65 おもらしリリンちゃんの慟哭
彼は問う。
「俺は、誰だ?」
大蛇は答える。
『知るか』
ロリサキュバスは口を挟む。
「……なんで、泣いてるの?」
「え? 俺、泣いてるのか?」
そこで彼は、自らが涙を流していることに気付いた。
目元に触れると、大粒の涙が指を濡らす。滂沱のごとき涙を流していたのだ。
「そうか、俺……悔しいんだ」
そうして、彼は理解した。
「名前なんて思い出せない。ここがどこかも分からない。なんか記憶があやふやだ。現状、何も俺には分かっていないけど……ただ一つ、分かっていることがある。それはっ」
グッと拳を握りしめて、彼は大きく叫ぶのであった。
「おっぱいを、触れそうだったということだ! お前が邪魔したんだろ、蛇……許さん。ぶっ殺す」
名前より、場所より、記憶より。
何よりも、彼はおっぱいが触れそうで触れなかったことに、悔しさを覚えているようだったのだ。
「え? そっち?」
ロリサキュバスのツッコみも、彼は聞こえていないようだ。
指を鳴らしながら、悪役のような形相で大蛇ウロボロスを睨んでいる。
『くだらん。愚かな人間め……信仰の欠片もない獣が、言葉を話すな』
ウロボロスはその人間を酷く不愉快そうに見つめていた。牙を剥いて今にも食い掛からんとしている。
「ひっ……」
剣呑な大蛇にロリサキュバスは恐怖を感じるが、一方の人間は平然としていた。
「は? 蛇に言われたくないんですけど。っつーか、爬虫類のお前こそ言葉喋ってんじゃねぇよ。蛇なら『キシャー』って鳴いてみろよ」
『哀れな……』
くいくいっと指を曲げて挑発する人間。大蛇ウロボロスは怒ってこそいないようだが、哀れみのせいか大きなため息をついていた。
『神は寛大だ。貴様のような愚か者であっても、救いの手を差し伸べてくれるだろう……とりあえず、死んで神の御許へ逝け』
次いで、大蛇は口を開けた。
人間一人なら余裕で丸呑みにできそうな大きさの咢に、しかし彼は臆さない。
「口臭いんですけど? 歯くらいちゃんと磨けよ」
やれやれと肩をすくめる人間に、大蛇ウロボロスは飛びかかった。
『死ね』
大蛇の身体がしなやかに跳ねて、彼に牙を突き立てる。
その動きはあまりにも洗練されていて、ロリサキュバスは動くこともできなかった。
(もういやぁ……)
涙を流して、目をきつく閉じる。
その瞬間であった。
「お前が死ね」
打撃音。ぐしゃりという破砕音。何かが飛んでいく風切り音。そして、地面を滑る擦過音。
予想外の音の連なりに、ロリサキュバスが目を開けると……
「……ぅぁ」
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「あー、むしゃくしゃする。お前さえいなければ、俺は今頃……っ! たぶん、おっぱいが触れた気がするのに!!」
頭の悪いことを口走るその人間は、未だ健在で。
対して、大蛇ウロボロスは祭壇の遥か遠くに吹き飛ばされていた。
別に難しい話ではない。
襲い掛かってきた大蛇を、人間が殴り飛ばしたというだけの話である。
ただ、相手はこの世ならざる禍々しさを持つ大蛇ウロボロスだ。
こんなにも簡単に、吹き飛ばすなど……普通の生物にできようか?
違う、そんなわけがないと、ロリサキュバスは思った。
(あたしは……『何』を、召喚したの?)
あの人間は何だ。
理解不能な存在を前に、ロリサキュバスは大きく胸を高鳴らせる。
(もしかして、あたしは……死ななくていいの?)
生贄にならないで良いのではないか。
あんな蛇に、食べられなくても良いのではないか。
そんな期待を、抱いてしまったのだ。
そして、彼女の期待は……やがて確信へと変わることになる。
『哀れなっ。愚かなる生き物が、神の御許へ導いてやると言っているのだぞっ? 抗うとは何事だ!』
「おいおい、押しつけがましいな……俺、母ちゃんに言われた気がするんだよ。『変な宗教には入るな』ってな!!」
叫ぶ大蛇に、今度は人間が飛びかかる。
祭壇から一跳びで大蛇に迫り、今度はウロボロスの腹部を蹴りつけた。
そのあまりの速度にウロボロスは反応すらできず、またしても攻撃を受けることになる。
『グッ……』
地面に身を打ち、大きく弾んだ大蛇。
しかし人間はここで攻撃の手を緩めない。おもむろに大蛇の尻尾を掴んで、ぶんぶんと振り回し始めた。
「むかつく! むかつくむかつくむかつく!!」
でたらめな怪力である。己の身の何倍もの大蛇を、いとも容易く弄んでいた。
まるで紐を振り回す子供のように、人間はウロボロスを地面に叩きつける。
『き、貴様ぁ……神の使いである我に、こんなことをしてただで済むと思っているのか!? 天罰がくだるぞ!!』
「ごめんな。俺、日本人だからあんまり宗教詳しくないんだ。だから死ね」
叫ぶ大蛇に容赦など見せず。
「せやっ!!」
大蛇を振り回し、今度は祭壇に投げつけてきた。
「ふぇっ!?」
突然飛んできた大蛇に面食らうロリサキュバス。祭壇の上から慌てて飛び降りると同時、ウロボロスが祭壇に激突した。
轟音とともに、祭壇にみりこんだウロボロス。
『神よ……神よ、神よ神よ!! どうか、どうかっ』
「祈りはもう終わったな? まあ、終わってなくても待たないんだけど」
天に叫ぶ大蛇に、人間は拳を引いて。
「喜べ。お前の大好きな神様のところに、連れていってやるよ!!」
おもいっきりに、大蛇の頭部にぶつけるのであった。
「――――っ」
瞬間、頭部が弾ける。
大蛇ウロボロスは紫色の血を撒き散らしながら、祭壇とともに崩れていったのだ。
「……何、これ」
絶望的な状況から一転。
突然現れた人間の手によって、ロリサキュバスは助かることになった。
もう生贄にならなくて良い。死ぬ必要などない。まだ、生きていられる。
そう実感すると同時に、ロリサキュバスは大粒の涙を浮かべてしまう。
「うぅ……っ」
目元をこすり、己の生を喜ぶロリサキュバス。
そんな彼女のもとに、先ほどまで暴れていた人間が歩み寄ってきて。
「なあ、ロリ。なんで俺、お前のところに召喚されたんだ?」
のほほんと、何事もなかったかのようにそんなことを聞いてくるのであった。
まるで、大蛇ウロボロスとの戦いはもう忘れてしまっているかのようである。
「そんなの、あたしが聞きたいくらい」
ロリサキュバスは気丈を振る舞って、涙を拭った。声が震えないように気を付けながら、一生懸命に胸を張ってみる。
そんな彼女を、人間はジッと見つめていた。
「な、何よっ」
「いや……その、さ。もしかして怖かったのか? や、怖がらせてごめんな」
いきなり謝ってくる人間に、ロリサキュバスはそんなことないと意地を張る。
「別に、怖くなんてなかったわよっ」
「うん。分かった分かった。お前は偉いよ……だから、さ。そんなに気にすんなよ? 大丈夫だ、それは仕方のないことなんだ」
様子のおかしい人間に、ロリサキュバスは首をかしげる。同時に、人間の視線が自らの下半身に向けられていることに気付いて。
つられるように、何気なく下半身を確認すると――
「っ!?」
そして、彼女は気付く。
自分の下半身。より具体的にいうならふとももから、温かい液体がぽたぽたと地面に垂れていた。
これは、いわゆる……
「おもらし、気にすんなよ」
「く、口に出して言わないでいいじゃないっ!!」
おもらしだった。恐怖のあまり、いつの間にかちびっていたようである。
途端に赤面したロリサキュバスは、ぱっと手で押さえてぺたりと座り込んでしまった。
もう涙は流れてしまっている。今度は恐怖や安堵ではない。恥ずかしさで、泣いてしまっていた。
「あ、あー……その、うん。強く生きろよ、おもらしちゃん」
「あたしはリリンよ! おもらしちゃんって呼ばないでっ」
ロリサキュバス――もといリリンは、人間に向かってそう叫ぶ。
出会いは、おもらしと共に。
最悪の出会いに、リリンは恥ずかしくて死にそうになるのだった――