一話 境内の蜘蛛は猫の毛を見る
三月も末を迎え、アゲハチョウが飛ぶようになった。
夜を終えて朝日が顔を出し、蜘蛛は境内にあるイチョウの木へと登り始める。夜の間に見つけた小さな御魂石を触肢と二本の前脚で器用に運びながら、時折足を止めて頭上を飛ぶチョウを眺めていた。
春の訪れを思わせるそのチョウは、微小な魂を持ち合わせているものの、普通の昆虫のようだった。蜘蛛のように特別何かの力を有しているわけではない。もっとも、蜘蛛からすればその普通のチョウも餌に見えるわけで、手元に御魂石と言うご馳走があっても気を引かれていた。
やがてチョウは花を求めてどこかへと飛んでいき、蜘蛛はチョウが見えなくなったことで木登りを再開する。人の背丈よりもよほど高く登れば、幹から太い枝が伸びていた。蜘蛛はその枝の上へと移動すると、運んできた石を置き、幹と枝の間に網を張り始める。
半分ほど網を張り終わったところで、境内に人の姿が見られるようになった。神主や巫女と言った神職の人たちで、丁寧に掃除をしている。これは毎朝のことだ。
特に気に留めず、蜘蛛が網の続きを張っていると、近くにやって来た一人の巫女が蜘蛛を指差してきた。蜘蛛が動きを止めてその巫女の方を見ると、隣に居たもう一人の巫女が「だめだめ」と手を顔の前で振っている。
「えっ。でも、クモの巣ですよ?」
巫女が言うと、もう一人の巫女が答えた。
「よく見て水谷さん。あれ、巣にクモがいるでしょ?」
水谷と呼ばれた巫女は少しつま先立ちになりながら、蜘蛛の方、というよりは、蜘蛛が張りつつある網の方を覗いてくる。
「あ、ホントだ。ごめんなさい、気付きませんでした」
「いいのいいの。巣を取る前だし。それに、もしクモが居る巣を取っちゃっても気付いたときにごめんなさいすれば大丈夫だから」
そう言って水谷ともう一人の巫女は、他に網が張られていないか見つつ、地面に落ちている葉っぱや参道にある砂を掃いていった。
蜘蛛が境内に住み着くようになって、そろそろ二か月が経つ。最初の頃こそ張った網を壊され、潰されたりもしたが、ある晩、蜘蛛が神主の夢の中へと入って文句を言ったら、「それはすまなかった」と謝られ、「神様が居付くことをお許しになったのなら、わたくし共の方からは何もしない」と言われた。続けて「ただ、境内をきれいに保つのもわたくし共の務めだから、お前の居ない巣はこれまで通り片付けさせてもらう」と言い、蜘蛛はそれを承諾した。
以来、その神社の神職が蜘蛛の網を壊すことはなくなった。
ただ、直接夢で会った神主はともかく、巫女たちは蜘蛛と他のクモの見分けがあまりついていないらしく、とりあえずは何も居ない網を見つけたら片付ける、と言うことにしているらしい。おかげで、ちょっと蜘蛛が網を離れた隙に片付けられていることがあり、一方で、他のクモが張った網がいつまでも残っていることが度々あった。
もっとも、本殿や拝殿などの建造物や参道近くに網を張ると、容赦なく神主に叩き潰され片されるのだが、それについては「神様を祀っているところだから」と神主は言い、棲み分けも大事だとして、蜘蛛もそれ以上の文句を言わなかった。
そう言うわけで、蜘蛛は人目に付きにくいところに網を張り、留守にした際に網を片され、時折誤って潰されつつも、境内でほとんどの時を過ごしていた。
一時間ほどで網を張り終わり、蜘蛛は枝の上に置いてあった石を網へと運ぶと、糸でしっかりと固定し、食事を始める。石は小さいものの、金属のようにずっしりと重たく、透明で、澄み切った流れる川のようにゆらゆらと揺らめいていた。
しばし蜘蛛が石の中に詰まっている無数の透明な光の粒を食していると、子供の声が聞こえて来た。境内には十台ほどの駐車場と草のない広場、いくつかの遊具が設けられており、近所に住む未就学の子供たちが親に連れられて遊びに来ることが多かった。
少し昔、境内には託児所かそれに類するものがあったらしく、また、ここには学業の神様が祀られているため、そういう意味でも子供が良くより付く場所となっているらしい。
今は春休みと言うこともあって、未就学児だけでなく、小学生と思しき子供の姿も少しある。子供たちは本殿や拝殿のある方までは立ち入って来ず、その手前にある広場を駆けて遊び、ブランコでどちらがより高くまで揺らせるか競争している。恐らく子供たちもこちらの方には、うかつに立ち入ってはいけないのだと理解しているのだろう。
石を半分ほど食したところで、境内に女が一人やって来た。子供たちよりはよほど年上で、しかし、親と言うにはいささか若い女だ。
「あら、お久しぶりね」
娘を連れていた一人の母親がやって来た女に声をかける。
「え?」と女は不思議そうな顔をしたものの、直ぐに「あ! お久しぶりです」と返事をする。どうやら知り合いらしい。
蜘蛛は母親と娘の方なら何度も見たことがあるので知って居たが、その女についてはまるで知らなかった。話している内容を聞く限りは、どうやら女はもともとこの辺りに住んでいたものの、進学をきっかけによそへ越していたらしい。それでこの三月に無事卒業し、地元へと戻って来た、と言うことらしかった。
「じゃあもう社会人ってことなのねえ。この頃は就職難だって言うし、大変ね。学校はどこ行っていたの?」
「えっとあの、京都にある高等専門学校です」
「京都? ああ、ああ。あのちょっと最近話題なところよね。好機専門の」
「あっはい、そこですそこ。好機学っていう、望ましい機会を得るにはどうしたらいいかっていう、そういう技術を学べるところです。やっぱり、普通に大学まで進学するよりはこういった技術を身につけられるところのほうが将来的にいいかなって思いまして」
「そうよね。確か資格とかあるのよね」
「ありますあります」と女が頷く。
「やっぱり資格とかあった方がいいわよね。ほら、出産とか子育てとかで辞めちゃっても、看護とか好機とか、そういう資格があると、いざってときに職場に復帰しやすかったりするものね」
当分は終わりそうになかった母親と女の世間話は、娘が母親の袖を引っ張ったことで終結を見せる。
「あ、ごめんね。えっと」と女が言うと、「ああ、春賀よ」と母親が言う。
「春賀ちゃんごめんね。せっかく遊びに来ているのにお姉ちゃん邪魔しちゃったね」
屈んで女が言えば、娘は母親の後ろに隠れてしまった。
「あらあら。ごめんなさいね、人見知りする頃で」
「そうなんですか」と女は母親に言い、それからにこりと笑顔になると、「春賀ちゃん。今度はお姉さんと遊んでね。……それじゃあ、あたしはそろそろお参りしてきますので」と別れの挨拶も程々に、広場の方から手水舎の方へと歩いて来た。
近づいてくるにつれて、蜘蛛はその女が妙な頭であることに気づく。髪を後ろと左右で三つに、それぞれゆるく二つ編みのように結っているのだが、毛先が茶色く、大部分は黒で、ところどころに白髪が混ざっている。
女は手水舎で清めると拝殿へと歩みより、いくらか賽銭を入れると鈴を鳴らす。二礼二拍手、最後の一礼をするときにはなかなか頭を上げなかった。
しばし後に、ようやく頭を上げた女はふうっと息を吐いて決意したような表情になり、回れ右を思わせるきびきびとした動きで後ろへと振り返る。その際に、女の長い髪の中から白黒茶、それぞれの色を持つ短い毛が落ちたのを蜘蛛は見逃さなかった。
それは、この世ならざるものの毛であり、蜘蛛の同類と思しき、鬼となった猫の毛だった。
2016.09.14 改行を加え、読みやすさを追求。