二話 朝の蜘蛛は縁起を運ぶ
女が猫に憑かれているのか。それとも、猫が女に化けているのか。
どちらにせよ、蜘蛛の餌がその女の近くにあると言うことに違いはない。
一般的に、クモは益虫とされている。農作物を食い荒す虫を食べたり、ゴキブリなどの衛生害虫を食したりと、居を構え農耕を行う人にとっては、害を減らしてくれるありがたい存在だ。
それはこの世からみた蜘蛛も同じで、蜘蛛はこの世にとって招かれざる客である、このよならざるものを食す守り神のようなものだった。と言うのも、この世ならざるものは総じて魂を有しているものであり、蜘蛛はその魂を狩ることで御魂石を得ていたのだ。とりわけ、あの世からやって来る鬼は蜘蛛にとってこの上ないご馳走で、それが女の近くにいるとなれば、見逃すわけにはいない。
蜘蛛は食べかけの御魂石をそのままに、網にとまったまま糸を垂らす。細くて軽い糸は風に吹かれ、参道を横切るようになびき、やがて反対側の木へと張り付いた。女は蜘蛛が流した糸に気づいていないようで、参道を横切った際に糸が体に付着し、鳥居をくぐって神社を後にした。
目が悪いから見えていない、と言うことではないのだろう。女は度の入った丸くて大きな眼鏡をかけているので、視力の矯正はされているようだ。とは言え、糸はかなり細く、一本だけだったので、気付きにくかったのかもしれない。それに、糸は女が着ている白いニットのワンピースに付着し、肌に直接触れなかったため、余計に気付かなかったのかもしれない。
しかし、蜘蛛が垂らした糸は、この世の糸とこの世ならざる糸を縒って創り上げたものなので、例え糸が目に見えずとも、第六感の優れたものなら何かあると勘付くことがほとんどだ。特に、あの世からこの世へとやって来る鬼ほどのものなら、糸どころか、蜘蛛の存在を一早く察知しただろう。
鬼には鬼が分かるのだ。
もっとも、蜘蛛は目が悪いため、化けられているとうまく判断がつけられないことがある。
したがって、糸にも蜘蛛にも気付く素振りがないその女は、女に猫が憑りついている可能性が非常に高い、としか言えなかった。
それでも蜘蛛は張り付けた糸を辿って、女の背へとよじ登る。この女についていけば、化けているにしろ憑かれているにしろ、しずれ鬼の猫が姿を現すかもしれないと考えたのだ。そうなったら蜘蛛はその猫を狩って御魂石を得、新たな餌を得ることができる。
ふいに蜘蛛は、網に食べかけの石を置いて来てしまったことを思い出す。ついつい目の前の餌に釣られ、度々こんな風に食べかけをその辺りに置き忘れることがあった。慌てて蜘蛛がその石を回収しに行っても、その時には時すでに遅しで、大抵食べかけは見つからないのだ。
今回ももう網には石がないだろうと、蜘蛛は新たな餌となる猫が姿を現すまで、しばし女の背で過ごすことを決めた。
女は神社から街道へと出ると、朝日に背を向け、西に向かって歩き始めた。所持品は二十センチほどのハンドバッグで、そのバッグの中からスマートフォンを取り出す。肩へとよじ登った蜘蛛がそのスマートフォンの画面を覗き見れば、どうやら時刻を確認しただけらしく、女は直ぐにバッグの中へとスマートフォンを仕舞い込んだ。
しばらく歩くと、街道に片道一車線と車線もない道路が合流する交差点に着いた。タイミング悪く信号にかかったようで、女は足を止め、再びスマホを取り出す。何か待ち合わせでもしているのか、やたらと時刻を気にしているようだ。
それはふいの一撃だった。
「お姉さん。肩に蜘蛛がついておりますよ」
蜘蛛は背後から強く手で払いのけられ、勢い余ってあの世へと落っこちてしまった。驚きに周囲を見回しつつ、蜘蛛は女につけていた糸を辿ってこの世へとすぐに戻る。すると、蜘蛛を払いのけたと思しき男が女と何やら話していた。
「び、びっくりしました。たぶんさっき神社に寄ったからその時についたんだと思います。でも小さいクモでよかったです。大きいのだったら多分あたしびっくりして車道に飛び出していたかもしれませんから」
「そんなことにならなくて何よりですよ」
男がこの世へと戻って来た蜘蛛を見下ろしてきた。蜘蛛が鬼であると気づいて払いのけてきたのだろうか。しかし、男は直ぐに蜘蛛から目線を離すとまた女と話をする。
「草木のあるところに行くときは、ちょっとした虫よけのスプレーとかあるといいですよ。結構、短時間でも虫って寄ってきますから」
「そうですねその方がいいとあたしも思います」
どうやら男は単に蜘蛛が肩にとまっているのを見つけたと言うだけで、何かに勘付いたわけではないようだった。蜘蛛から見ても、その男から格別変わったものは感じられない。これは純粋にこの世で生まれ育っているものだ。
蜘蛛は男から興味を失くし、女の方へと近づいていく。
「あ、お姉さん。またクモが寄っていってます」
ふいに視線を落とした男がそう言って蜘蛛の方を指差し、
「えっ、えっえっ、どこですか?」
と女が足を上にあげたり、後ろに若干下がったりしながら蜘蛛を探そうと、地面の方へと視線を落として来た。
「あ、ほらそこ」と男は言って蜘蛛を指差し、「あ、お姉さんだめ、それじゃあ踏んじゃう」と、制止するように促す。それから続けて、男はこう言った。
「朝にクモを殺すとね、縁起が悪いんです。だから踏まないように」
「えっえっ、そうなんですか?」
「ええ。でも、朝にクモを見るのは縁起がいいって言われてますから。今日は何かいいことあるかもしれませんよ」
「だといいんですけど。あ、やだ、足に登ってきてる」
「あらら。お姉さんのこと気に入っているんですかね。でもまあ、また肩まで乗られても困りますし……あ、その辺の植木に逃がしてあげましょうか」
男は女の膝辺りまで登っていた蜘蛛を両手で優しくとらえると、歩道と車道の間に植えられていた低木へと放した。女は「ありがとうございます」と言って、男に軽く頭を下げる。
蜘蛛はそんな二人をじいっと八つの目で見ていた。
信号が青になり、女と男は横断歩道を渡ろうとしたが、女はどうやら先ほど蜘蛛を払おうと足をばたつかせた際に、靴に小石が入ったらしく、歩行者用信号を手すり代わりに掴んで、右の靴を脱いだ。
「それじゃあ、自分はこれで」
「あっはい。ありがとうございました」
男に言われて女はとっさに返事をし、脱いだ靴をひっくり返して小石を出す。
朝にクモを見ると縁起がいいと言うのは、本当なのだろう。小石はなかなか靴の中から出て来ず、女は何度も靴を振ってしばし立ち往生していた。目線も手元の靴へと落とされていて、道路の方を見ずに済んでいた。
そして、朝にクモを殺すと縁起が悪いと言うのも、本当なのだろう。
一足先に渡り始めた男の元へと、一台の大きなバスが右折してきてきて、背後から男を轢いてしまった。ぶつかり弾き飛ばされるだけなら、まだましだっただろう。バスの左前方がぶつかった際、男は衝撃から倒れ込み、その上を重いバスが乗り上げていったのだ。
ブレーキ音とともに、横断歩道を遮るようにしてバスは停まる。
「えっ? えっえっ?」
女は声を上げて困惑したような表情を浮かべる。バスの車体によって、女からは潰れた男の体はまるで見えていなかった。
2016.09.14 改行を加え、読みやすさを追求。