三話 明暗を分ける蜘蛛は糸を垂らす
蜘蛛は低木から歩道へと飛び降りた。地面をちょこちょこと走って女の横を通り過ぎ、バスの下をくぐって潰れた男の方へと回り込む。
潰れたとはいっても見た目は非常にきれいで、うぅうぅと唸れるくらいにはまだ意識があるようだ。出血らしい出血もそう見当たらず、恐らくは内臓が破裂しているのだろう。痛みから脂汗が酷く、次第に男は泡を吹くようになった。
蜘蛛は男の足に糸が通っていないことに気づく。糸と言うか、意識だ。胸の中心にある魂から伸びる意図、と言えばいいだろうか。神経とは別物で、どれかと言えば念動力に近いものである。蜘蛛はそれを糸として見ることが出来た。
うつぶせに倒れたところをバスが通過したものだから、どうやらバスの重さに耐えられず、背骨が折れてしまったらしい。それで腰から下に意識の糸が通わなくなり、使い物にならなくなったようだ。内臓も潰れてしまっているし、早く病院へ運ばないと命も持たないだろう。
そこまで蜘蛛が判断した頃になって、ようやくバスの運転手が降りてくる。運転手は二十代くらいと思われる若い男性で、スマホを片手に、救急に連絡をとっている。運転手は倒れている男に何度も「大丈夫ですか」と呼び掛け、電話に向かって「へ、返事がないです」とどもりながら言う。起こしてしまった人身事故に青ざめているらしい。
しかし、何だろうか。運転手には少し違和感がある。
見たままを言えば、運転手は人身事故を起こして混乱している、と言った感じなのだが、しかし、どうにもその言動や表情に、魂と言うものが感じられない。蜘蛛が言うところの、糸がない状態だ。何だか下された命令通りに動く機械のようで、蜘蛛はその運転手を好きになれなかった。
そんな思いもあって、潰れた男を見て蜘蛛は少しだけ同情する。
元はと言えば、女の肩に乗って居た蜘蛛を払いのけて潰してしまったばかりに、男も潰れる羽目になったのだ。これは蜘蛛が鬼となった際に、自らを殺したものを恨んでいたと言う、生い立ちがあってのことで、蜘蛛を殺したものには相応のことが起こるようになっている。つまるところの呪いである。
ただ、今の蜘蛛には、何が何でも自分を殺した相手を貶めるような、そう強い呪いがあるわけではない。それでも男が先ほどの蜘蛛のように潰れてしまったのは、運が悪かったとしか言いようがなかった。
恐らくこの男は、蜘蛛と行き遭わずともバスに轢かれていたことだろう。運がないとはそう言うことだ。自己が何をしようが、他人に何をしてもらおうが、必ず望まぬ結果へと行き遭う。そんな男の運の無さは、もはやこの世が男を不要と判断しているかのようだった。
「えっ、あれっ? えっえっ? だ、大丈夫ですか!?」
ようやく事態に気付いたのか、女がバスを大きく回って近寄って来る。
男に比べて、この女は運がいい。男と共に横断歩道を渡っていたら、同じく轢かれていただろう。しかし、靴に入った石を取り出そうと、青になっても渡らなかったために助かったのである。
しかしこれも、蜘蛛のおかげと言えばおかげだった。
あの時、蜘蛛が女の足元を這ったがために、女はそれを払いのけようと、足をばたつかせた。普段ならしないような、ちょっと激しい動きで、だ。結果、靴に石が入り、女は危機を回避できたのである。
このように、自己にとって都合のよい状況、すなわち好機を得るにはどうすればいいか、それを突き詰める学問を好機学と言う。女はこの好機学を専門的に学び、それを活かした結果、運を味方につけ助かることができたのだ。
もしかすると、蜘蛛が女と逢っておらずとも、女は助かっていたのかもしれない。
明暗がはっきりと分かれた二人を前に、蜘蛛はしばし二人の様子を窺っていた。女は男の元に屈み込むと顔を近づけ、ゆっくりとした口調で「お兄さん。大丈夫ですか? どこか痛いところはありませんか?」と言い、「もうすぐ救急車が来ますから、それま、それまで、頑張ってくださいね」と半ば泣きながら励ましていた。
女からすれば、ついていた虫をとってくれた親切な人、という認識なのだろう。それがこんな事故に遭っては、堪えるものがある。ましてや、事故に遭う直前に言葉を交わしていたのだから、なおのことである。
もしも、もしもクモを見ることでいいことが起こるなら、このお兄さんが無事でありますように、と、女が心の中で願ったのを蜘蛛は感じた。周りにいる人が死ぬのは嫌だと言う、強い意思も感じる。
蜘蛛は跳ねて男の背に乗ると、背の間中に糸を付けて垂らしつつ、男の胸へと入り込んでいった。そのまま男の体を通り抜けてあの世へと降りて行き、十分に降りたところで、糸はそのままに、糸を辿ってこの世へと戻って行く。
半分ほどまで戻ったところで、蜘蛛は糸を口ではさんだ。すると、挟んだところからぼうっと緑の炎が沸き上がり、あっという間に糸全体を包んでいった。地獄の炎と見間違うほど熱く燃える緑炎だが、糸はいつまでたっても燃え尽きることがない。
あの世に居た亡者が糸を登ろうとして掴んだが、緑炎が燃え移り、灰も残さずに消えてしまった。糸と緑炎には呪いを仕掛けているので、蜘蛛とそれが許すものしか登って来られないのだ。
蜘蛛は緑炎に包まれつつ、糸を辿ってこの世へと戻った。これで仮にこの男が亡くなったとしても、あの世に垂らした糸を登ってこの世へと戻って来られるだろう。
この世へ戻った蜘蛛が一仕事を終え、触肢を動かしていると、救急車のサイレンが聞こえ始めた。それに混じって、パトカーの音も聞こえてくる。この街道には病院と交番がそれぞれあるため、駆けつけてくるのは早いのかもしれない。
二つの音に紛れて、女の呟く声がする。無事でいて、無事でいて、一人だけなんて。女は何度も同じことを繰り返し、男の手を握る。事故に気づいて東西へと走る車は曲がってはこないが、相応の数がゆっくりと走りつつ、事故現場を覗き見てくる。
「ごめんなさい。親切なお兄さん」
女がそう呟けば、再びけたたましい自動車のブレーキ音が周囲に響き渡った。
幾台かの自動車が、玉突き事故を起こしているのが分かる。そして、そのぶつかり合った自動車の中に、バスの運転手の姿があるのを蜘蛛は見るのだった。
2016.09.14 改行を加え、読みやすさを追求。