、なにをやっている。たぶん、廊下を歩いている。さまよっている。酔っているみたいに、無意識のうちにさまよっている。僕は、いったいどこにいけばいいのか。それが、わからない。いったい僕の目的はなんなのか。休み時間はいったいどこに行けばいいのか。わからない。知らない。どうせ、変わらない。なら、いいや。もう、ぼうっとしていよう。あ、掃除用のロッカーがある。開けた。そこには鞄があった。当たりだ。教室に踵を返したら、返してあげよう。と、その前にふらふらしていよう。フラフープでもして、ふらふらしていよう。フラフープをしようにも、輪っかなんて輪ゴムしかないけれど。あ、でも、指だけのフラフープならできるかもしれない。指フープならできるかもしれない。指フープって、ただの指輪だが。

 ……なんだか、眠くなってきた。どこか眠る場所はないのか。眠い。眠い。眠い。ああ、ここは踊り場だ。よし、ここで、指フープをしながら、眠りにつこう。僕はだんだん眠くなーる。僕はだんだん眠くなーる。と、指先の輪ゴムの回転を見つめながら、眠りについた。踊り場で、壁に背をもたれ掛けて、寝た。

 起きた。ここは、世界だった。ここは世界の中の、学校だった。ここは、学校の中の踊り場だった。ここは、踊り場の中の空気だった。ここにいる僕は、いったい誰なのだろう。そして、思い出した。

 僕思う、故に、僕あり。

 よし。わかった。以上。異常な僕を証明終了。僕は、起き上がる。途端、昼休みの終わりのチャイムが鳴った。どうやら、十分ぐらい寝ていたみたいだ。永眠すればよかったのに。と、本音がぽろりと口に出た。

 重い足取りで教室にきびすを返した。教室には人がいっぱいいた。みんな、教室に踵を返すことに成功した生徒達なのだろう。僕も踵を返せた。つまり成功したということだ。僕は成功者だ。性交者だ。もちろん後者ではない。と、文字面でふざけているうちに(ノートに書いた)五科目の担当の先生がやってきた。

 規律のとれた集団は起立をしたあと、例に漏れず礼をした。そして、着席したあと、先生は五本指で口元を隠しながら、ごほんと咳をした。風邪でもひいたのだろうか。僕は心配になった。心肺は心配ないだろうけど、風邪ならマスクをしてほしい。

 それから僕達は、黒板に書いてある文字を写した。短期記憶も少し、した。しかし、勉強ができたかどうかはわからない。人によって勉強の意味が違うからだ。

 僕は勉強している振りを頑張った。僕にとって、学校でのノート写しは勉強ではなかった。そもそも僕という人間は、記憶したり、考えたりする以前に、もう全て終わっている。わかりたいことは、全てわかっているのだ。

 僕思う、故に、僕あり。

 それがわかっているので、それ以上は、わかる必要はないと思った。あとは、自己満足で絶対的に幸せになれればそれでいいのだった。僕は、すでに全てを達観している。完成している。この時点ですでに、終わっていた。最終形態だ。僕はケータイを持ってない。ダイヤル式の黒電話しか持っていない。

 やがて、僕達は業を授かった。ありがとう。

 お礼を境に、クラスの人々は、散り散りになったりコロニーを形成したりした。因みに僕は散り散りになった人間だ。コロニーはまだ、できそうにない。合体するのは、まだ、先のようだ。いや、合体しなくても、ひっついていたらコロニーなのかもしれないが。まあ、そんな瑣末さまつなことは放っておいて。僕はいつものように鼻口から空気を吸ったり吐いたりしながら、尾行をすることにした。ターゲットは決まっている。翔川逢だ。もう、教室からいなくなっているのは相変わらずだった。こんなことでは、相対することができない。いや、尾行なんだから、相対することはないだろうけど。もしや、僕は翔川逢と相対したいという願望を内に秘めていたのか。なんて恐ろしい願望なんだ。もはや、その願いは、自殺志願と意味がほとんど同じだというのに。彼女と、相対することは、それが成功した時点で、死と同義なのだ。ぶつかって、否、ぶつけられて、死ぬ。なんて、大袈裟に思ってはいるけれど、まあ、だいたいその認識で合っていると思う。

 と、曲がり角で、僕はおでこに衝撃があった。反動で後ろに仰け反り、思わず尻餅をついた。何事かと、目を凝らしてみると、目の前には、人間が倒れていた。どうやら、人間にぶつかったようだ。向こうも、おでこに手をやって痛そうにしていた。

「……足利くん?」

 なんと、僕の名前を呼んでいる。僕の名前を認知してくれている人間は希少だ。僕は嬉しくなった。と思う前に、誰なんだこの女の子。

「……手を、」

「え、なんて?」

 起き上がりながら、手を貸そうとした。もちろん返さなくていい。自分のせいで倒してしまった女の子を気遣うのは、紳士として当然のことなのだ。

「手を繋ぎましょう」

「へ……」

「……」

 間違えた。手を貸しましょう、と言いたかったのに、手を繋ぎましょうと、言ってしまった。こんなの紳士じゃなくて、変態だ。しくった。

「……なんちって」

 女の子は僕の手を取って立ち上がった。

「やっぱり、足利くんは足利くんだね。密かに、ファンだったりして」

 この方、脈絡なく何を言っているのだ。相対して立ち上がったので、僕は手を離そうと、握る力を緩めたのだが、相反して、力強く握られてしまった。……だから、なんなんだこの女の子。

「握手なんてしてくれてくれたりして、嬉しい! 今日は手を洗えそうにないなっ! とか」

「……」

「って感じで」

「……それはそれは不潔な感じで」

 この女の子の語尾の中途半端な感じが気になる。続きがあるのか無いのか、句点があるのか無いのかがわかりにくい。僕が不思議そうで不審そうで不安そうに眉間を寄せていると、女の子は何かを悟ったように目を見開いた。自身の顔を指差しながら、

「あ。もしかして、忘れられてたり?」

 とはにかんだ。

「……ごめん」

 ごめん。名前、思い出せそうにない。僕が知っている名前には限りがあるのだ。自慢じゃないけど、自分の名前でさえたまに忘れる(本当に自慢ではない)。僕思う、故に、僕ありしか永久的に覚えられそうな言葉はないと思う。と、思う僕あり。証明終了。

「えへへ。そっかあ、でも大丈夫。嘘じゃなかったらそれで。じゃあ初めまして、自分、足利くんの中学の同級だった我臥丸承子て言うんで、しょこたんって呼んで」

「……」

 我臥丸承子わがまるしょうこ。なんて(カッコ)いい名前なんだ。というか、なんでそんなインパクトのある名前を僕は知らないんだ。覚えていないんだ。僕の頭は飾りか。脳味噌が無いのか。無能なのか。この脳裏が糞野郎。鼻くそが脳味噌野郎。と、 自分に対してあらゆる罵詈雑言を思いついた。

「あんね。足利くんってすごいよね。すごかったよね。中学のとき、やばかったよね。あれ を見たとき、ああ、この人やばやばだなって興奮しちゃって」

「……あの」

 もうそろそろ、手を離していただければ、少し嬉しい。公衆の面前で(もしくは校内で堂々と)知らない人と手を握り合っている光景ってのは、周囲に誤解を与える最高傑作だと思うのだが、どうか。この状況どうなのか。どうなっているのか。

「あ、そうだね。次の授業……行かないと」

 と言いながら、僕の手をホールドしたまま、次の授業に向かった。いや、向かっちゃいけない。向かっちゃいけない。なんなの。なんで、手を離してくれないの。この行為をしながら移動することが全校生徒に向けての公開処刑だということがなんでわからないの。

「や、やめてよ! さっきから僕が嫌がってるのがわからないの!?」

 僕は思い切って声を上げた。

「あ、これ嫌だった? ごめん……そうならそうと言ってくれれば良かったのに」

 と言いながら、女の子は指と指を絡めてきた。

 こ、これは……恋人繋ぎだと。

 なんでこうなった。まさかあのシチュエーションで、普通の握手では嫌だったなんて意味で受け取る人間がこの世にいるとは思わなかった。いや、なんで恋人繋ぎになっているんだ。そこがおかしいだろ。なんでなんだ。絶対おかしい。絶対おかしい。この女の子、絶対おかしいぞ。

 と、僕のキャラが変になってきたところで、さすがに恋人繋ぎは少し嫌なので、お断りの言葉を発することにした。すー。と息を大きく吸って。

「ありがとう!」

「全然っ」

 僕達は仲良く手を繋ぎながら、次の授業の教室に向かった。なんてのは嘘で、女の子は絡めてきた手を離した。『全然っ』て言葉のあとに否定した。……これが否定形か。……それにしても、この女の子、いったい何者なんだ。名前、もう忘れちゃったよ。なんとかしょうなんとかって名前だったのは覚えているのだけど、まあ、いっか。名前はメモしないと忘れたままになってしまうから、次会ったときは気をつけよう。もう会わないような気がするのは、なぜだろう……。

 僕は、歩いた。教室に入った。授業を受けた。

 お家に帰った。寝た。起きた。完。しかし人生は終結しなかった。

 僕は、登校した。校門が見えてきたところで、誰かが白目を剥いたまま倒れていた。貫山先輩だった。先日のように心臓を射抜かれたようだ。心臓部にはすでにハート形のかさぶたができていた。

「……あんまり、関わりたくない」

 僕がスルーしながら歩みを進めようとしたら、足を掴まれた。

「……」

 これは……。

「あっ。おはようございます先輩。またモンスターにやられたんですか?」

「……」

 物を言わぬ。屍のようだ。足を掴まれてるけど。

「……」

 足を握りしめた指を外した。よし。逃げよう。

「ごめんなさい、先輩。なにがあったかは知らないけど、知りたくないから。本当に、ごめんなさい」

 僕は貫山先輩に踵を向けて、早歩きをした。競歩の選手みたいに、無酸素運動で、必死に、教室まで歩いていた。着いた。

「あ。最近ダメだな。調子が悪いのかも。韻を踏むキレも悪いし、僕は、何かから逃げているのか。いったい何から逃げているというのだ。ジーザス。我は、いったい……」

 と、天を見上げ小声で呟いたら、周囲から、ひそひそ声が聞こえ出した。「なにあれ、キモ」「独り言やばいね」「ああ。あんまり近寄んなよ、なんか感染うつるぞ」「将軍……今日、どこかオカシイよな」「仕方ないよあいつ足利 氏氏うじうじだからさ。日々、うじうじして独り寂しく呟くことしかできない可哀想な生き物なんだから」

 僕は足利尊氏じゃない。いや、断じて足利氏氏でもない。僕の名前は足利韻之介だ。あーダメだ。最近、自分のキャラがわからなくなってきた。僕はもしかして、足利氏氏あしかがうじうじという名前だったのか。いつもうじうじとして決断できない傍観者。それが、僕はなのかもしれないなっ! いや、違う。こんな感じじゃない。んー。自分のキャラがわからなくなるなんて、凄まじい記憶力の欠如だな。

「あ」

 とりあえず。『あ』と言ってみた。すると、周りの生徒諸君はザワついた。聞こえる。聞こえるぞ。僕を誉めそやす言動が。拍手喝采が聞こえるぞ。と、思ったが、たぶん、思い込みだと思う。

「アーメン」

 なんか。言ってみたかった。そして、胸のあたりで十字を切った。また周囲からひそひそ話しが聞こえ出した。きっと彼らは信仰するひたむきな僕の姿をみて恍惚こうこつとしているに違いない。彼らの目には後光がさした僕が……、うん。そんなことはないか。よし。もう一度。

「アーメン」

 アーメンと言う間に僕は帰宅していた気がした。気がしただけで、実際は、あっと言う間に帰宅していたのだった。尋常ではないスピードだ。あっと言う間だなんて、なんてスピードなんだ。なんてスピードってどんなスピードなんだ。

「あ」

 あっと言う間に、朝になっていた。

「あ」

 あっと言う間に、学校に着いていた。

「あ」

 あっと言う間に、帰宅した。

 なんて速さだ。一日のスピードがあっと言う間だ。

「あ」

 あっと言ったあと僕は寝た。

 あっと言う間に朝になった。

 僕は、がっかりした。

 まだ、憂鬱な一日が始まる。

 あっと言う間に終わる人生であればよかった。

 あっと言う間に消えてしまいたい。

 大好きな人達に、今まで蟻が十匹有難うって別れを告げてから消えてしまいたい。

「あ」

「あ」

「あ」

「あ」

「あ」

「あ」

「あ」

「あ」——こうして毎日が過ぎていった。

「あ」っという間に過ぎていった。

「あ」っという間に学校に着いた。

「あ」っという間に教室に着いた。

 そこで僕は「おはよう」と言われた。

 目の前には相対してはいけないはずの——翔川逢が毅然として立っていた。僕は唖然とした。まさか、相対しても、僕はまだ、生きている。ぶつかってこないだなんて、想像外だ。僕の五臓六腑は無事だ。この命があることに感謝。糖を食べた蟻が糖。

「にははは」

 と、笑った。それは、いままでにないキャラだった。いままでにない笑い方だった。それを僕は、初めて拝見した。拝ませてもらった。が、合掌をしなくては。

「はははにはは」ははははは」大好きなんだよ。君のことが。だから、こうして挨拶をしているんだよ」

 と、言った。笑顔だった。僕は、気持ちが萎縮した。

「翔川……逢」

 ……どんな笑い方をしてたのかを的確に言い表わす自信を僕は持ち合わせていないが、それでも、もし、誰かに伝わるように努めるとすれば、そう——。

 幸福な笑みだった。

 それを、僕は望んでいたのだ。中学時代のころから、ずっと。なぜ、そんな笑みができるようになったのか。それを、僕の弱い記憶力では把握していないけれど。でも、いいや。だって、僕の願いは叶ったのだから。

「なんちって」

 僕はシニカルな笑みを浮かべた。

 相対して彼女は正反対の笑みを浮かべた。

 思い浮かべた。その笑みが永遠になることを。浮かべたものは、船でも感情でもいつかは劣化し、沈みゆくものだけれど、でもその儚さを忘れて生きている人間はきっと多い。いつかは失われる地球号に乗る僕達の、刹那的な時間にどれほどの価値があるのか。相対価値と絶対価値。対するものは、どこからどこまでが丁度いいのか。比べ過ぎてもダメなら、自己の中心はいったいどこに定めればいいのか。彼女の笑みさえ『強がり』である可能性を想定や想像をする人はいるのか。そんなことを幾度となく、思い浮かべた。

 こういうのをきっと——独りよがりっていうんだろうな、と思った。独りで勝手に思い込んで、思い浮かべて、絶対的なものがそこにあると信じて、勝手に決めつけて、僕の頭ってどうして、こんなにも——こんななんだろう。はあ。やっぱり人間て普通が一番、幸せなのかもしれない。翔川逢——彼女にとっての幸せとはなんなのだろう。それは、きっと何かが欠如している僕では到底、与えることができないものなのだろう。今は、もう僕には、韻を踏むことしか残されていない。いや、それさえも今の僕にはできていない。なんてザマだ。こんなことでは、くだらないことを全力で活用する僕の存在意義が薄れていくではないか。甲斐性なしとは僕のことを指して言うのかもしれないな。ああ、つまり僕は甲斐性が欠落しているということか。だから僕は韻を踏んでいたのだな。

「ふぅ」

 僕は一度、大きく息を吐いた。そして、その大きな瞳をうかがった。まあ、瞳が大きいのは錯覚で、実際には、彼女の瞼を持ち上げる筋肉が瞳を大きく見せていただけなのだが。いや、二重瞼なのもあるか。と、さらりと今までまったく形容していなかった彼女の美麗なパーツをそれっぽく説明したところで、僕は、

 僕は——壁ドンをした。

 右手を壁に叩きつけ、ドンという擬音を鳴らした気がした。そんな気がする。なんとなく睨みつけてみた。

 翔川逢——彼女は、笑っていた。

 それが、どんな笑い方だったとか、そういう詳細を僕の弱い語彙の記憶力では語ることができない。だから、素直に感じたことだけを、形容しよう。

 いい、笑いだった。けして、誰かの都合ではなく、誰の思惑もなく、口角は自然な仕草で、いい角度で引き上がっていた。

「いい、笑顔」

 僕は渾身のイケメンボイスでそう言った。全世界の女子を震撼させるようなイケメンボイスでそう言った。うん。言ったのだ。絶対に言った。間違いない。

「こんな」

 彼女は長い上まつ毛を数回上下させて肩を震わせていた。これは、決まったな。これで、僕は——

「……こんな聞くに耐えないブサメンボイス初めてだわ……」

 決まった。

 ……。決まった。あとは壁ドンしたあとの、恒例のやつをやれば……、「その笑顔」

「すき」

「はっキモい死ね消えろウザい嬉しい私も」

 決まった。彼女は、頬を真っ赤にしている。校長先生もびっくりの紅潮だ。僕は、ついに、やってやったぜ。と僕は自分のキャラがズレていくのを感じた(いつも通りか)あと「うっし!」と胸のあたりでガッツポーズをとった。

 彼女は「う、嬉しい。私も、キモい死ね消えろウザい足利くんのことが、大好きなんだ、ぜ」と言って、美麗な顔のパーツのあちこちを引き上げ、笑って見せた。僕は胸に何か熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 本当に、これ以上はダメだ。もう、幸せを通り越して、死んでしまいそうだ。やっぱり、もう少し、距離をとらないと……。

「ああ、えっと、トイレに行っといれっとペーパー」

「……」

 やばい。頭がおぼろげになって熱い。ぼうっとする。そう。僕は、トイレに行くことを理由にこの場から距離をおこうとしていたのだ。そう。そういうことだ。

「実は僕はずっと尿意を抑えていたため、膀胱炎になりそうなくらい苦しかったんだ。だから、さ、さっきの会話はもうおしまい。やばい。おしっこおしっこ」

 と、トイレ内に駆け込む。足を内股にして、両手を膀胱の中央に重ね、できる限り、身体の上下振動を最小限にして、小刻みに震えながら小股で走るさまは、我ながら思うに、圧巻だった。「おしっこおしっこ」と言いながら走るさまは、どんな青少年よりもひたむきなそれだった。それはすごい。それはやばい。それはすごい。……漏れそう。

 便器の前に立ち、放出しながら、僕は、これからのことを考えた。これから、いったい何をすればいいのか。それが、わからなかった。これが率直な気持ちだった。もう、全て終わったと思う。彼女がなぜ、急に僕に興味をもつようになったのかとか。そんな伏線は脱線しよう。だって、もうどうでもいい。過去のことなんて、忘れたままでいよう。

「あ」

 あっという間に、今日が終わった。


 ***


 中学生のとき。中学二年生のとき。あのとき。僕は、故意だった。故意で、色々な行為をしていた。彼女の机に死ねと落書きがされてあれば、放課後にこっそり消しに行き、彼女の鞄が無くなれば、休み時間にふらふらしてる振りをしながら、各教室のロッカーを開けまくった。彼女がぽつんと一人、仲間外れにされていれば僕も故意に仲間から外れて、彼女と同じ気持ちを味わった。彼女とは、ほとんど、話さなかった。ただ、ただ、故意だったのだ。この気持ちは、全部、故意だった。

 中学二年生のとき。あのとき。彼女は、不思議そうに天井を見上げていた。僕は、そんな彼女を見つめていた。天井には別段、なにもなかった。あのとき、彼女は何を見つめていたのか、とても気になった。僕は、気持ちが変になっていたのだ。これは別に恋じゃない。

 故意だ。

 故に意がある。

 彼女が、あのキャラクターを好きなのは知っていた。そんな情報、SNSを使えばいくらでも手に入る。このころからだったか。僕が、合法的な範囲内のストーキングをするようになったのは。つまり、完璧に、自分の影すら見せないよう細心の注意を払って尾行する。ということだ。尾行という行為は、別に好意がなくてもあっても、犯罪になってしまいかねない(特に男は)のだが、僕はそれを自然に無害にやってみせた。

 別に僕は粘着質なキモい男子というわけではなく、彼女はいつも危うい表情をしているから心配なのだ。全然、楽しそうに笑えていない。目が、笑っていない。ただ、その日の彼女らしいキャラを演じて、それをみんなが彼女らしいと思って過ごしているだけだ。彼女は自分が苦しんだ形跡さえ残さずに、日々が経過していく。辟易へきえきだ。だれも彼女のことを知らずにわからずに、彼女はだれのことも信用できずに、学校を卒業してしまうのだろう。それは、絶対にさせない。

 このころは彼女と相対することはできていた。相対しても、別にぶつかられることはなかった。彼女は別に僕に興味があるわけではないからだ。それに、このころの彼女は『強そう』ではなかった。不注意でぶつかっても、全然痛くなかった。いや、むしろ『だんだんと強そうになっていった』と表現する方がいいかもしれない。彼女は、だんだんと強そうになってだんだんといじられやすくなっていったのだ。そしてだんだんと彼女は学校に来なくなっていた。

 多様な強さ。

 多様な弱さ。

 僕はこのころ生き物の多様性について考えさせられていた。生き物(特に動物)にはそれぞれ『同種におびかされてはいけない範囲』が決まっていて、その範囲テリトリーに入ってきた同種は、攻撃される。小屋で飼われるニワトリ同士がくちばしでつつき合うように、人間だって、学校で集団行動をしいられる故に、嫌々でもその範囲テリトリーに入って攻撃を受けてしまうのだ。

 弱肉強食。

 焼肉定食。

 強弱は一概に色々あって、彼女はあまりにも普通ではないから、その強さをみんなが勘違いしてしまう。強そうだから傷つけていいという心理。

 強そうに見えて弱い人間。

 弱そうに見えて強い人間。

 果たしてどちらがいいのだろう。そんなことを、考えていた。ただの、暇人かもしれない。いや、考えたところで、本当の強さとはなにかなんて命題を理解しているわけではない。僕は、そんなに賢い人間ではない。なにせ僕がわかるのは僕思う、故に、僕ありだからな。それだけわかっていれば十分だ。

 僕はたしかに、ここにいた。この学校に。この教室に。それだけで十分だった。十分だ。……十分。彼女がいれば十二分だった。プラス二分だった。別に恋をしているわけではない。これは、故意だ。全て、故意だった。ワザとだった。

 彼女が精神を安定させる薬を服用していたのは、知っていた。僕思う、故に、僕あり、しか知らないはずなのに、僕は知っていた。彼女の手首にある傷跡も、知っていた。うまくいく人間関係なんて、彼女には夢の話しのようだっただろう。人を信じられないと、彼女は言っていた。いくら切っても痛くないと、言っていた。それは、すごかった。すごかったなんて形容をすると、全然すごくないみたいだけど、うん。そのままの意味ですごかった。

 空は青々とした晴天で、どこまでも、夢や希望に溢れているかのような景観なのに、それなのに、この空の下、感情に支配されて独りで思い込んで、現実のどこにも絶対的な価値を見出せないでいる人が、確かにいた。確かに、いたのだ。忘れるものか。いや、忘れたけど。色々、忘れたけど。でも、あのキャラクターだけは忘れられそうになかった。どんなキャラクターだったかを形容する描写表現を持ち合わせていないけど、でもイメージとしては覚えていた。

 卒業式。あのときも、僕はブサメンで、ずっとうわの空だった。なにも考えていなかった。ただの不甲斐なしだった。甲斐性なしだった。それだけだった。空には、晴天が広がっていた。卒業証書を持ったみんなや、花束を持ったみんなはお祝いモードだった。空には、晴天が広がっていた。桜も綺麗だった。でも、そこには彼女はいなかった。それだけだった。

 僕はなにもしていない。本当に、なにもしていなかった。彼女にもなにもしていない。すずめの涙ぐらいしか会話をしたことがない。本当に、なにもしていなかった。だから、僕はただの一般人ぼうかんしゃだった。それだけだった。

 何度も、こう叫びたかった。ここに居場所はあったはずだった。いるだけで苦しくなる空間はあったかもしれないけれど、それでも、そこにいてはいけないなんてことはなかったはずだった。不登校の学生なんて今時、珍しくないけれど、休む理由は本人にしかわからないけれど、誰かはその人のことを待っていたかもしれなかったのだ。来てくれるだけで嬉しい人がいたかもしれなかったのだ。そんなことを、叫びたかった。なんて、傍観者の僕が思ったところで仕方ないのだけれど。だけれど、思ったものは仕方がない。

 僕みたいな傍観者は、誰にも優しく、無責任を貫き通して生きていくのがお似合いだ。優しいねと言われやすいとてつもなく無責任な人間て嫌だな。まあ、僕以外でもそんな人いっぱいいそうだけれど。まあ、そんなことはさておき、僕は、あのころ、キャラクターの絵を描いた。あのキャラクターの絵を描いたのだ。だからなんだって感じだが、いやその通り。本当にだからなんだって感じなのだ。僕は、キャラクターの絵を描いた。完。で終わりなのだ。大したとはない。全然、大したことはなかった。掲示板に貼り付けた。それだけだった。全然、大したことはなかった。

 つまり、そういうことだった。この物語は、そういうことなのだ。いや、物語ではないかもしれないれど、いや、物語かもしれないけれど、つまり、そういうことだった。これは、そういう感じだった。と、大体、イメージしていただければそれでいい。つまり、そういうことだった。完。無い伏線を回収しない物語が終わった。いや、物語じゃないかもしれないけれど。あれ、まだ物語は終わらないみたいだ。もう、これ以上話すことなんてないのに。話すって、いや、いったい誰に向かって話しているんだ。みんなか。みんななのか! と僕のキャラがおかしくなってきたところで、僕は、キーボードを打鍵するのをやめた。

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