序幕 石集めの蜘蛛
その夏は非常に厳しい暑さだった。
蜘蛛は壊れた空家の軒先に網を張っていたが、暑さで餌となる虫がまるでおらず、飢えた蜘蛛は餌が来るか死が来るか、静かにその時を待っていた。
太陽が最も高く昇った頃、蜘蛛の前に一頭の蝶が現れる。透明な羽根を持つその蝶からは、どうにも精気と言うものが感じられず、この世のものとは思えないような、見るものを不安にさせる、妖しい雰囲気をまとっていた。
もしもその蝶についていこうものなら、あの世か異界か、あるいは神隠しにでも遭ってしまいそうで、けれど飢えた蜘蛛は、例えその蝶がこの世のものではなかったとしても、腹が満たせるのであれば何であっても構わなかった。蜘蛛は餌を選り好みしないジェネラリストだ。飢えて死ぬくらいなら、悪魔だって喜んで食べることだろう。
蝶は音もなく網の近くを飛び回り、やがて羽を休めるため、蜘蛛の仕掛けた網へと止まる。網を構成する糸はべとべとしているので、足にくっついて離れず、蝶は飛び立とうと激しく暴れ始めた。
恐らくこれは、蜘蛛に与えられた最後の機会だ。
そのことを理解している蜘蛛は、飢えた体を引きずるようにゆっくりと蝶に近づいていく。一歩進むごとに命が削られるようで、けれど、立ち止まっていてはどの道飢えで死んでしまう。
生きるか、死ぬか。意を決した蜘蛛が蝶に飛びかかる。しかし、蝶は飛びつかれる前に糸から足を放し、網の周りをひらひらと飛んでいた。蝶は蜘蛛の糸から抜け出す術を持っていたのだ。
いや、もしかするとこの蝶は、初めから糸になどと囚われていなかったのかもしれない。死にかけた蜘蛛をからかうため、網にとまって糸を揺らし、蜘蛛をおびきよせていただけなのかもしれない。
その証拠に、蝶は死に逝く蜘蛛をあざ笑うように、いつまでも網の周りをゆらゆらと重力に逆らって、妖しげに飛び回っている。お前はこの世にはいられない。もう死ぬのだ。おお哀れ哀れ、と笑う声が周囲に響いているかのようだった。
日差しは非常に強かった。蝶が十頭にも二十頭にも見えるくらい、そしてそれらが皆一様に笑って周囲を飛んでいるように思えるくらい、酷い暑さだった。蜘蛛は全てに見放されたような気がした。幻覚だと人は笑うかもしれないが、事実、蜘蛛にはそれだけの数の蝶が飛んでいるように見えていた。
蜘蛛の中で、ふつりと何かの糸が切れたような音がする。
それは怒りか憎しみか、蜘蛛の中に生じたやり場のない思いが、奇跡を生んだ。蝶に対する思いが緑の炎となって羽根を焼き、突然の炎に逃げる間もなかった蝶は、次々と羽根を失い地面へと落ちていく。
そのうちの一頭、最初に蜘蛛の前へと現れたあの蝶が、網の上へと落ちて来た。蝶は足をばたつかせて暴れるが、羽根がないのでは空へと逃げられないようで、いつまでも暴れるだけだった。地面に落ちた他の蝶も同じく、飛べずに地面を這っている。
餌に喜ぶ心とは裏腹に、蜘蛛の体はなかなか動かなかった。いくら奇跡で蝶の羽を燃やせても、蜘蛛が飢えていることに違いはないのだ。生か死か、気力だけが頼りで、蜘蛛は一歩また一歩と進んでは立ち止まり、半日かけてようやく蝶の元へとたどり着く。
最初こそ妖しげな雰囲気で、この世のものとは思えなかった不気味なその蝶は、今では不可侵の太陽のごとく生命に満ち溢れた様をしており、この世にある何よりのご馳走に思えた。
頂きます、と蜘蛛がそれこそ心からそう思い鋏角を突き刺すと、それまでの生体が一転、蝶は平べったい宝石のような、重く白い石へと変わる。
石など到底食べられるものではないと、蜘蛛はにわかに絶望したが、しかし、よくよくと覗き込んでみれば、その白い石の中には微妙に色の異なる小さな光の粒が無数に灯っていて、その美しさと来たら、思わずかじりついてしまうほどだった。
そして、かじりついたその石は、実に美味だった。
それまでの怒りや憎しみ、絶望はどこへやら、蜘蛛は夢中になって石を食べ始める。見た目こそ無機質な石だったが、構造としては卵に似ており、周りの固い透明な空を割れば、中には実に美味な光の粒が沢山詰まっていた。
目で見て美しく、口で味わって実に美味なその石を食べ進めるうちに、蜘蛛はその石が魂と呼ばれるものであると理解していった。正確には結晶化した魂であって、御魂石と呼ばれるものだ。そして、先の透明な蝶が、この世そのものであったことを食し終えてから理解する。
白い石を食べ終わるとこの世から光と言うものが消失していた。蜘蛛はこの世の光と言うものを食べたのだ。それは目に見える光であると同時に、生体に宿る生命そのものでもあった。
光と命が絶えた暗闇の中、蜘蛛は糸を垂らして網から降り、地に落ちた残りの蝶に鋏角を次々刺しては赤や青、異なる色の石に変え、一つまた一つと食していった。その度にこの世からは万物のいずれかが消えていき、最後の重く黒い石を食し終えた頃には辺りは何もなく、蜘蛛は虚無の中に一匹取り残されていた。
かつてこの世があったその場所には、広いのか狭いのかも不確かで不安定な空間だけが残されていた。いや、ここを空間と呼べるのかどうかは分からない。ただ蜘蛛が居ると言うだけで、広がりなどは無いのかもしれない。
蜘蛛は知っていた。世界とは八百万も存在するもので、この世とは、魂の数だけ生じるものだ、と。主観の数だけこの世は存在し、しかし、死んで逝きつく先は同じ。あの世はただの一つしかなく、全ての世はあの世へと繋がっているのだ、と。
そして、蜘蛛が生まれ育ったこの世は、透明な蝶の群れが生み出した世であって、蜘蛛自身が中心となって創り上げた世界ではなかった。それもそのはずで、蜘蛛は自らの中の糸が切れるまで、魂と言うものを持ち合わせていなかったのだ。
だが、今の蜘蛛はもう、何かを思い感じられるだけの心を持っている。
魂を得た蜘蛛は、何もない虚無に向かって糸をこすりつけるように配置し、巨大な繭を創った。今となってはこの場所を知るのは蜘蛛ただ一匹だけで、蜘蛛はここを自分だけの世界にすることを決めたのだ。
ここには好きなものだけを集めよう。
蜘蛛は、石が好きだった。きらきらとそれ自体が光を持つ、色も形も様々な宝石よりも美しい石。それは結晶化した魂であって、御魂石と呼ばれるものであり、万物に通じる源を貯め込んだ一つの小宇宙と言える代物だった。蜘蛛はその石が大好物だった。
糸を垂らし、蜘蛛はあの世からこの世、この世からまた別のこの世へと渡り歩く。
そして、蜘蛛は行った先々で石を見つける度に、自分しか知らないあの繭の中へと隠していた。稀にその石を狙う輩が現れたりもしたが、蜘蛛は糸と毒と炎を用い、盗みを働こうとする不逞な輩をその都度追い払っていた。
時は経ち、十三度目の春を迎えた頃、繭の中に居る蜘蛛の前には、数えきれないほど沢山の御魂石が積まれ蓄えられていた。
2016.09.14 改行を加え、読みやすさを追求。