97 タナトス
終焉の天使が死んだ。
死の神であるタナトスはいち早くそれを察知することができた。
(くだらぬ。終焉が、終焉をもたらしていないとは)
どこまでも続く黒の空間で、タナトスはたった一つの命しか落とされていないという事実に、呆れたような息を零す。
(仕方ない。十分に、信仰も集まったことだ……我が、出るとしよう)
されど、タナトスの気分は悪くないようだった。ゆったりとした足取りで、死の神は黒の空間を進んでいく。
タナトスの歩む先には――加賀見太陽の存在する世界があった。
光に満ちた世界に、タナトスは躊躇なく足を踏み入れる。途端に見えたのは、地に膝をついて絶望するセラフィムと、満身創痍でありながらもなお健在の加賀見太陽であった。その他の存在は、タナトスによって知覚するまでもないと、無視する。
「あ? なんだ、お前……っ!?」
流石というべきか。始めにタナトスに気付いたのは加賀見太陽であった。
彼は神の到来を理解するや否や、即座に戦闘の態勢をとって警戒の色を浮かべる。
『我はタナトス。『死』の神である』
「お前が、神か」
名乗れば、途端に太陽はギラギラした視線を向けてきた。神を前に臆さない度胸に、タナトスは内心で大きく笑う。バカだが、悪くないと、太陽の評価を上方修正した。
『いかにも。我は神だ……汝には多いに興味があるが、今は別にやることがある。少し黙っていろ』
緩慢な動作で、タナトスは視線を横にずらす。加賀見太陽は様子を見て居るのか、動き出す気配はなかった。物分かりも良く、また短絡でもない太陽に、死の神は更に評価を上げる。
反して、すぐそこに膝をついて呆けるセラフィムの評価は……ダダ下がりであった。
『情けない。みっともなくて、仕方がない。だが、汝らの働きが素晴らしいものであったことは事実。そこはしっかりと、評価している』
「神よっ……嗚呼、神よ!」
神のお言葉に、自失していたセラフィムがいよいよ自壊したかのように表情を歪ませた。喜びとも哀しみにもとれる複雑な顔の天使に、神は慈悲をかける。
『もう休め。汝の信仰、誠に大儀であった』
最後に今までの働きを称えてから、タナトスは老人のようにしわくちゃの指をセラフィムに向ける。
それから、一言。
『【汝に、死を】』
ただ、それだけであった。たった一言、死ねと命令しただけである。
だというのに、これだけの行為で――セラフィムは、絶命した。
「…………」
糸が切れたように倒れ込んだセラフィムは、声を上げる間もなく光となって消えていく。舞い散る光の粒子が、セラフィムの死を証明していた。
死の神タナトスは、死を操ることができる。死後の魂を幸福に導くことも、生ある命に死を与えることも、なんだって可能なのだ。
「――っ」
セラフィムの死に加賀見太陽は目を見開く。魔族化しているはずの体が小刻みに震えていた。それほどまでに、眼前の神から感じた威圧感は凄まじかった。
「やばい」
ぽつりと、彼は呟いて。
「このままだと、やばい」
手に汗を握る彼は、あまり良くない頭を必死に動かして打開策を見つけようとした。指を向けただけで相手を殺す能力の持ち主を前に、生き残る術は――
「ないに決まってるだろうがっ」
自問自答。こんなチート野郎に勝てるかよと、太陽は自分を棚に上げて匙を投げる。
今の心境は、まさに今まで太陽と敵対した相手が抱いていた感情に他ならないのだが、それはともかく。
『まだ生きている天使にも、祝福を授けねばならんな……【天使一同に、死を】』
今度は手を広げて死を口にしたタナトス。祭壇にいる太陽達には分かり得ないことだが、この時天界に散らばっていた天使は全て死んでいった。タナトスによって、殺されたのである。
オファニムの役割だった『殲滅』をタナトスが代わりに果たした。もう天界に生き残っているのは、太陽とリリン、それからゼータしかいない。
(今度は、俺たちだ)
もうどうしようもなかった。死を宣告されたら最後、太陽達は何もできずに死んでいってしまうだろう。
だが、せめて犠牲は最小限であるように。目下のところ、死の神は太陽にしか興味がないようなので、彼は即座に自分の身を前に投げ出した。
一番初めに死ぬのは、自分であるように。
それで、飽きたタナトスが帰ってくれる可能性にかけて……リリンとゼータはせめて生かしたいと、太陽は死を覚悟した。
そんなことを思うまでに、タナトスは異常な存在だったのだ。
『さて、ようやく汝の番か』
老人のようにしわくちゃの顔で、にたりと笑うタナトス。
太陽はこの時、自分の死を実感して、生を諦めかけてしまう。
(くそ……やっぱり結局、童貞のまま死ぬのかよっ)
最後の後悔は本当にくだらないものだったが、太陽にとっては何よりも大切な事だったので仕方ない。
「まだ、死にたくなかったのに……!!」
童貞のまま死ぬのは嫌だ――と、そう心から叫んだその時。
『小僧、その願い……待っていたぞ?』
不意に響いたのは、タナトスとは違って元気そうなクソ爺の声。頭の中に直接聞こえてきたその声は、太陽の知っている存在のものだった。
「まさかっ……神様?」
首を傾げると同時。
『細かい話は後じゃ。とりあえず、お主達を――離脱させる』
太陽と、リリンと、ゼータは……天界から、姿を消すことになった。
後には、手を上げかけたタナトスのみが、残されるのみ。
全身をローブで覆った老人は、突然に消えた三人を見て……卑しい笑みを、浮かべるのだった。
『ゼウスか。やはり、加賀見太陽に執心のようだな』
タナトスに残念そうな様子はない。むしろ、喜ばしいと言わんばかりに、手のひらを見つめている。
『面白い…かなり、面白い。やっぱり、我がもらいたかった』
タナトスが想起しているのは、加賀見太陽の姿である。
前の世界で一度死んだ彼は、タナトスの手元に入るはずだった。あまりにも素晴らしい逸材に、タナトスはどう魂を使ってやろうかと悩んだほどである。
だが、そうこうしている内に、ゼウスが横取りしてしまった。
神と神の間にルールなど存在しない。あえて言うなら、それぞれが好き勝手に振る舞うことのみがルールともいえよう。故に、タナトスはゼウスを恨んではなかった。
逆に、ゼウスの手に加賀見太陽が渡ったことは、それはそれで悪くない事だとも思っているようで。
『とにかく、我を楽しませてくれれば良い』
そしてタナトスは、再び来るであろう加賀見太陽を待ち構えるべく、神殿に戻っていくのだった――




